第四幕:日曜お昼のボロネーゼ
第16話 結婚してください!
吐く息が白い。
オフィスに詰めっぱなしだったワタシにはお昼も寒かったのかどうか判らないけど、日が落ちてしまった今の方がきっと寒いんじゃないかと思う。
背中を丸めて、家路を急ぐ。と言っても、自分の部屋に帰る訳ではなく、お隣の部屋に……つまり萱代さんの部屋にお邪魔することになっている。そう、今日はパスタを教えてもらう日なのだ。
エレベーターを降り、萱代さんの部屋のインターフォンをならす。出迎えてくれた萱代さんの後に続いて、部屋の中へとお邪魔する。
「もう少しで終わるから、適当にしといて」
そう言うとデスクに座り、PCの画面をにらむ。どうやらまだ、仕事中のようだ。
「萱代さん、萱代さん。ねぇ、萱代さんってば!」
「なんだよ。待ってろって言っただろ」
仕事中の萱代さんにウザ絡みして、煙たがられるところまでがテンプレートだ。
けれども今日のワタシは一味違う。テンプレをなぞっただけで終わったりはしない。さすがの萱代さんも、これは予想してないはずだ。
「結婚してください!」
突然の求婚に視線を上げこそしたものの、やがて億劫だとばかりに視線を画面にもどしておもむろにつぶやく。
「断る」
待って!
慌てるとか、照れるとか、面くらうとか、もうちょっとソレっぽい反応ができないものだろうか。
「乙女の求婚を断るって、どういう了見ですか!」
「くだらない冗談に付きあうほど暇じゃないんでね」
そりゃ半分くらいは冗談だけど、半分くらいは本気なのだ。いや、結婚してほしいって意味ではなくて、一日だけ婚約者として振る舞ってほしい……って意味で。
「そんな風に断られると、さすがに女としての自信なくしますよ」
「自信があったとは驚きだね」
相変わらず憎たらしいことを言う……。
「自信も魅力も、あふれまくりですよ。ドバドバです」
「わかった、わかった。
そうなのだ。萱代さんは約束を守って、ここのところパスタの作り方を教えてくれている。先週に習ったパスタってなんだっけ……思い出しながらキッチンへ向かい、鍋を火にかける。
確かトマトソースのヤツだ。何だっけ……味は思い出せるけど名前が出てこない。
「師匠。先週のパスタって、なんて名前でしたっけ? あのピリ辛のヤツ」
「カレッティエラ。あと、師匠って呼ぶな」
「はーい、師匠」
そう、パスタ・アッラ・カレッティエラだ。日本語にすれば
おなじカレッティエラでも地域ごとに特色があるらしく、先週作ったのはトスカーナ式のカレッティエラだ。唐辛子とニンニクをきかせたトマトソースに、イタリアンパセリで香りと彩を加えた。ローマ式になるとここにツナやキノコが加わるのだそうだ。シチリア式はちょっと様子が違っていて、ニンニクを摺りつけたボウルでオリーブオイル、唐辛子、ペコリーノチーズ、そして茹でたてのパスタをあえて作るらしい。トマトソースは使わないそうだ。
スパゲッティやブカティーニという中空パスタを使うことが多いらしいけど、先週はフェデリーニを使った。つまり、フェデリーニ・アッラ・カレッティエラって訳だ。フェデリーニはスパゲッティよりも細いから、茹で時間がシビアだしのびてしまうのも早い。もたもたしていたら、あっという間に食べ頃をすぎてしまうのだ。つまり、ワタシの手ぎわを鍛えるために、フェデリーニが選ばれたという訳だ。
湯が沸くまでの間、ニンニクをみじん切りにして、タマネギも少量だけみじん切りにする。本来のレシピでは入れないらしいけど、少しだけタマネギで甘みを足すと美味しくなると師匠が言っていた……ような気がする。
仕上げに使うイタリアンパセリを刻んでいると、不意に昨夜の母からの電話を思いだした。着信を告げるスマートフォンの画面に母の名前を見たとき、悪い予感しかしなくて無視しようかとも思った。けれども、何度もかけ直されてはたまらないと、覚悟を決めて緑色のボタンをタップしたのだった。
悪い予感というものは、往々にして的中するものらしい。
「あ、百合ちゃん? まだ再婚しないの?」
開口一番これである。
親子のあいだに堅苦しい挨拶なんていらない……とは言うものの、いきなりデリケートな本題をブッ込んでくるのは如何なものだろうか。
「そんなの、まだ考えてないよぉ」
「早くしないと、いつまでも若くないのよ」
若くないと言われてしまえば、三十路が見えてきた身としては返す言葉がない。
今どきの感覚から言えば、三十なんてまだ若い、しかしながら、そんなのは都会人の感覚だ。田舎で生まれ育った母からすれば、三十なんて完全な行きおくれなのだ。
田舎の結婚は早い。同級生の中には、すでに小学生の子供の母となっている友人だっている。地元の友達の結婚・出産情報は、ことあるごとに母が教えてくれる。まったく要らぬ世話である。
「彼氏でもいれば、少しは安心なのにねぇ……」
電話の向こう、ため息まじりに母がつぶやく。
なんだ、彼氏がいるだけで安心してくれるのか。だったら話はカンタンだ。
「いるよ。彼氏」
ただし脳内彼氏だけどね……心の中でそっと付けたす。
二次元の彼氏だろうが妄想の彼氏だろうが、とにかく彼氏がいるって事にしておけば再婚を迫られることはないだろう。このままだと、見合いしろって話になりかねない。
「あら、いつの間に?」
「彼氏って言うか婚約者。だから再婚の心配なんて、しなくても大丈夫だよ」
「あらあら、まぁまぁ……」
嬉しそうな母の声。どうやら、作戦成功のようだ。
「それじゃ、挨拶に伺わなきゃね」
あ、挨拶だと!?
母の一言に、時が止まる気がした。
「駄目だよ。そんなの早いって!」
どうやって脳内の彼氏に引きあわせろというのか。
「どうして? 結婚の約束してるんでしょ?」
「時機をみてそっちに帰るから。それまで待っててよ」
帰省を急かされるようなら、別れてしまったことにすれば良い。とにかく今は、かせげるだけの時間をかせがなくては。
「今週の週末、百合ちゃんとこ行くからね。その時に紹介してね」
「こ、今週!?」
思わず声が裏がえってしまった。いくらなんでも早すぎる。
「と、遠いんだからさ。わざわざ出てこなくても大丈夫だよ」
「いいの、いいの。どうせお見合い写真もって行こうと思ってたから」
お見合い写真……だと!?
彼氏の話が嘘だとバレたら、お見合い直行コースだ。母が持ってくるお見合いなんて、地元の縁談に決まっている。まずい! 地元に連れ戻される!
「お見合いとか、何言ってるかなー。彼氏いるから、必要ないかなー」
「そうよね。じゃ、来週そっち行くからね。彼氏さんにもよろしく」
そう言うと母は、泊まるホテルを告げて電話を切ってしまった。
気がつけば、鍋に沸く湯をぼんやりとながめていた。
いかん、いかん。呆けている場合じゃない。パスタを作っている最中なのだ。今は眼の前のパスタに集中しなくては!
沸騰した湯に塩を入れ、フェデリーニを茹ではじめる。スパゲッティよりも茹で時間が短いし、今回はアルデンテで上げたい。ここからは時間との勝負だ。
フライパンにオリーブオイルをたっぷりひいて、刻んだニンニクとタマネギを入れて火にかける。ペペロンチーノを千切ってフライパンに入れる頃には、キッチンに芳ばしいニンニクの香りが広がっていた。
冷蔵庫からトマトソースを取り出す。トマトソースと言っても、ホールのトマト缶をブレンダーでつぶしただけのものだ。ニンニクが色づきはじめる頃合いで、フライパンに茹で汁を入れてさらにトマトソースを加える。オイルが爆ぜてトマトが沸きたつ。香りだけじゃない、音まで美味しそうだ。フツフツと沸く真っ赤なソースが、朱色がかってくれば完成だ。
ソースの完成と同時に、フェデリーニが茹であがる。我ながらいいタイミングでソースを仕上げることができた。フェデリーニを沸き立つソースの中へ。フライパンをあおってソースを絡める。火を止め刻んだイタリアンパセリと仕上げのオリーブオイルを振りかけ、もう一度フライパンをあおって全体をまとめる。温めておいたお皿に盛り付ければ完成だ。
「師匠、できましたよ。採点してください!」
「おぅ、いま行く」
急いでテーブルについた萱代さんが、早速フェデリーニをフォークに巻きつける。熱い物は熱いうちに……タイミングを逃してしまうと、美味しさを逃してしまう。
「意外だな……悪くない」
「やった! 本当ですか!?」
めずらしく好感触だ。嬉しくなってしまい、ワタシもテーブルについてパスタを頬ばる。
美味しい……。
トマトの酸味とタマネギの甘みのバランスも良いし、辛さだってちょうど良い。フェデリーニの食感は、スパゲッティになれた私には不思議な感覚だ。スパゲッティと比べると歯ごたえは小さいのだけれど、プツプツと何本もの麺を噛みちぎる感覚は細麺でしか味わえない食感なのだろう。
「悪くないんだけどさ、後は手際の問題かな……」
きた。恐怖のダメ出しタイム。
タマネギとニンニクの刻み方が均一でないため火のとおり加減にムラがあること、そしてパスタに火がとおり過ぎていることを指摘された。良かった。今日の指摘はふたつだけだ。
「でも、ちゃんとアルデンテであげましたよ?」
スパゲティは芯がなくなるまで茹できれという師匠だけど、フェデリーニは芯を残してアルデンテであげろという。
「その後の手際だろうな。スパゲッティより火が通りやすいから、手間どってたらあっという間に食べ頃をすぎてしまう」
「手際……ですか」
ソースをうまく絡めようと、四苦八苦したのが悪かったのだろうか。
「まだ考えながら作ってるでしょ」
「考えながら?」
「次にアレやって、次にコレやって……あ、アレやるの忘れてた! みたいなやつ」
「そりゃそうですよ。自慢じゃないですけど必死ですから」
「考えなくても、体が勝手に動くくらいじゃないとね。そうすれば、食材の状態を見る余裕だってでてくる」
「それ、難しくないです?」
「難しくなんかないよ。結局は慣れなんだからさ、数を作るだけで解決する」
ごもっともなアドバイスだ。最近ようやく、プロとアマチュアの違いってこういう所なのかなと思うようになってきた。才能の違いだって、もちろんあると思う。でも、こなしている数が圧倒的に違うのだ。
何気なく仕上げたように見えるパスタの一皿だって、その陰には何百、何千という積み重ねがあって、一皿つくるごとに一段だけ上達の階段を上るのだ。きっと近道みたいなものなんてないのだと思う。
「物思いにふけってるところ悪いんだけどさ……」
パスタを食べ終わった萱代さんが、いぶかしげな表情でワタシを見つめていた。
「え、なんです? なにか怒ってます?」
「いや、怒っちゃいないけど。さっきのアレ……何?」
「アレって?」
「結婚してってやつ」
パスタの仕上がりに気を良くして、すっかり忘れていた。そうだった。萱代さんに婚約者を演じてもらわなくてはいけないのだった。
「あー。アレはその、何て言うか……母が上京するんですよね」
萱代さんに、母からの電話のことを説明する。
週末に母が上京したら、ワタシの婚約者を演じてほしいとお願いしたのだけれど……予想通りと言うか何と言うか、迷惑そうに断られてしまった。
「正直に言うべきだと思うけどね。婚約者どころか、恋人も居ませんって」
それが言えないから困っているのだ……。
「そんなことしたら地元でお見合いさせられて、田舎に強制送還ですぅ……」
「良いじゃん、田舎暮らし。憧れるけどね」
あ、駄目だ。田舎で暮らしたことがない人の言葉だ。田舎で暮らす不便さと閉塞感を知らないから、憧れるだなんて気楽なことが言えるのだ。
「とにかくワタシは、田舎に帰りたくないんです。協力してくださいよぉ……」
「嫌だね。他を当たってくれ」
こんな風に言い切る萱代さんにどれだけ頼みこんだところで、意見をかえることなんて絶対にない。それくらいのことは、この半年の付き合いの中で学習している。
「えー、困ったなぁ……」
「それにその日は仕事なんだよね。季里と一緒にクライアントと会う予定になってるから、どのみち無理だな」
こうしてワタシの『お見合い回避大作戦』は、プラン変更を余儀なくされたのであった。
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