第15話 もうひとつのジェノベーゼ
「ジェノベーゼは、ナポリ料理だよ」
「ちょっと待ってぇな。ツッコミが追いつかへんわ。ジェノヴァ風のナポリ料理やて? ブルーノはん、故郷のジェノヴァ料理が食べたかったんと違うんかいな」
突然話を向けられたブルーノさんは慌てることもなく、同じ調子でお肉を口に運びながらつぶやいた。
「ワタシはジェノベーゼ食べたかったです。故郷の料理食べたい違いますね」
つまりジェノベーゼを食べたいとは言ったけど、故郷の料理が食べたいとは言っていない……そういうことだろう。ジェノベーゼという名前に惑わされて、ワタシたちが勝手に勘違いしていただけのようだ。
「でも、どうしてナポリ料理に、ジェノベーゼなんて名前を付けたんでしょうね」
「諸説あってハッキリしないんだよね。ナポリにやって来たジェノヴァの料理人が作った料理だからだとか、この料理を考案した料理人がジェノベーゼって名前だったからだとか……」
「こんな話もありますね。ジェノヴァ人、ケチで有名です。安いタマネギをたくさん使うケチの料理だから、ジェノベーゼと名前つけました」
あ、そうなんだ。ケチだって自覚はあるんだ……。
「ジェノベーゼほどバリエーションに富んだ料理もなくて、ナポリじゃどのレシピが良いかで争いが起こるくらいだ。みんな、自分のレシピが一番だと信じているんだね」
「そんなに種類があるんですか?」
「それこそ、料理人の数だけあるね。牛肉の部位はどこがいいとか、牛だけじゃなくて豚も使うとか、何種類かの部位をブレンドしたほうが良いとか、セロリを入れるだとか、ニンジンはどうだとか、トマトはどうだとか、白ワインに限る、いや赤ワインだとか……言い出したらきりがない」
「それだけ、ナポリ人に愛されている料理なんですね」
「あぁ、そういうことだ」
ジェノベーゼの謎も解けて、お腹もふくれて満ち足りた気分で一息ついた。
この後、マスターお手製のティラミスが振る舞われ、最後は珈琲で締めとなった。
ブルーノさんは大満足の様子で、終始上機嫌だった。そして帰り際、萱代さんと別れの握手を交わしながら言った。
「あなたの作ったジェノベーゼ、とっても美味しかった」
「喜んでいただけたのなら良かった」
「昔、ナポリで同じ味を食べたことありますね」
その言葉を聞いて、萱代さんの表情がくもる。
「十年くらい前、ナポリのリストランテに腕の良い料理人がいると聞いて食べに行きました。そのとき食べたジェノベーゼ、今日と同じ味でした。作った料理人、日本人だと聞いています。……萱代さん、十年前ナポリに居ましたか?」
ブルーノさんの話を苦々しい表情で聞いていた萱代さんは、ため息を一つついて肩をすくめた。
「人違いでしょう。ナポリなんて行ってないし、それに俺は料理人じゃない」
いぶかしげな表情で、ブルーノさんが見つめていた。萱代さんは素知らぬ顔で、視線をかわしている。
「……そうですか。本人が違うと言うのだから、人ちがいでしょう。ナポリで食べたジェノベーゼ美味しかった。でも、ソースの秘密わからない。ワタシの知らない味、隠し味が入ってました。十年間ずっと気になってる。今日のジェノベーゼ、同じ秘密ありました。ソースは料理人の命。教えられないの解ってます。でも知りたい。教えてくれませんか?」
祈りでも捧げるかのように、胸の前で手を組んで
やがて頭をかきながら、萱代さんが苦笑交じりに口を開いた。
「ナポリの料理人の隠し味が何だったのかは知りませんが、今日の隠し味はそんな大層なものじゃない。秘密でもなんでもないですよ」
「それでは、教えて……いただけますか?」
期待に目を輝かせて、ブルーノさんが一歩前へと歩みでる。
「サルサ・ディ・ソイア。ナポリ料理としてはルール違反かもしれませんが、サルサ・ディ・ソイアを少しだけ……」
そう言いながら、萱代さんがいたずらっぽい笑顔をむける。
「なるほど、サルサ・ディ・ソイア……それはワタシには判らない。長い間の謎が解けました。ありがとう萱代さん」
萱代さんと固く握手を交わすと、ブルーノさんは玻璃乃と左京寺くんとともにお店を後にした。
スターヒルに、いつもの静寂が戻ってくる。萱代さんはカウンターの席に座ると、マスターに珈琲のお代わりをたのんだ。一息ついていると、ブルーノさんを見送った玻璃乃と左京寺くんが帰ってきた。
「ところで萱代さん。サルサなんとかって、何なんですか?」
ずっと気になっているのだ。今日の料理の隠し味とやらが。
「サルサ・ディ・ソイアね」
「それです、それ。教えてくださいよ」
「サルサはソースのことで、ソイヤは大豆。もう判るだろ?」
「大豆のソースって……豆乳?」
「なんでやねん! 醤油やろ!」
萱代さんがツッコむより先に、玻璃乃のツッコミが飛んできた。
「正解。醤油だよ」
驚いた。まさか日本の食材だとは思わなかった。だからブルーノさんには、何の味だか判らなかったのか。
「イタリア料理に、お醤油なんて使うんですね」
「普通は使わないね。お固く考えればルール違反だよ。でもまぁ、美味しくなるんだから良いんじゃないのかな。牛肉と醤油は相性が良いしね。伝統的なレシピに敬意をもって作るのであれば、ある程度の冒険は許されると思うよ」
言われてみればその通りだ。伝統的なレシピ意外は認めないのであれば、その料理はそれ以上の広がりを持つことはない。場所が変わり、素材が変わっても、受け継がれてきたレシピへの敬意をもって作るのであれば、それはイタリア料理たりえるのだろう。
たとえばナポリの食材と調味料を用いなければナポリ料理と呼べないのかと言われればそんなことはなくて、たとえ日本の食材と調味料を用いようとも、ナポリの精神を受け継いで作るのであれば、それはきっとナポリ料理なのだ。
萱代さんがワタシにパスタを教えてくれるとき、材料や作り方だけを教えておしまいなんてことは絶対にない。その料理が生まれた背景や歴史、地元の人がどんな風に食べているか……そして食材一つ一つに対しても、その背景を教えてくれる。
きっと、料理を学ぶってそういうことなんだ。何ヶ月もかけて、やっと解ってきた気がする。食は文化だ。当たり前すぎて深く考えることなんてなかったけど、やはり食は文化なのだ。長い時間をかけて人々が暮らしの中で形づくり、受けついできた歴史なのだ。きっと料理を学ぶということは……たとえばナポリの料理を学ぶということは、ナポリの歴史を学び、文化を身につけることに他ならないのだろう。
とまぁ、珍しく真面目に独りで盛り上がっていたのだけれど、マスターが目の前に珈琲をサーブしてくれて我に返った。
「どうしましょうか。例の……」
「あぁ、すっかり忘れてたよ」
マスターが声を抑えて、萱代さんに何やら耳うちしている。
「何を忘れてたんです?」
「あれ? 聞こえちゃった?」
失敗したとでも言わんがばかりに、萱代さんが眉根を寄せる。
「ほら、今日ってラグーまで出すつもりなかったからさ、重めのドルチェを用意してたんだよね」
「それじゃ、あのティラミスって……」
「予定を変更して、スターヒル名物のティラミスを食べてもらったって訳」
「えー、それじゃ、食べさせてくださいよ。その本命ドルチェとやらを」
「さすがに、お腹一杯でしょ?」
「確かに満腹ですけど、甘いものは別腹なんで大丈夫です!」
甘いものと聞いては、無理してでも食べたくなってしまう。
「まぁ、そう言うなら食べてもらおうか……」
呆れたようにため息をつくと、萱代さんはマスターにドルチェを出すよう伝えた。
しばらくして運ばれてきたのは、握りこぶし大の丸い焼き菓子だった。たっぷりと粉砂糖がまぶされた菓子の真ん中がプックリと膨れていて、まるでUFOのようだ。
「手づかみで、ガブッといっちゃって」
萱代さんに勧められるがまま丸いお菓子を手に取ると、シッカリとした硬さが指先に伝わってきた。まるでクッキーのような質感だ。大きく口を開けてかじりつく。ザックリとした歯ごたえ。中からクリームがあふれ出す。卵のコクと爽やかなレモンの香り……サクサクの生地とクリームのハーモニーが素晴らしい。噛むたびに甘酸っぱいクリームの中で、ザクザクと生地が砕けていく。
「美味しい! 何ですかこのお菓子!」
「ジェノベーゼさ。シチリア島のエーリチェという街の名物菓子だ」
「へぇ、これもジェノベーゼって名前なんですか!?」
「そうだよ。レモン風味のカスタードクリームを、デュラム・セモリナ粉で作ったサブレで包んである。素朴な菓子だけど、なかなか旨いだろ?」
「美味しいですよ!」
お世辞でもなんでもなく、本当に美味しい。クリームの甘酸っぱさもさることながら、小麦とバターが香りるサブレがたまらない。
「これって、もしかして萱代さんが作ったんですか?」
「そうだけど?」
「へぇ、お菓子も作るんですね……」
「本職にはかなわないけどね。簡単なものなら」
本職の菓子職人には……という意味だろうか。ふと、ブルーノさんが言っていた、ナポリの日本人料理人のことが頭をよぎる。十年前その料理人は、萱代さんと同じ味のジェノベーゼを作ったという。その料理人は、十年前の萱代さんなのだろうか。もしかして、料理修業のためにイタリアへ渡っていたとか……。
だとすれば、イタリア料理への
「ところでシチリアのお菓子に、どうしてジェノベーゼなんて名前がついたんでしょうね」
「これも諸説あって判らないんだよね。ジェノヴァ兵の帽子に形が似てるから、なんて話もあるけど」
「兵隊さんの帽子ですか……」
ジェノベーゼと名付けられた料理とお菓子。遠く離れたナポリとエーリチェで名前を付けられる程に、当時ジェノヴァの影響力は大きかった……そういうことなのだろう。
世界史なんて苦手だったし、イタリアの歴史なんてほとんど頭に入っちゃいないけど、食の面から学びなおしてみるのも、面白いんじゃないかな……そんな風に思う今日このごろなのだ。
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