第15話 もうひとつのジェノベーゼ

「素材の味をストレートに楽しめるよう、今回はシンプルなレシピで仕立てた。使う肉に決まりはないけど、煮込みだから硬くて筋がおおい部位が旨いね。今回は牛のスネ肉を使ったよ。肉の一.五倍のタマネギを炒めて甘さを引き出した後、表面を焼いた肉と合わせてワインと水で煮込んでいく。味をしめるために、少しだけトマトを加えた」

 なるほど。スネ肉のスジを煮込むと、こんなにネットリとした美味しさを生むのか。

 萱代さんが説明してくれたレシピは、とてもシンプルだ。けれどもシンプルな料理ほど難しくて、経験がないと美味しく仕上げられない。このことは、この半年で思い知らされている。師匠の腕前には、舌をまくばかりだ。

「旨いなぁ。これが本場ジェノヴァの味やねんな」

「おいおい。ジェノベーゼはジェノヴァ料理じゃないぞ」

「はぁ? ほな、どこの料理やねんな!?」

 玻璃乃が不思議そうに眉根をよせる。

「ジェノベーゼは、ナポリ料理だよ」

「ちょっと待ってぇな。ツッコミが追いつかへんわ。ジェノヴァ風のナポリ料理やて? ブルーノはん、故郷のジェノヴァ料理が食べたかったんと違うんかいな」

 突然話を向けられたブルーノさんはあわてることもなく、かわらぬ調子でお肉を口に運びながらつぶやいた。

「ジェノベーゼ食べたかったです。故郷の料理食べたかったと違いますね」

 つまりジェノベーゼを食べたいとは言ったけど、故郷の料理が食べたいとは言っていない……そういうことだろう。ジェノベーゼという名前にまどわされて、ワタシたちが勘ちがいしていただけのようだ。

「でも、どうしてナポリ料理に、ジェノベーゼなんて名前を付けたんでしょうね」

「諸説あってハッキリしないんだよね。ナポリにやって来たジェノヴァの料理人が作ったからだとか、この料理を考案した料理人がジェノベーゼって名前だったからだとか」

「こんな話もありますね……」

 そう言って、ブルーノさんが解説をつけ加える。

「ジェノヴァ人、ケチで有名です。安いタマネギをたくさん使うケチの料理だから、ジェノベーゼと名前つけました」

 あ、そうなんだ。ケチだっていう自覚はあるんだ……。

「ジェノベーゼほどバリエーションに富んだ料理もなくて、ナポリじゃどのレシピが良いかで争いが起こるくらいだ。みんな、自分のレシピが一番だと信じているんだね」

「そんなに種類があるんですか?」

「それこそ、料理人の数だけある。牛肉の部位はどこがいいとか、牛だけじゃなくて豚も使うとか、何種類かの部位をブレンドしたほうが旨いとか、セロリを入れるだとか、ニンジンはどうだとか、トマトはどうだとか、赤ワインに限る、いや白ワインだとか……言い出したらきりがない」

「それ程のこだわりをもって、ナポリ人が愛している料理なんですね」

「あぁ、そういうことだ」

 ジェノベーゼの謎も解けて、お腹もふくれて満ちたりた気分で一息ついた。

 この後、マスターお手製のティラミスが振るまわれ、エスプレッソで締めとなった。

 ブルーノさんは大満足の様子で、ずっと上機嫌だった。そして帰り際、萱代さんと別れの握手をかわしながら言った。

「あなたの作ったジェノベーゼ、とっても美味しかった」

「喜んでいただけたのなら良かった」

「昔、ナポリで同じ味を食べたことありますね」

 その言葉を聞いて、萱代さんの表情がくもる。

「十年くらい前、ナポリのリストランテに腕の良い料理人がいると聞いて食べに行きました。そのとき食べたジェノベーゼ、今日と同じ味がしました。作った料理人、日本人だと聞いています。……萱代さん、十年前ナポリに居ましたか?」

 ブルーノさんの話を苦々しい表情で聞いていた萱代さんは、ため息を一つついて肩をすくめた。

「人違いでしょう。ナポリなんて行ってないし、それに俺は料理人じゃない」

 いぶかしげな表情で、ブルーノさんが見つめていた。萱代さんは素知らぬ顔で、視線をかわしている。

「……そうですか。本人がちがうと言うのなら、人ちがいでしょう。ナポリで食べたジェノベーゼ、とても美味しかった。でも、味の秘密わからない。ワタシの知らない味、隠し味が入ってました。十年間ずっと気になってる。今日のジェノベーゼ、同じ秘密ありました。料理の秘密、教えられないの解っています。でも知りたい。教えてくれませんか?」

 祈りでもささげるかのように、胸の前で手をくんで懇願こんがんしている。あまりに真剣に頼むものだから、萱代さんは困り顔だ。

 やがて頭をかきながら、萱代さんが苦笑まじりに口を開いた。

「ナポリの料理人の隠し味が何だったのかは知りませんが、今日の隠し味はそんな大層なものじゃない。秘密でも何でもないですよ」

「それでは、教えていただけますか?」

 期待に目を輝かせて、ブルーノさんが一歩前へと歩みでる。

「サルサ・ディ・ソイア。ナポリ料理としてはルール違反かもしれませんが、サルサ・ディ・ソイアを少しだけ……」

 そう言いながら、萱代さんがいたずらっぽい笑顔をむける。

「なるほど。サルサ・ディ・ソイア……それはワタシには判らない。長年の謎が解けました。ありがとう萱代さん」

 萱代さんと固く握手をかわすと、ブルーノさんは玻璃乃と一緒にお店を後にした。

 スターヒルに、いつもの静寂がもどってくる。萱代さんはカウンターの席にすわると、マスターに珈琲のお代わりをたのんだ。

「萱代さん。サルサ何とかって、どんな物なんですか?」

 さっきから、ずっと気になっているのだ。今日の料理の隠し味とやらが。

「サルサ・ディ・ソイアね」

「それですよ、それ。教えてくださいよ」

「サルサはソースのことで、ソイアは大豆。もう解るだろ?」

「大豆のソースって……豆乳?」

「何でだよ! 醤油だろ」

 めずらしく萱代さんから、玻璃乃ばりの激しいツッコミが飛んできた。

 驚いた。まさか日本の調味料だとは思わなかった。だからブルーノさんには、何の味だか判らなかったという訳か。

「イタリア料理に、お醤油なんて使うんですね」

「普通は使わないね。お固く考えればルール違反だよ。でも、美味しくなるんだから良いんじゃないのかな。牛肉と醤油は相性が良いしね。伝統的なレシピに敬意をもって作るのであれば、ある程度の冒険は許されると思うよ」

 言われてみればその通りだ。伝統的なレシピ意外は認めないのであれば、その料理はそれ以上の広がりを持つことはない。場所がかわり、素材がかわっても、受けつがれてきたレシピへの敬意をもって作るのであれば、それはイタリア料理たりえるのだろう。

 たとえばナポリの食材と調味料を用いなければナポリ料理と呼べないのかと言われればそんなことはなくて、たとえ日本の食材と調味料を用いようとも、ナポリ人たちの精神と伝統を受けついで作るのであれば、それはきっとナポリ料理なのだ。

 萱代さんがワタシにパスタを教えてくれるとき、材料や作り方だけを教えておしまいなんてことは絶対にない。その料理が生まれた背景や歴史、地元の人がどんな風に食べているか……そして食材一つ一つに対しても、その背景を教えてくれる。

 きっと、料理を学ぶというのは、そういうことなのだ。何ヶ月もかけて、やっと解ってきた気がする。食は文化だ。当たり前すぎて深く考えることなんてなかったけど、やはり食は文化なのだ。長い時間をかけて人々が暮らしの中で形づくり、受けついできた歴史なのだ。きっと料理を学ぶということは……たとえばナポリの料理を学ぶということは、ナポリの歴史と文化を学ぶことに他ならないのだろう。

「どうしましょうか。例の……」

 声をおさえて、マスターが何やら萱代さんに耳うちしている。

「あぁ、すっかり忘れてたよ」

「何を忘れてたんです?」

「あれ、聞こえちゃった?」

 失敗したとでも言わんがばかりに、萱代さんが眉根を寄せる。

「今日はラグーまで出すつもりなかったから、重めのドルチェを用意してたんだよね」

「それじゃ、さっきのティラミスって……」

「予定を変更して、スターヒル名物のティラミスを食べてもらったって訳」

「えー、食べさせてくださいよ。その本命ドルチェ」

「さすがに、お腹一杯でしょ?」

「満腹ですけど、甘いものは別腹なんで大丈夫です!」

 甘いものと聞いては、無理してでも食べたくなってしまう。

「そこまで言うなら用意するけど、本当に大丈夫?」

 あきれたようにため息をつくと、萱代さんはマスターにドルチェを出すよう伝えた。

 しばらくして運ばれてきたのは、握りこぶし大の丸い焼き菓子だった。たっぷりと粉砂糖がまぶされた菓子の真ん中がプックリと膨れていて、まるでUFOみたいだ。

「手づかみで、ガブッといっちゃって」

 萱代さんに勧められるがままお菓子を手に取ると、シッカリとした硬さが指先に伝わってきた。まるでクッキーのような質感だ。大きく口を開けてかじりつく。ザックリとした歯ごたえ。中からクリームがあふれ出す。卵のコクと爽やかなレモンの香り……ザクザクとした生地とクリームのハーモニーが素晴らしい。噛むたびに甘酸っぱいクリームの中で、小気味よく生地がくだけていく。

「美味しい! 何ですかこのお菓子?」

「ジェノベーゼさ。シチリア島のエーリチェという街の名物ドルチェだ」

「へぇ! これもジェノベーゼなんですか!?」

「そうだよ。レモン風味のカスタードクリームを、デュラム・セモリナ粉で作ったサブレで包んである。素朴な焼菓子だけど、なかなか旨いだろ?」

「美味しいです!」

 お世辞でもなんでもなく、本当に美味しい。クリームの甘酸っぱさもさることながら、小麦とバターが香るサブレがたまらない。

「これってもしかして、萱代さんが作ったんですか?」

「そうだけど?」

「へぇ、お菓子も作るんですね!」

「本職にはかなわないけどね。簡単なものなら」

 ふと、ブルーノさんが言っていた、ナポリの日本人料理人のことが頭をよぎる。十年前その料理人は、萱代さんと同じ味のジェノベーゼを作ったという。その料理人は、十年前の萱代さんなのだろうか。もしかして、料理修業のためにイタリアへ渡っていた?

 だとすれば、イタリア料理への造詣ぞうけいの深さにも納得ができる。しかし、萱代さんはキッパリと否定していた。本人が違うと言うのだ。よけいな詮索なんて、しない方が良いに決まっている。

「シチリアのお菓子に、どうしてジェノベーゼなんて名前がついたんでしょうね」

「これも諸説あってはっきりしないんだよね。形がジェノヴァ兵の帽子ににてるから……なんて説もあるけど」

「兵隊さんの帽子ですか……」

 ジェノベーゼと名付けられた料理とお菓子。遠く離れたナポリとエーリチェで名前を付けられる程に、当時ジェノヴァの影響力は大きかった……そういうことなのだろう。

 世界史なんて苦手だったし、イタリアの歴史なんてほとんど頭に入っちゃいないけど、食の面から学びなおしてみるのも、面白いんじゃないかな……そんな風に思う今日このごろなのだ。


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