第14話 茶色いジェノベーゼの謎

 奥の厨房から戻ってきた萱代さんが、カウンターの内側に立って一つ手を打ちならす。

「さぁ、パスタが茹で上がる間に、おさらいをしておこうか」

「おさらい?」

「そう、ジェノベーゼが食べたいと言ったブルーノさんに、バジルソースのパスタをご馳走した……そうだったよね?」

 萱代さんの問いかけに、玻璃乃と左京寺くんがうなずく。

「とても美味しいパスタでしたね。日本で美味しいバジル食べられると思わなかった」

「でも、食べたいパスタではなかった。そうですよね?」

「そうです。ワタシ、ジェノベーゼ食べたいです」

 ワタシたちがご馳走したのは、ジェノベーゼじゃないとブルーノさんは言う。だとしたら、あのパスタは一体なんだったのだろうか。

「ブルーノさん。この前食べたバジルのパスタ、イタリアで何と呼びますか?」

「あれは『パスタ・アル・ペスト』ですね」

「ペスト? ジェノベーゼじゃないんですか!?」

 驚いて思わず大きな声がでてしまった。

「ジェノヴァのバジルで作るペストを『ペスト・ジェノベーゼ』と言います」

「なんや、ややこしいな。解らんようになってきたで……」

「ペストだけど、ジェノベーゼ……なんですか?」

 訳が解らずに頭を抱えているのはワタシだけじゃなくて、玻璃乃と左京寺くんも不思議そうな顔をしている。ジェノベーゼじゃなくてペスト、でもペスト・ジェノベーゼ……考えるほどに混乱してしまう。

 ワタシたちの疑問に答えるため、ふたたび萱代さんが語り始める。

「バジルをすり潰して作る緑色のソースは、ジェノベーゼじゃなくて『ペスト』なんだ。ジェノヴァのバジルを使って定められたレシピで作られたものだけが、『ペスト・ジェノベーゼ』を名乗ることができる。日本ではなぜかその辺が混同されてしまって、バジルの緑色のソースがジェノベーゼだということになってしまっているんだ」

「え? みんなが間違っちゃってるんですか?」

「そうだね。日本で書かれたイタリア料理のガイドやレシピでは、ペストをジェノベーゼという名前で紹介しているものが多いしね」

 ウェブで検索したときも、その通りだった。ジェノベーゼというワードで検索したら、緑色のソースばかりが……つまりペストばかりが並んだ。そうか、間違いが間違いのままで広がってしまって、そのまま定着してしまっているのか……。

「ペスト・ジェノベーゼという呼称は、原産地名称保護制度で保護されてるんだ。ジェノヴァ産のバジルを使っていなければ、ペスト・ジェノベーゼを名乗ることはできないから単にペストと呼ぶ。そして定められたレシピが守られていなければ、同じくペスト・ジェノベーゼを名乗ることはできない。オリーブオイルを他のオイルにしたり、松の実を他のナッツに変更すれば、たとえジェノヴァ産のバジルを使っていたとしても、それは単なるペストなんだ」

「ほぉ、厳しいんやなぁ……」

 感心して玻璃乃が深くうなずいている。

「イタリア人、食べること好きですね。だから厳しいです。きちんとします」

 誇らしげに、ブルーノさんが説明してくれる。

「これくらいきちんとしていれば、産地偽装なんて起きないんでしょうね」

「そうだね。制度が産地を保証しているからね。でも、ジェノヴァ風ペストという意味で『ペスト・アッラ・ジェノベーゼ』なんて紛らわしい名前で呼ばれることもあるから注意が必要だね」

 そこまで説明すると萱代さんは時計を見やり、パスタの仕上げのために厨房へと姿を消した。どうやらそろそろ、パスタが茹であがる時間らしい。

 バジルを使った緑色のソースは『ペスト』、そしてジェノヴァのバジルを使って定められたレシピ通りに作られたソースが『ペスト・ジェノベーゼ』……なるほど、理解した。 

 では、ブルーノさんが食べたいジェノベーゼというのは、どんな料理なのだろうか……厨房からかすかにソースの香りが漂ってくる。萱代さんが当たらずとも遠からずと言った、あの牛丼のような香りだ。美味しそうな香りに、期待は高まるばかりだ。

「おまたせ。これがパスタ・アッラ・ジェノベーゼだ」

 みんなの前に次々とサーブされる皿には、茶色のソースをまとった筒状のパスタが盛られていた。パルミジャーノだろうか、たっぷりと振りかけられたチーズがトロリと溶けだして美味しそうだ。

「なんや、地味なパスタやな」

 玻璃乃が珍しそうにパスタを眺める。

 ブルーノさんはパスタの皿に顔を近づけると、思いきり香りを吸い込んで叫んだ。

「ブラーヴォ! ずっと食べたかった!」

 そしてパスタにフォークを刺して、口へと運ぶ。

「デリツィオーゾ!」

 まるでガッツポーズでもするかのように、腕に力をこめて身を震わせている。

「萱代さん、何て言ったか解ります?」

「……旨いとさ」

 そっか、ブルーノさん喜んでくれたんだ。なんだか安心してしまって力が抜けた。玻璃乃と左京寺くんも、ホッとした顔をしている。

「冷めないうちに食べな」

 萱代さんに促されて、パスタを口に運ぶ。

 円筒形の大きなパスタはモッチリとした歯ごたえで、官能的な噛み心地が癖になってしまいそうだ。

 最初に感じたのは甘みだった。とても馴染みぶかい野菜の甘み。トロトロに煮えて原形をとどめていないけど、食べなれたこの甘みはタマネギによるものだとわかる。

 口の中いっぱいに、タマネギの甘い香りが満ちていく。同時に、力強い肉の旨みが広がる。これも馴染みがある味……きっと牛肉だ。タマネギと牛肉だなんて、黄金の取り合わせだ。なるほど、このソースの香りを牛丼と評したワタシのセンスも、なかなかのものじゃないか。

「美味しい……。これが本物のジェノベーゼなんですね」

「本物と呼ぶのが適当かどうか判らないけど、これが『パスタ・アッラ・ジェノベーゼ』、つまりジェノヴァ風パスタだ。イタリアでジェノベーゼと言えば、この肉とタマネギの煮込みのことを指すんだ。今日はパスタにカンデーレを使ったから、『カンデーレ・アッラ・ジェノベーゼ』と呼ぶ方が正確かな」

 気がつけばお皿のパスタは、最後の一つになっていた。あまりに美味しくて、一気に食べてしまった。なごり惜しくて、最後の一つを口に運ぶことができない……。

「萱代さん。お代わりないんですか?」

「食べるねぇ。パスタを茹でれば、ソースはまだあるけど……」

 ワタシたちの会話を横耳で聞いて、ブルーノさんがニヤリと笑う。

「煮込みのお肉、きっと鍋の中に隠れてますね。第二の皿セコンド・ピアットといきましょう」

 なるほど。言われてみればパスタに和えてあるのはソースだけだ。

「まいったな。後で食べようと思って隠してたのに……」

「美味しいもの独り占め、だめですね」

 ブルーノさんが悪戯っぽい笑顔を向ける。

「えー。お肉も食べさせてくださいよ!」

「せや! 独り占めはずるいで!」

「はいはい。わかったよ、わかりました。お出ししましょう」

 そう言って肩をすくめると萱代さんは厨房へと姿を消し、煮込みの乗った皿を両手にふたたび現れた。

「ご所望の『ラグー・アッラ・ジェノベーゼ』でございます」

 おどけた調子で、皆に皿をサーブする。

「ラグーってのは煮込み料理のことなんだ。つまり、ジェノヴァ風煮込みってトコだな」

 さっきのパスタと同様に、茶色いソースをまとったお肉の塊がごろりと皿の上に乗って、美味しそうな湯気をたてている。

 ブルーノさんはパスタのときと同じように香りを楽しむと、満足そうな様子でお肉を口に運んでいる。ワタシもナイフとフォークを手にして、お肉を切り分ける。柔らかい……ナイフを使わずとも、フォークだけで切り分けることができそうだ。口の中で肉の繊維がホロリとほどけた。噛みしめるほどに、肉の旨みとタマネギの風味が口に広がって鼻へ抜けていく。ここまで煮込むとお肉がパサついてしまいそうだけど、ねっとりとしたゼラチン質でつなぎとめられていて、まるでパサパサした感じがない。

「素材の味をストレートに味わえるよう、今回はシンプルなレシピで仕立てたよ。使う肉は何でも良いんだけど、煮込みだから赤身の硬い部位の方が旨い。今回は牛のスネ肉を使った。肉の一.五倍のタマネギを炒めて甘さを引き出した後、表面を焼いた肉と合わせて白ワインと水で煮込んでいく。味を締めるために、少しだけトマトを加えたよ」

 なるほど。スネ肉のスジが煮込まれると、こんなにネットリとした美味しさを生むのか。

 萱代さんが説明してくれたレシピは、とてもシンプルだ。けれどもシンプルな料理ほど難しくて、経験がないと美味しく仕上げられない。このことは、この半年で思い知らされている。プロ顔負けの師匠の腕前に、舌を巻くばかりだ。

「旨いなぁ。これが本場ジェノヴァの味やねんな」

「おいおい。ジェノベーゼはジェノヴァ料理じゃないぜ」

「はぁ? ほな、どこの料理やねんな!?」

 玻璃乃が不思議そうに眉根をよせる。

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