第13話 ジェノベーゼなのにジェノベーゼじゃない

 ソースをもち帰った三日後の土曜日、ワタシはふたたび萱代さんの部屋をおとずれている。土曜日だというのに萱代さんは仕事をしていて、一段落するまでリビングで待たせてもらっている。

 先日もち帰ったパスタとソースは、茹で方のメモと一緒に玻璃乃にわたした。メモの内容は基本的なことだけど、玻璃乃だってそんなに料理が得意ではないのだ、用心のためパスタの茹で方を書いておいた。

 一人分のパスタの量は八〇グラムから一〇〇グラム、茹でるお湯はパスタ一〇〇グラムに対して一リットル、塩は必須で一リットルに対して大さじ一杯、沸騰したらパスタを入れて強火に、再沸騰したら弱火に落としてくっつかないように時々まぜながら、アルデンテにこだわる必要はなくって、パスタの袋に書いてある時間を基準にして芯がなくなるまで茹であげる……どれもこれも萱代さんから、いつも口酸っぱく言われていることだ。

 パスタが茹であがれば湯からあげて、あらかじめ室温に戻しておいたバジルのソースとからめて完成。火を通す必要はない……と言うよりも、火にかけて香りを飛ばしてしまっては台なしだ。あくまでも茹でたてのパスタを、ソースと和えるだけだ。

 昨日の夜に副部長宅のホームパーティーで振る舞ったと、玻璃乃からメッセージで報告があった。副部長やほかの参加者、そして副部長のご家族にも好評だったそうだ。だがしかし、肝心のブルーノさんの反応は、いまひとつだったらしい。

「どうして? 食べたがってた故郷の味なのに!?」

 メッセージで玻璃乃に訊いてみた。

「美味しいパスタやって、ほめてくれたよ。トロフィエが出てきたのにも驚いとった」

「だったら、どうして!?」

 パスタのチョイスや、ソースの出来には満足してくれたということだろうか。それなのに、なぜ不評だったのか訳が解らない。

「これはジェノベーゼではない……とかぬかしとったな」

「何でよ。ジェノベーゼだよね。ちゃんとウェブで調べたじゃない」

「せやねん。そこがウチも解らへんねん」

 ジェノベーゼが食べたいというブルーノさんにジェノベーゼをご馳走したら、これはジェノベーゼではないと言われた……だとしたらワタシたちが用意したパスタは、いったい何だと言うのだろうか。

「ブルーノさんが食べたいジェノベーゼって、どんなのか訊いたの?」

「訊いたんやけどな、やっぱり日本人にイタリア料理はムリやとか、あぁだこぉだと文句ばっかりぬかしよるから腹たって帰ってきたっわ」

 相変わらず短気だな、玻璃乃。

 でも、気持ちは解る。手を尽くしたのに相手が喜んでくれなくて、さらに文句まで言われて……。そりゃ腹が立つよね。でも、何が悪かったんだろうって思ってしまう。何とかして、ブルーノさんを喜ばせてあげたいって思ってしまう。

 だからこうやって、師匠のところへ来ているのだ。ジェノヴァについてあんなに詳しい萱代さんのことだ。ジェノベーゼの謎を解く鍵だって、きっと持っているに違いない。

 そんな確信めいた期待を胸にいだいていると、仕事が一段落ついた萱代さんがリビングへやってきた。

「おまたせ。どうしたの急に……って、いつも来るときは急か」

 ジェノヴァっ子ばりの嫌みが飛んでくる。

 どうもすいません。いつも急に押しかけてくるお隣さんで。

「萱代さんに分けてもらったソース、ダメだったみたいです」

「どうして? トロフィエまで持たせたのに」

「解んないですよ。美味しいパスタだって、褒めてくれたみたいなんですけどね」

 ジェノベーゼなのにジェノベーゼじゃないだなんて、もう意味が解らない。

「だったら、どうして?」

「それが解らないから困ってるんですよ。ジェノベーゼって何なんでしょうね」

「待って。ジェノヴァのお客は、ジェノベーゼが食べたいって言ったの?」

「そうですよ。玻璃乃が頼まれて、だからワタシ……」

「あぁ、なるほどね」

 薄ら笑いを浮かべながら、萱代さんがソファーに身をまかせる。

「何か解ったんですか?」

 問いかけてもニヤニヤと笑うばかりで、まるで取りあってくれない。

「あぁ、解った。でもこれは仕方ないな……」

 いままでの会話に、何か納得できる要素なんてあっただろうか!? 

「仕方ないってどういうことですか。教えてくださいよ!」

「いや、種明かしは楽しみにとっておこうよ」

 それって萱代さんが楽しいだけで、ワタシはモヤモヤしっぱなしじゃないか。

「ジェノヴァのお客を、招待することはできるのかな?」

「玻璃乃に言えば、大丈夫だと思いますけど……」

「気難しいジェノヴァっ子に、旨いジェノベーゼを食わしてやろうぜ」

「え、でも、ソースのストック、もうないですよね?」

「いいから、いいから」

「バジルだって、もうないんでしょ?」

「任せとけって」

 何だか釈然としない気持ちを抱えながら、その日は萱代さんの部屋をあとにした。

 ブルーノさんを食事に誘えないかと玻璃乃に連絡すると、すぐに約束を取りつけてくれた。月曜の夕方、スターヒルに集合だ。


     ◇


 会社がえりにそのまま、スターヒルへと向かった。

 今日はブルーノさんに、ジェノベーゼをご馳走する日だ。三〇分もすれば、玻璃乃が彼を連れてスターヒルへやってくるだろう。

 お店の中では萱代さんが、雑誌を読みながらカウンターでくつろいでいた。隣に座り、珈琲をオーダーする。マスターがいつものように丁寧に、香りたかい珈琲をいれてくれた。

「のんびりしてますけど、大丈夫なんですか?」

「あぁ、問題ない。ソースだって、もう仕込んであるからね」

 厨房を覗き込むと、パスタを茹でる大きな寸胴ずんどうの横に、一回り小さな鍋が置かれていた。

「あのお鍋、ソースが入ってるんでしょ? 見てきていいです?」

「やめときなって。楽しみは取っておいた方がいいだろ?」

 そう言われては、ますます気になってしまう。何かヒントにならないかと、お店の中の匂いに意識をむけてみる。珈琲の香りにかくれて、かすかに料理の匂いが混じっていた。かいだことのある匂いだ。何だろうか。一番近いのはきっと、あの料理だ。

「牛丼の匂いしません?」

 隣で萱代さんが、珈琲を噴きだしそうになっている。

「牛丼とはまた、意表をついてくるね」

「え、ちがうんですか?」

 萱代さんは苦笑するばかりで、正解は教えてくれなかった。

「でも、当たらずとも遠からずだ。いい鼻してるよ、まったく」

 褒められたのだろうか。嫌みを言われたような気もするのだけれど、ここは素直に受け取っておくことにしよう。

「そうだ、イタリア語の挨拶って、ボンジョルノでしたっけ?」

「それは日が高いときの挨拶。日が落ちればボナセーラ」

「ボナセーラ。憶えとかなくっちゃ」

「今日のお客は、日本語ペラペラなんだろ? 日本語で挨拶した方が良いんじゃないの?」

「イタリアのことに興味がある的なアピール、しといたほうが良いかなって」

「いらぬ気づかいだと思うけどね」

 そうこうしている間に約束の時間となり、玻璃乃がブルーノさんを連れて店にやってきた。気難しいという前情報から想像していた姿とはことなり、クラシカルなスーツがよく似合うイタリア紳士だった。イケオジ好きのワタシとしては垂涎すいぜんモノだ。

「美味しいジェノベーゼ、食べさせてくれると聞きました。よろしくお願いします」

 そう言いながら、萱代さんと握手をかわす。なるほど、本当に日本語がペラペラだ。

 ワタシの前に立ったブルーノさんは、突然おどろいたように顔の横で両手をひろげる。

「日本の女性みんな可愛いけど、あなたとくに可愛いですね」

 えぇ~。そんな本当のことを言われても困るぅ~。などと反応に困っていると、すかさず玻璃乃からツッコミが入った。

「何をに受けとんねん」

 申し訳ございません。調子に乗っておりました……。

 ケチで文句が多いジェノヴァっ子と聞いていたけど、意外とラテンのノリだ。和やかな雰囲気のまま、カウンター席へすわる。萱代さんは料理の準備のために、奥の厨房へと姿をけした。

「日本の喫茶店、独特の雰囲気ありますね。イタリアのバールとぜんぜん違う」

「イタリアの人から見ると、喫茶店はどんな風に見えるんです?」

 イケオジと会話したくて、思わず訊きかえす。

「野暮でお洒落じゃない。でも、こだわりと懐かしさ感じますね」

 められてるんだかけなされてるんだか、よく解らない感想だ……。

 そんなブルーノさんの感想にも笑みをこぼしながら、マスターがソムリエナイフを手に白ワインの栓をぬく。

「本来であれば、ホストの萱代様にお願いするところですが、なにぶん料理をお任せしているもので……」

 そう言いながらマスターが、玻璃乃のグラスに少しだけワインを注いだ。

 玻璃乃はグラスを持つと、色と香りをたしかめた後に少しだけワインを口にふくんだ。そしてマスターへ微笑みを向けながら、うなずいてみせた。

「かしこまりました」

 うやうやしく一礼したマスターが、ブルーノさんのグラスにワインを注ぎはじめた。

「ねぇ、いまのって何の儀式?」

 声をひそめて玻璃乃に訊く。まるで申し合わせていたかのようなやり取りに、何が起こったのか理解がおよばなかった。

「儀式とか、そんなんとゃうわ。ホスト・テイスティング言うてな、ワインに問題がないか確認しただけや。ワインのチェックも、ホストの役目やからな」

 あきれたように、玻璃乃が教えてくれる。

「あー、聞いたことがあるかも……」

 ソムリエがワインを注いでくれるような店で食事したことがないのだから、知らなくたって仕方ないじゃないか。聞いたことがあるだけでも、褒めてほしいところだ。

 何だかマスターまで失笑しているように見えるのは、被害妄想のなせるわざだろうか。ブルーノさんにつづき、ワタシと玻璃乃のグラスにもワインが注がれた。

「ほな、乾杯しよか」

 玻璃乃の言葉に、三人がグラスを手にする。

乾杯サルーテ!」

 掛け声とともにグラスをかかげる。

 よく冷えた白ワインを口に含むと、まるで柑橘類のような爽やかな香りが口いっぱいにひろがった。そして飲みくだしてのこる少しビターな風味……どことなく、ミネラルウォーターを飲んだ後のような硬さもある。

「美味しい……。何ていうワインなんですか?」

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