第10話 イタリア料理なんて存在しない

 驚いた顔で左京寺くんが二つの皿を見比べている。ワタシだって驚きだ。言われてみればたしかに似ている気はする。けれども食べた感じは、まるで違う味わいだった。

「共通するのは、グアンチャーレとペコリーノ・ロマーノを使っている点だ。両方とも羊飼いたちの携行品だよね。諸説あるけどグリシャーノ村の羊飼いたちが食べていたパスタが、グリーチャの起源だと言われている。イタリアの山間部では伝統的に、保存性を高めた加工肉や乳製品が多く食べられてきたんだ」

「もしかしてそのグリーチャに、アマトリーチェ村の人たちがトマトを入れたのが、アマトリチャーナってこと?」

「そんなところだろうね。一九世紀頃に生まれたアマトリチャーナはローマにわたって人気を博し、いまやローマを代表するパスタとまで言われている」

「トマトって、イタリア料理に欠かせませんものね」

「でもイタリアでトマトが食べられ始めたのは、一八世紀の後半なんだ。紀元前から続くローマの歴史の中では、つい最近の出来事なんだよ」

「まだ二百年くらいなんですか!?」

「意外だろ? トマトを使わない時期の方が、はるかに長いんだ。一六世紀頃にはイタリアに伝わっていたらしいけど、当時は毒があると信じられていて観賞用だったらしい。最初に料理に取り入れた人は驚いただろうね。今までにない酸味や甘みだし、食材と溶け合って味の奥深さを生み出してくれる。それに見た目も鮮やかで綺麗だ。ローマだけじゃなく、あっという間にイタリア中の料理がトマトを取り入れたんだよ。そしていまやトマトとイタリアの料理は、切っても切れない縁で結ばれている」

「すごいんですね。トマトって」

 感心した左京寺くんが、何度もうなずいている。

「そう、すごいんだよ。だから左京寺くん……」

「はい?」

 いきなり話を向けられ、彼が目をしばたたかせる。

「トマトを目指してみる、ってのはどうかな?」

「トマト!?」

 店内の一同、驚きに声を合わせて叫んでしまった。

「そう、トマトだ」

 素っ頓狂すっとんきょうなことを言い出した本人は、ワタシたちの驚きなんて意に介さずしたり顔だ。

「グリーチャは旨かっただろ?」

「えぇ。脂とチーズの風味をストレートに感じられる味わいでした」

「会社の先輩方が出す味わいが、グリーチャだとしよう」

「……なるほど。解ってきましたよ」

 左京寺くんの表情が、次第に引きしまっていく。

 その様子を見て、萱代さんがニヤリと口元をゆがめた。

「そのままでも美味しいグリーチャに、出合ったことのない新しい味を加えるのが君だ。左京寺くんという今までにない味が加わることで、そのままで充分に美味しい君たちの会社は、さらに深い味わいをかもすことになる。そんな存在を目指してみたらどうだろう」

「そして僕が、なくてはならない存在となるように……」

「そう思えば、たった一度の失敗で凹んでる場合じゃないだろ?」

「……そう……ですよね」

 自分自身に言いきかせるように、力づよく左京寺くんがうなずく。

 その時、勢いよく入口のドアが開き、店内にけたましくドアベルの音がひびいた。

「左京寺!」

 叫びながら駆けこんできたのは玻璃乃だった。

 萱代さんにスターヒルに連れてこられた時、玻璃乃が心配しているだろうと思ってメッセージを送っておいたのだ。だけど、こんなにあわてて駆けこんでくるとは思っていなかった。よほど心配していたらしい。

「オマエ、大丈夫か……って、何やスッキリした顔しとんな」

 左京寺くんの表情を見るやいなや、気勢をそがれてテーブルの横で棒だちになる。

「玻璃乃さん、ご心配おかけしました」

 左京寺くんもテーブルの横に立ち、深々と頭をさげる。

「もぉ、エエんか?」

「はい。大丈夫です!」

 あんなに心配して駆けこんできたのに、すでに左京寺くんは自分を取り戻している……あわてた姿をさらした玻璃乃が、居心地が悪そうに頭をかく。

「何しに来たんやろな……。あぁ、そうや。左京寺。ほら、あれや。見積もり手伝ってくれや。手こずっとんねん」

 とり繕うように玻璃乃が、左京寺くんに手をあわせる。

「もちろんですよ! やっぱり僕が居ないとダメですね」

らんよりマシって程度やけどな」

 いつものやり取りに、二人で顔を見あわせて笑みをもらしていた。

「ひどくないですか? 玻璃乃さん」

「名前で呼ぶな言うとるやろ」

「はい、気をつけますよ。玻璃乃さん」

 苦笑した玻璃乃が、彼の二の腕に拳をあてる。

「ほな、行くで」

「はい!」

 玻璃乃のあとに続く左京寺くんが、ドアの前で振りかえる。

「萱代さん。パスタご馳走さまでした!」

 そう言って深々と頭をさげると、揚々と店をでていった。

 店の中には萱代さんとワタシ、そしてマスターの三人が残された。さっきまでと打って変わって、いつものスターヒルの静かな空気がながれる。

 冷めてしまった珈琲をすする萱代さんを見つめる。

 正直、すこし見直してしまった。いや、少しどころの話ではない。あんなに落ちこんでいた左京寺くんを、見事に元気づけてしまったのだから。

「萱代さん、良いことしましたね」

 思わず、顔がほころんでしまう。

「何だよニヤニヤして。べつに何もしてないよ」

 ぶっきらぼうに言いはなつと、彼はまたカップに手をのばした。

「そうだ。あの問題、解ったの?」

 珈琲を一口すすったかと思うと、突然のように訊いた。

「イタリア料理なんて存在しない……ってヤツですか?」

「そう。さすがにもう解ったでしょ」

 ここで萱代さんが思い出してしまったからには、解らないとは言いたくない。何たってこの答えには、パスタをちゃんと教えてもらえるかどうかが懸かっているのだ。

 ここ数日間ドタバタしてしまって、正直なところまともに考えてすらいなかった。けれどもワタシの中にはすでに「これじゃないかな」って答えがあるのだ。

 萱代さんがパスタやイタリアの料理を語るとき、「これはナポリで生まれた料理で」とか、「トスカーナ地方でよく食べられている料理で」といったように、必ず地方や都市の名前を添えて説明してくれる。

 今日だってそうだ。ローマ三大パスタなんてパワーワードまで飛び出した。さらにローマ周辺の山間部では牧羊が盛んだとか、加工肉や乳製品がよく食べられているとか、そこからアマトリチャーナが生まれたとか……さらに伝統のレシピにまで話がおよんだ。

 イタリアの歴史なんてそんなに詳しくないけど、それでも長靴のような半島の中に小さな国がひしめき合っていたことくらいは知っている。それぞれの国でそれぞれの料理が生まれ、異なる食文化として発展してきたことは容易に想像ができる。

 大丈夫。きっとこれが正解だ。

「地方ごとに異なる食文化を、ひとくくりにイタリア料理とまとめてしまうのは乱暴すぎるとか……そういった意味じゃないでしょうか」

 師匠の顔色をうかがいながら、慎重に答えた。萱代さんは腕を組んで、難しい顔をしながらワタシの答えを聞いている。

「自分で思いついたの?」

「いいえ、萱代さんから学びました。師匠が料理を語る時、必ずどの地方の料理か説明するじゃないですか。だから、地域性が大事なのかなって。そこからの連想です」

「……意外と、ちゃんと聞いてるんだな」

「そりゃ、聞いてますよ!」

 とは言ったものの、長い薀蓄にあきてしまって、なんとなく聞き流していることだって少なくはない。でもこれは、師匠には内緒だ。

「正解だ。約束だからね。教えるよ……パスタ」

「やった!」

 アマトリチャーナみたいな美味しいパスタを、自分でも作ることができるだろうか。いや、できるはずだ。だって萱代さんが教えてくれるのだから!

 またもや小おどりせんがばかりに喜びに舞いあがっていたのだけれど、その喜びも束の間……ドアベルの音でさえぎられることになってしまった。そしてお店に入ってきた人を見た瞬間、ワタシの喜びは地に叩きつけられたのだった。

 黒髪の彼女だ。

 先週、萱代さんの部屋から出てきた黒髪の女性が、入口に立って店内を見まわしていた。萱代さんが、大きく手を振って彼女をよぶ。

「おーい、こっちこっち」

 気づいた彼女が、テーブルまで駆けよってくる。

「ごめんね、遅くなっちゃった」

「いいよ。こっちもいろいろあったから」

 彼女はマスターに珈琲をオーダーすると、萱代さんの隣にすわった。

 そうか。萱代さんがスターヒルに来たのって、彼女との待ちあわせだったんだ。

「こちら、小間仁こまに 季里きりさん」

「あなたが百合ちゃんね。よろしく!」

 何でワタシ、萱代さんの彼女に挨拶されてるんだろうか……。

「はぁ、よろしく……って、どうしてワタシの名前知ってるんですか!」

 びっくりした。初めて会う相手が自分のことを知っているのは、けっこうな驚きだ。しかも親しげに下の名前で呼ばれてしまった。

「何でって、桜馬おうまくんに聞いてたから?」

「おうま……くん? だ、誰ですか、それ」

「……俺だよ」

 不機嫌な声で、萱代さんがこたえる。

「え! カッコよすぎません!? どんな字を書くんです?」

さくらうまで、桜馬おうま。……バラすなよ、季里」

 あー、あー。呼び捨てにしちゃって。仲のよろしいことで。

「しらないわよ。内緒にしてるなんて聞いてないもん」

 何でワタシ、ここに居るんだろ。幸せそうな二人を見てるの、辛すぎるんですけど。

「打ち合わせ、はやく終わらせてしまいましょ」

「そうだな」

 茶封筒の中から、季里さんが何枚もの印刷物を取りだしている。

「打ち合わ……せ?」

 疑問が思わず、そのまま口からこぼれ落ちていた。

「ごめんね、百合ちゃん。すぐ終わるからちょっと待ってね」

「打ち合わせって、何の打ち合わせです?」

「えっと、仕事の打ち合わせ……って、桜馬くん?」

 彼女が隣の萱代さんをにらむ。

「何だよ?」

「もしかして百合ちゃんに説明してない?」

「説明? あぁ、そういえばしてないな」

「もう、いつもこうなんだから……」

 季里さんがこめかみに手を当てて、大きくため息をつく。そして仕事の打ち合わせのため、二人はここで待ち合わせていたことを教えてくれた。

 萱代さんから、ワタシと一緒にスターヒルに居るとメッセージを受け取ったそうだ。それだったら打ち合わせの後に、一緒に食事でも……という話になっていたらしい。

「じゃ、二人はお仕事のパートナーなんですか?」

「そうよ。聞いてない?」

「えぇ……」

 ふたたび季里さんが、萱代さんをにらむ。師匠はバツが悪そうに肩をすくめていた。

「何だ。恋人かと思った……」

 安堵とともに、ふたたび思ったことが口からこぼれ落ちていた。

 ワタシのつぶやきを聞いた二人はたがいに顔を見合わせると、次の瞬間に爆笑していた。

「やめてよね! 私が桜馬くんと!? こんな面倒な男、ないない」

 笑いすぎて目尻ににじんだ涙を、季里さんが指先でぬぐっている。

「こっちのセリフだね。俺だって気の強い女は好きじゃない」

 手を叩いて、萱代さんが笑っている。

 そんなに笑わなくたって良いじゃないか。

 とは言うものの、ワタシも何だか可笑しくなってしまい、三人でしばらく笑い転げていた。まったく、何が面白いんだか……。


 スターヒルでの打ち合わせの後、三人で食事にでかけて季里さんにご馳走になってしまった。イタリアンが食べたいと言った季里さんに、なぜか萱代さんが猛反対して、喧々諤々けんけんがくがくの言い争いの末、和食のお店に決定した。

 仕事のパートナーとは言うものの、萱代さんと季里さんは付き合いも長いようで仲むつまじく、いまだに二人はデキてるんじゃないかと疑っている。まぁ、ワタシとしてはどうでも良い話ではあるのだけれど。

 さて、問題は左京寺くんのことだ。元気を取り戻して、相変わらず玻璃乃とのコンビで営業成績トップを走り続けている。

 自信を取り戻してくれたのは嬉しいのだけれど、中断してしまったドライブの続きをと、デートに誘われる日々をすごしている。歳下の可愛い男の子に言い寄られるのは悪い気はしないのだけれど、断りつづけるのも何だか申し訳ないし、社内の左京寺ファンの皆様の視線が痛いし、どうしたものかと思いなやむ毎日なのだ。

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