第09話 ふたつのアマトリチャーナ

 偶然と言うか必然と言うか、左京寺くんを見つけたのはその日の夕方のことだった。

 マンションまで帰りついてエントランスに向かう道すがら、ふと見覚えのある車が停まっていることに気づいた。マンション前の通り、街灯に照らされた路肩の路上駐車場、そこに停まっていたのは左京寺くんの真っ赤なフィアット500《チンクェチェント》だった。

 思わず駆け寄って、車内を覗き込だ。居る。両腕をハンドルの上に重ねて、突っ伏している。顔は見えないけど間違いない、左京寺くんだ。

 助手席の窓をノックすると、車の中から慌ててこちらを見やる。なんて顔をしてるんだろう……つかれきった表情は、いつも笑顔を振りまいている左京寺くんとまるで別人のようだ。おりてきてと、身ぶりで伝える。

 彼は素直に車をおり、力なくワタシのそばまで歩みよってきた。

「ごめん……。気づいたらここに来てた……」

 何か声をかけてあげたいのだけれど、左京寺くんの表情を見たらまるで言葉がでてこなかった。

「玻璃乃が心配してたよ。連絡してあげたら?」

 辛うじて絞り出した言葉に、うなだれたままで彼がうなずく。

 違うだろ、そんなことを言いたいんじゃない。もっと左京寺くんを元気づけることを言ってあげたいのだけれど、何を言ってあげれば良いのかまるで解らなくなってしまった。

 こんなところで立ち話する訳にもいかないし、ワタシの部屋にきてもらおうか……いやいや、ありえない。あの散らかった部屋に、左京寺くんを入れる訳にはいかない。

 どうしたものかと悩んでいると、不意に声をかけられた。

「あれ。宇久田さん?」

 驚いて振り返ると、萱代さんが手をふっていた。

「師匠! なにやってるんですか!」

「なにって、珈琲のみに行くとこだけど」

「あぁ、スターヒル……」

 ちらりと年季の入ったお店の看板を見やる。

「そっちこそ、こんな所で何してんの」

「ワタシは……えっと……」

 どう答えたものか、困ってしまった。思わず左京寺くんに助けを求めてしまう。左京寺くんは萱代さんに挨拶すると、相談事があってワタシのところへ訪ねてきたのだと説明した。

「ふぅん……。宇久田さんに相談ねぇ」

 いつものことながら、微妙に棘のある言い方をする。萱代さんはワタシたち二人を見比べながら、しばらく何ごとか思案していた。

「時間あるんだろ。珈琲でも飲もうぜ」

 珍しく強引な萱代さんに押し込まれるようにして、ワタシたちはスターヒルへと入っていった。

 マスターに珈琲を頼んで、四人がけのテーブル席に陣どる。奥の席に萱代さん、入口側の席に左京寺くんとワタシが座り世間話に興じていると、程なくして珈琲の香りが漂いはじめ、やがてテーブルに三杯の珈琲が供された。

「いいお店ですね。珈琲も美味しい……」

 カップ片手に、左京寺くんが店内を見まわす。

「料理も美味しいから、贔屓ひいきにしてあげて」

「簡単なものしかできませんけどね」

 話を聞いていたマスターが、微笑みとともに言葉を添えた。

「料理といえば萱代さん、玄人くろうとはだしの腕前だと聞いてますよ」

「持ち上げるねぇ」

「いえ、そんなつもりでは……」

 微笑みをたたえながら、左京寺くんが会話に興じている。しかしいくら気丈に振る舞っていても、いつもの左京寺スマイルに比べるとやはり精彩を欠いてみえる。

「左京寺くんだっけ? 無理に笑わなくていいよ」

「え……」

 左京寺くんが絶句する。

「つらいときは誤魔化さずに、きちんと落ちこんだ方がいい」

 唐突に放たれた気づかいのない言葉に、萱代さんをにらみつける。

 それなのに萱代さんは、何ごともなかったかのように飄々ひょうひょうとして珈琲をすすっている。

「無理してるように……見えますか」

「見えるね」

「……まいったな。普段どおりに振る舞ってたつもりなのに」

 左京寺くんの顔から笑みが消え、車の中で見せた疲れ切った表情がうかんだ。彼の表情を見ていると、いつもの左京寺くんを知っているだけに居た堪れなくなってしまう。

「あの、左京寺くん……。クレームはもう解決したんでしょ? それなのに、どうしてそんなに苦しんでるの? 吐き出せば楽になるかもしれないしさ……ワタシで良かったら聞くよ?」

 ワタシの訴えに、左京寺くんはうつむいて黙ったままだった。やがてため息をつくと顔を上げ、困ったようにワタシを見つめる。

「お邪魔なら席を外すけど?」

 そう言って腰を上げようとした萱代さんを、左京寺くんが止める。

「よろしければ、このまま一緒に……」

 土曜日のできごとをかい摘んで萱代さんに説明した彼は、苦しそうに言葉を続けた。

「お客さんにも先輩にも同僚にまで迷惑をかけて、会社の中でどう振る舞えばいいのか判らなくなってしまいました。僕の存在価値って何なのかな……って思ってしまって」

「存在価値ねぇ……」

 腕を組んで話を聞いていた萱代さんが、おもむろに口を開く。

「人はすべて平等に価値がない、って言ったのはハートマン軍曹だったかな?」

「か、萱代さん!」

 これ以上余計なことを言わないように、彼のつま先をけって合図する。

「知らない? 『フルメタル・ジャケット』って映画。キューブリック監督の」

 まるで通じていない。もしかして、あえてとぼけているのか!?

 左京寺くんは乾いた笑いで応えると、静かに話を続けた。

「確かに僕が居る価値なんて、ないのかなって思ってしまいますね。営業部の先輩だってすごい人ばかりで……。今回のクレームだって、ほとんど玻璃乃さんが段取り着けてくれたし。僕は玻璃乃さんの指示であたふたと対応に追われるばかりで……。僕なんて居ない方が巧く回るんじゃないかって、そんな風に思えてしまって……」

「居ないほうがマシだって思うんなら、居る必要はないんじゃないの?」

「ちょ! 萱代さん!」

 無神経な物言いに、思わず彼のすねを蹴っ飛ばす。

「いて! 何するんだよ……」

「もうちょっと、デリカシーってものをですねぇ……」

「デリカシーとか、君に言われるとは思わなかったよ」

 反射的に彼をにらみつける。けれども脛をなでながら、明後日の方向を向いていた。やがてワタシの怒りをかわすかのようにして、萱代さんが席を立つ。

「ところでさ、腹減らない? どうよ、左京寺くん」

「……はぁ、それなりには」

 突然腹具合を訪ねられ、左京寺くんが呆気にとられている。

「パスタ作ってやるよ」

「なんでパスタなんですか! 今はそれどころじゃ……」

「宇久田さん、食べないの?」

「え? ……た、食べます」

 萱代さんの作るパスタを食べないなんて選択肢が、ワタシにあるはずがない。何を思っていきなりパスタを作るなんて言いだしたのかしらないけど、作ってくれるのならこれに乗らない手はないだろう。

「マスター、厨房かりるね」

「どうぞ、どうぞ」

 常連のワガママに、マスターが微笑みで応える。

「食材あるかな。ローマ三大パスタ作れりゃ良いんだけど……」

 三大パスタなどというパワーワードに、期待は高まるばかりだ。

「もちろんありますよ。基本的な食材ですし」

「さすがはマスター」

 手を洗い腕まくりをした萱代さんが、マスターに親指を立てて見せる。

 奥の調理場の大きな寸胴で、萱代さんは人数分のスパゲッティを茹ではじめた。そのかたわらでタマネギを刻み、二つのフライパンを使ってソースを作る。

 脂の焼ける、いい香りが漂ってくる。片方のフライパンには、トマトソースが入った。これが、ローマ三大パスタとやらなのだろうか。パスタの茹で汁を加えフライパンのソースを仕上げる横で、彼はチーズをすり下ろし始める。いつもながら段取りが手なれている。器用なものだと感心するばかりだ。

 湯を沸かす時間をのぞけば、十分くらいしか経っていないのではないだろうか。あっという間に四人分のパスタができあがってしまった。

 一人に二枚、パスタの皿が供される。一方の皿にはトマトソースが絡んだスパゲッティが、もう一方の皿にはオイルが絡んだスパゲッティが盛られていた。

「萱代さん、これって……」

「まずは食べてみて。味わいの違いを聞かせてほしいな」

 釈然しゃくぜんとしない思いを抱えながら、まずはトマトソースのパスタを口へとはこぶ。

「え!? このトマトソース美味しい! コクがすごい!」

 何だろうこの舌の上に残る甘みとコクは。コッテリと濃厚な食べ応えなのに、トマトの酸味で後口は爽やかだ。

 左京寺くんが驚きの表情でワタシを見やる。

「百合ちゃん、オイルパスタの方も食べてみて。脂の旨みがガツンとくるよ!」

 左京寺くんにすすめられてオイルが絡んだスパゲッティを頬ばると、これまた濃厚な食べ応えで、甘やかなオイルの香りが口いっぱいに広がった。この匂いには憶えがある。何度かふれているような気がする……。

「オリーブオイルでもバターでもないですよね。何だろう、動物の脂?」

 ワインでもテイスティングするかのように、左京寺くんが少しづつパスタを口に運び、味の成り立ちを探ろうとしている。

「いい舌をしてる。グアンチャーレから出た脂だよ。グアンチャーレってのは豚のホホ肉の塩漬けで、大理石の桶の中で何ヶ月も熟成させるんだ。それからチーズは、ペコリーノ・ロマーノを使っている。山羊の乳から作ったチーズだな」

 憶えがあるのも当然のこと。グアンチャーレもペコリーノ・ロマーノも、あの感動のカルボナーラで使っていた食材だ。

「萱代さん、そろそろ教えてくださいよ。これ何ていう料理なんですか?」

 最初に食べた、トマトソースの皿を指さして尋ねる。

「ローマ三大パスタの一つ、アマトリチャーナさ。今回はスパゲッティと合わせたから、正確にはスパゲッティ・アッラ・アマトリチャーナ。アマトリーチェ風スパゲッティって意味だね」

「アマトリーチェ……って?」

「街の名前だよ。ローマの北東約一〇〇キロに在る山間の街だ。このソースはね、ローマではブカティーニっていう中空のロングパスタと合わせることが多いけど、本家アマトリーチェではスパゲッティと合わせるんだ」

「へぇ、決まりがあるんですね」

「決まりと言うか、伝統だな。イタリアもそうだけど、ヨーロッパの人たちは伝統を重んじるよね」

 決まり事が多いと堅苦しいし面倒ではあるのだけれど、よその国の食に触れようとしているのだ。伝統や文化を理解しようという姿勢は大切なんじゃないか……ここ三ヶ月、折りに触れ萱代さんの薀蓄を聴き続けた身としては、そんな風に思いはじめている。

「こっちのオイルのパスタは、何ていう名前なんです?」

「グリーチャだよ。またの名を……」

「別の名前があるんですか?」

「アマトリチャーナ・イン・ビアンコ」

「え? これもアマトリチャーナなんですか!?」

「そう、白いアマトリチャーナと呼ばれてる」

 白いといっても、もちろんシチューのような白さではない。アサリのパスタも、トマトの入ったソースはヴォンゴレ・イン・ロッソって呼ぶし、入ってないものはヴォンゴレ・イン・ビアンコだ。きっと同じことなのだろう。きっとトマトが入った赤に対して、トマトが入っていない白って意味だ。

「正確には、スパゲッティ・アッラ・グリーチャと言って、グリシャーノ風スパゲッティって意味だな。メッザ・リガトーニってショートパスタと合わせるのが定番なんだけど、今日は比較のためにスパゲッティと合わた。ちなみにグリシャーノってのは村の名前で、アマトリーチェの北二〇キロくらいの所に在る小さな村だ」

「あら、ご近所さんなんですか!?」

「両方とも、牧羊が盛んな山間の集落だよ」

 ここで萱代さんが立ち上がり、まるで教壇に立つ教師のように胸をはる。そして、二本の指を立ててワタシ達に向き直る。

「さて、この二つのアマトリチャーナ。なぜ同じ名前で呼ばれてるか解るかな? 共通点はなに? 異なる点は?」

「異なるのは、トマトが入ってるか入ってないか……ですよね?」

 間髪をいれず、左京寺くんが答える。

「そうだね。正解だ」

 そして、二つの皿を見つめながら、左京寺くんが慎重に答える。

「もしかして、トマト以外はまったく同じですか!?」

「正解。簡単すぎたかな? この二つのパスタ、トマトの他は味の組み立てがほぼ同じなんだよ」

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