第07話 ノルマだよ、左京寺くん

 お昼休みというものは、どうしてこんなにも早く終わってしまうのだろうか。午後の始業時間に間に合うように、休憩室を後にする。

 最近はお昼ごはんに、お弁当を持参するようにしている。もちろん、自分で作ったお弁当だ。とは言うものの、ご飯を炊いてスーパーのお惣菜を詰め込んだだけの手抜き弁当なんだけど。それでも以前はカップ麺や菓子パンで済ませていたことを考えれば、我ながら飛躍的な進歩だと思う。

 玻璃乃と左京寺くんは今日も内勤だったから、一緒にお昼を食べることができた。三ヶ月前に萱代さんの話をしてから、玻璃乃は事あるごとに「隣のイケメンさんとはもうヤッたんか?」とセクハラオヤジみたいなことを訊いてくるし、左京寺くんは「怪しいお隣さんよりも、僕と遊んでくださいよ」とすり寄ってくる。

 お弁当のおかずの中で、唯一自分で作った卵焼きを頬ばっているとき、ふと『左京寺くん×萱代さん』というカップリングを思いついてしまいそっと玻璃乃に耳打ちした。玻璃乃は「うたことないから何とも言えへんけど」と前置きした上で、「萱代×左京寺の方がエエんとちがうか?」と言って下世話な笑いを浮かべていた。下剋上が好きなワタシとしてはその辺りを熱く小声で語ってみたのだけれど、結局は「リアルのカップリングで妄想を始めたらもう末期」と自分たちをいましめて話は終わった。妄想なんてものは、二次元の世界にとどめておいた方が健全だ。

 まるで会話に入れてもらえない左京寺くんが、不思議そうな表情で目をしばたたかせていた。こんなときは左京寺スマイルも役に立たない。同好の士が二人寄れば、歯止めなんてきかない。そしてそんな二人の秘密を、彼に知られる訳にはいかないのだ!


 休憩室を出てエレベーター待ちをしていると、左京寺くんが駆け寄ってきた。

「百合ちゃん!」

 到着したエレベーターに乗り込もうとしていたワタシを呼び止める。先に営業部へ帰ったはずなのに、どうかしたのだろうか。

「週末にさ、ドライブ行かない? 奥多摩の方、紅葉が綺麗だって」

「ド、ドライブ!?」

 突然の申し出に、思わず戸惑ってしまう。完全インドア派のワタシを外に連れだそうだなんて、とんだチャレンジャーだ。

「先約でもあるの?」

「いや、そういうのはないんだけど……」

 もちろん先約なんてない。ワタシの生活は、他人との約束なんかで縛られたりしない。だって部屋に帰れば、推しアニメが待っているのだから!

「だったら良いじゃん。行こうよ! なんだったら温泉とかもあるし」

「温泉ねぇ……」

「美味しいランチもご馳走しちゃう!」

「ランチかぁ……」

「迷う要素ある? リクエストあるなら聞くけど」

 ないのだ、迷う要素なんて。だから困っている。

 こうやってドライブに誘われていること自体、けっこう嬉しい。ワタシだってまだ捨てたもんじゃないんだ……そんな自信を取り戻させてくれる。紅葉は今ひとつピンとこないけど、温泉に入ってゆっくりするのは素敵な気がするし、もちろん美味しいランチも魅力的だ。

「玻璃乃もさそって三人とかじゃ……ダメかな?」

 失礼な申しでだとはわかっている。彼はきっと、ワタシと二人きりで出かけたいのだ。けれども左京寺くんと二人きりでドライブに行くのは、なんとなくはばかられてしまう。

「残念でした。姐さんは週末も出勤なのです。実は僕も出勤日なんだけど、たまには週末に休めって玻璃乃さんが……」

「そんな貴重なお休みに、ワタシなんか誘ってて大丈夫?」

「大丈夫も何も、僕は百合ちゃんとドライブ行きたいの!」

 押しに弱いのは昔からのこと。こんなにストレートに求められては断るに断れず、このまま押し切られてしまいそうだ。気が乗らないだけで、断る理由がないのだからなおのことだ。

「と、とりあえず、考えさせてくれない?」

「良いけど……返事はイエスしか受け付けないよ?」

「なにそれ、考える意味ないじゃん」

 思わず噴き出してしまう。

 真っ直ぐで良い子なのだ、左京寺くんは。一緒にドライブに行けば、あれやこれやと世話を焼いてくれることが目に見えるようだ。けれども彼の真っ直ぐな気づかいは、ワタシにはまぶし過ぎる。気をつかわれる事になれていないワタシは、きっと居心地の悪い思いをするはずだ。

 いや、違うな。これも言い訳か……。

 けっきょくワタシは、どうして彼を受け入れることができないのか自分でもわからずにいる。歳下の彼氏ってのも悪い気はしない。気づかいのできる彼氏だなんて、最高じゃないか。歳下の彼氏がワンコみたいにすり寄ってきたら、きっと可愛くてマフマフとなで回したくなってしまうだろう。

 甘えられたいんじゃなくて、甘えたいのだろうか……歳下とは言うものの、左京寺くんはワタシよりもしっかりしている。なにしろ、あの玻璃乃のバディーが務まるのだから。ワタシをちゃん付けで呼ぶくらいだから、もしかしたらワタシを甘えさせたいと考えているのかもしれない……。

「どうかした?」

 不思議そうな顔で、左京寺くんが覗きこんでいた。

「ううん。じゃ、考えとくから」

「良い返事、期待してまっす!」

 そう言うと彼は、左京寺スマイルをふりまきながら階段を駆けのぼっていった。


     ◇


 また日が落ちるのが早くなった。

 少し前まで明るいうちに帰り着いていたのに、今じゃもうマンションにたどり着くころには真っ暗だ。暗い家路をたどるのは、気が滅入ってしまう。けれども今は誰もいない部屋に帰りたくないとき、萱代さんの部屋にお邪魔することができる。師匠の部屋を避難場所のように使って申し訳ないとは思うのだけれど、ワタシにだって独りで暗い部屋に帰りたくない日くらいあるのだ。

 エントランス脇の『純喫茶スターヒル』と書かれた古風な看板が目に入る。マスターは、元気にしているだろうか。今月はまだ、スターヒルに行っていないことに気がついた。寄っていこうかとも思ったけれど、そのまま看板の前を素通りしてエントランスへと足を踏み入れた。

 萱代さんと約束はしていないのだけれど、今日も帰りがけに彼の部屋に寄っていこうかと思っている。まだ「イタリア料理なんて存在しない」がどういう意味か説明することはできないけれど、もしかしたらヒントくらいは教えてもらえるかもしれない。いや、教えてくれないまでも、彼との会話の中にヒントになるものを見つけられるかもしれない。

 エレベーターを降りると、薄暗い廊下は冷たい空気で満ちていた。ここのところ、日が落ちた途端に寒さが襲ってくるようになった。暗いのは苦手だけど、寒いのはもっと苦手だ。

 約束もなしに訪ねていったら、萱代さんは迷惑そうな顔をするだろうか。きっと迷惑だと言いながらも、暖かな部屋へ迎え入れてくれるだろう。そして「来るなら事前に言ってくれ」と文句を言いながらも、ありあわせの材料で魔法のように美味しい料理を作ってくれるはずだ。

 想像していたら、なんだか楽しくなってしまった。

 萱代さんの部屋に向けて、廊下を歩きだす。彼の部屋が見えてきたとき、突如としてドアが開け放たれた。萱代さんが部屋を出てくるのだと思って、声をかけようと立ち止まった。けれども部屋から出てきたのは彼ではなかった。

 萱代さんの部屋から出てきたのは、黒髪の女性だった。

「また来るね。お仕事がんばって」

 そう言って女性は、部屋の中に向かって笑顔で手をふった。そしてドアを閉めると、長い黒髪をなびかせながら大股で歩きはじめた。ヒールの音が廊下に響く。こちらに向かって、まっすぐに歩いてくる。その場で固まったまま、思わずうつむいてしまった。そしてすれ違う瞬間、盗み見るようにして視線を上げた。

 すごい美人だった。

 コッテリとした紅い口紅に、けぶるようなまつ毛。一七〇センチはあろうかという長身に、パンツスーツがよく似合っている。歩き去った後に、甘い残り香りが匂った。

 一瞬だけ目が合った。いぶかしげな表情で、立ちつくすワタシを見おろしていた。なんだか自分が見すぼらしく感じられて、彼女がエレベーターに乗り込むまでその場を動くことができなかった。

「なんだ、彼女いるじゃん……」

 嫁なんて要らないとか、独りの方が気楽だとか言いながら、あんな美人と付き合っていただなんて……なんだか萱代さんにだまされた気分だ。

 早く彼の部屋に行って、冷やかしてやらなきゃ……。そう思って部屋の前へ立った。けれども、ドアフォンのボタンを押すことができなかった。顔を見たらすぐに「あんな美人と付き合ってるなんて、師匠も隅に置けないですね!」と言って、肘で脇腹をつついてやろうと思っているのに、どうしても萱代さんの部屋に行くことができなかった。

 帰ろう……。自分の部屋に……。

 自分の部屋までの距離が、とてつもなく遠く感じた。バッグから部屋の鍵を探りだして、鍵穴に挿しこもうとした。けれどもうまく挿さらなかった。そうしている間に鍵を落としてしまい、拾おうとしてしゃがんだ瞬間に涙がこぼれた。立ち上がることができなかった。自分の部屋の前にしゃがみ込んで、声もなく泣いた。

 どれくらい時間がたっただろうか。体が冷え切っていることに気づいてノロノロと立ち上がる。泣いたら少し落ち着いた。鍵を開けて暗い部屋に入る。手探りで壁のスイッチを探りあて照明をつけると、無機質なLEDの光が散らかった部屋を照らしだした。荷物をよけながらベッドの脇までたどり着くと、そのまま勢いよく突っぷした。

「なんで泣いてるんだろ……」

 訳がわからなかった。

 萱代さんに美人の恋人がいただなんて、喜ばしい話じゃないか。あんなに頑固で理屈くさくて薀蓄ばかり垂れてる師匠に彼女が居たなんて。嫁なんて要らないとか、独りの方が気楽だとか言いながら彼女が居たなんて……あぁ、もしかしてワタシ、怒ってるんだろうか。女性に興味ないフリしながら、あんな美人と付き合ってたことに。……いや、違うな。

 考えても無駄な気がして思考を放棄しようとしたとき、バッグの中でスマートフォンが震えた。メッセージの着信に気づくなんて、ワタシにしては珍しい。スマホを探り出してみれば、送り主は左京寺くんだった。

「週末のドライブ、考えてくれた?」

 メッセージとともに、釜飯の写真が添えられていた。

「釜飯が美味しいお店あるってよ!」

 つづけてメッセージが飛び込んでくる。食べ物で釣るとは、彼もなかなかワタシを解っている。さすがと言うか、なんと言うか……。

 返信するかどうか迷った。いまの不安定な状態で左京寺くんに優しい言葉なんてかけられたら、きっと簡単に彼へ転んでしまうだろう。今のワタシはそれほどまでに寂しさにまみれているのだから……。そう思うとこんな状態で返事するのは、彼への誠実さを欠いているように感じられた。

 しかしこのタイミングの良さには、運命めいたものを感じてしまう。人の縁はタイミングが作ると思っている。こんな時にタイミングよくメッセージを送ってくる左京寺くんは、きっと何がしかの縁で結ばれているのだ。そう思うとメッセージを無視することは、なにか重大なものを逃してしまうことのように感じられた。

「ちゃんと考えてるから、もう少し待ってね」

 散々悩んだ末に返信したメッセージがこれなのだから、我ながら情けない。

 けれども、そんな優柔不断を見透かすかのように、彼からの呼び出しでスマートフォンが震えだした。あわてたワタシは思わず、通話開始のアイコンをタップしてしまった。

「百合ちゃん、大丈夫?」

 心配そうな彼の声が飛び込んでくる。

 開口一番、大丈夫かときいた。どうしてワタシ、心配されているんだろう。何か心配されるような要素があっただろうか。

「だ、大丈夫だけど……どうして?」

 泣いていたことがバレないように、できるだけ平静をよそおった。

「なんとなく。胸騒ぎっていうか。メッセもなんか変だったし」

「……変!? 変だった?」

「いつもと違ったからさ。だから何かあったのかなって」

 たった一つの返信だけで、そんなことが読み取れるものだろうか……。考えてみれば、そもそも着信に気づいている時点でいつものワタシとは違うし、既読がつくタイミングや返信までの時間とか気づく要素があるにはある。でもそれにしたって、たったそれだけで……。

「電話してよかった。泣いてたでしょ。百合ちゃん……」

「な、泣いてないし!」

 そんなことまで見透かされて、うろたえてしまう。

「だったら、カメラつけて顔見せてよ」

「そ、それは……無理……」

 泣いてたことがバレるのはともかく、泣きはらしたひどい顔なんて見られたくない。

「何かあった? 僕でよければ話きくからね」

 いつもなら軽薄に感じてしまう左京寺くんの言葉が、今日はやけに胸にしみる。ワタシの相手なんかしてないで、もっと若くて可愛いい娘の相手をしてあげればいいのに……いつもだったらそう思うところなのだけれど、今日はワタシのことを見ていてくれることで……こんなにも細やかにワタシのことを知っていてくれることで、満ち足りた気分になってしまう。

「どうしてそんなに、優しくしてくれるの?」

「聞くまでもないでしょ。好きだからだよ」

 ストレートすぎる感情表現。こんなにも素直に思いを伝えられる左京寺くんのことをうらやましく思う。

「好意は嬉しいけど、ワタシ、自分の気持ちが解んないよ……」

「あせらなくても良いんじゃない?」

「そうなの?」

「どうせ最後には、僕のこと好きになるんだし」

 思わず噴き出してしまった。すごい自信。ほんとうらやましい。

 少し元気がでた気がする。左京寺くんのおかげだ。

「ノルマだよ、左京寺くん……」

 ありがとうと伝えるのが照れくさくて、思わず憶えたばかりの言葉を使ってしまった。

「ノルマ?」

「素晴らしいって意味だよ」

 不思議そうな左京寺くんに、カターニアでは素晴らしいものを『ノルマ』と言って讃えていたことを教えてあげた。

「へぇ、よくそんなこと知ってるね」

「受け売りだけどね……」

 ふと萱代さんを思い出して胸が傷んだ。この話を教えてくれたのは、彼なのだから。

「週末のドライブなんだけどさ……」

 そこまで言って言葉が止まった。続けて「ワタシなんかで良ければ連れて行って下さい」と言おうと思っていたのに、それ以上言葉が出なかった。

「もしかして、行く気になった?」

 左京寺くんに、すっかりワタシの気持ちを見透かされている……。

「……うん。よろしくね」

 左京寺くんの喜びようは相当なもので、ご一緒するのがワタシなんかでなんだか申し訳なくなってしまう。でも、そんなワタシと出かけることを、彼はこんなにも喜んでくれているのだ。これでいい。きっとこれで正解なんだ……そう自分に言い聞かせた。

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