第二幕:ふたつのアマトリチャーナ
第06話 師匠、ノルマです!
萱代さんの部屋の五十五インチのテレビで、芸人たちに混じってあのイタリアンシェフが毒舌を振りまいている。どこかの番組でもう五十歳を過ぎていると言っていただろうか。歳よりもだいぶ若く見える。名前は
実は雷火さま、最近のワタシの推しなのだ。イケオジ好きのワタシとしては、なん言うかもう見逃すことができない。雷火なんて名前、さすがに芸名だとは思うけど仰々しいと言うか何と言うか……厨二病が入ったすごい名前だ。でもそんな名前つけちゃうところが、たまらなく良い!
「ほら、雷火でてますよ。雷火!」
テレビを指差しながら振りかえると、萱代さんが不機嫌そうな表情でランチョンマットを敷いていた。
「あぁん? テレビなんぞ消せ。飯だ」
「師匠もパスタ作るんだし、イタリア料理のシェフに興味あるでしょ?」
「シェフだぁ? タレントだろ、あんなもん」
最初は情報番組やバラエティーのお料理コーナーで見かける程度だったのだけれど、あっという間に人気に火がついてしまい、いまやテレビで見かけない日はないほどだ。刺すような眼光に切れ味するどい毒舌、そして時折のぞかせる甘いスマイル……こういうのをギャップ萌えと言うのだろうか。世のおばさまたちばかりでなく若い子たちまで、多くの女性が彼の虜になっているのである。
稀代の天才料理人とは彼を称賛する言葉で、もちろん彼のお店『リストランテ雷火』だって連日満員御礼の大盛況だ。いま一番予約が取れないイタリア料理店と言われ、もてはやされている。
「それから師匠はやめろ。師匠は」
「はーい。わかりました、師匠!」
左京寺くんを真似てふざけてみたのだけれど萱代さんの反応はイマイチで、玻璃乃のように突っかかってきたりせず淡々と食事の準備を進めている。
「いい加減テレビ消せよ」
不機嫌な声が飛んでくる。
おふざけも大概にしないと、そろそろ本気で怒られてしまいそうだ。勝手に弟子入して三ヶ月……彼へのおふざけの限界も、だんだんと見極められるようになってきた。最初の頃はよく、ふざけすぎて怒られていたものだが……。だって、照れくさいじゃないか、二人っきりなのだから。ふざけでもしていないと間がもたない。
テレビを消して、ダイニングテーブルの席につくと、キッチンから萱代さんの声が飛んできた。
「で、解ったの?」
「むぅ、解んないですぅ」
「真面目に考えようぜ」
彼が呆れ顔でパスタの皿を運ぶ。トマトソースの刺激的な香りがただよってきて、お腹が鳴ってしまいそうだ。
「イタリア料理などという料理は存在しない……なんて言われたって、何のことか解んないですよ。だって存在してるじゃないですか、イタリア料理」
実はこの三ヶ月、萱代さんはまるで料理を教えてくれていない。でもそれは、最初に約束したとおりに振る舞っているだけのことだ。つまり「料理は教えないけど作るところを見て勝手に憶える分にはうるさいことは言わない」という約束を忠実に守っているのだ。
でもそれでは、ワタシが満足できなくなってしまった。彼が料理するところを見ていても手際が良すぎて、何が起こっているのか理解できていなかったりする。コツと言うか、勘所と言うか、ちゃんと教えてほしいのだ。
会社帰りにこの部屋へ押しかけたのが、一時間ほど前だっただろうか。萱代さんが秋ナスで揚げ浸しを作ろうとしているところへ、「パスタが食べたいです!」と無理やりリクエストをねじ込んだ。
ちなみに彼は、和食の腕もなかなかのものだ。煮物、揚げ物、なんでもござれ。でも気取った料理よりも、切り干し大根を炊いた物とか、ヒジキを炊いた物とか、そんなお惣菜と言うか常備菜のようなものが特に美味しい。あの美味しさをどう表現すれば良いのか……心の琴線に触れるというか、なんかこう胸の辺りに染みる美味しさなのだ。郷愁を誘う……とでも言えば良いのだろうか。
いきなりパスタへの変更を請われて困り顔の萱代さんは、しばらくナスを見つめて思案に暮れていたけれど、やがておもむろにつぶやいた。
「ノルマにするか……」
「何です? ノルマって」
「シチリア島のカターニアって街のパスタだよ。ナスのトマトソースとリコッタ・サラータというチーズを使う。パスタはマッケローニにするか……。マッケローニ・アッラ・ノルマ……ノルマ風マッケローニってとこだな」
単なるトマトソースのパスタでも、萱代さんの手にかかればすごく美味しいのだ。そこにナスとチーズが加われば……想像しただけで、ヨダレがでてしまいそうだ。
「きっと美味しいんでしょうねぇ。そのノルマとやらは」
「旨いよ。ナスもトマトも、同じナス科の植物だし相性が良い。それに、名前の由来からして期待がもてる」
「名前って、ノルマ風……ってやつです?」
「あぁ。一九世紀のカターニアの作家ニーノ・マルトーリオがこのパスタを食べて、『これぞまさしくノルマだ!』と叫んだことに由来している。ちなみに『ノルマ』はカターニアの作曲家ヴィンチェンツォ・ベッリーニの代表作で、この傑作オペラにあやかって当時のカターニアでは素晴らしいものは『ノルマ』と呼び讃えていたそうだ」
萱代さんの薀蓄、今日も絶好調だ。
そんな話をしているうちにもナスは乱切りと輪切りに切り分けられ、油を張った鍋が火にかけられていた。やがて油のはねる軽快な音がキッチンから響いてきた。
「でもどうしたの? いきなりパスタが食べたいだなんて」
「その、もっとちゃんと教えてほしくて……」
「え? 何だって?」
ひときわ大きな声で、キッチンから萱代さんの声が返ってきた。きっと油の跳ねる音で、ワタシの声がよく聞こえないのだ。
「もっとちゃんと、パスタを教えてください!」
思わず叫んでしまった。
三ヶ月前に食べさせてもらった、ペペロンチーノやカルボナーラ。あんなに人を感動させるパスタをワタシも作ってみたい……その思いは、ずっと変わっていないのだ。もっとちゃんと教えてもらって、ちゃんと美味しいパスタを作ってみたい!
けれども萱代さんは、それっきり黙り込んでしまった。居た堪れなくなって、テレビをつけて間をもたせることにした。萱代さんがふたたび口を開いたのは、トマトとニンニクの刺激的な香りがキッチンから漂い始めた頃だった。
「イタリア料理なんて存在しない……」
「え、何です?」
唐突に言われ、うまく聞きとれなかった。
「イタリア料理なんて存在しないと言われている。どういう意味か説明できる?」
いまや世界中にイタリア料理のお店があって、世界中でイタリア料理が振る舞われている。それなのに「イタリア料理など存在しない」と言われたって意味が解らない。
「これが説明できるのなら教えるよ」
冗談を言っているのかと思ったのだけれど、萱代さんの表情は真剣だ。茶化すこともできず、かと言って正解も解らず「考えてみます」そう言ってワタシはふたたびテレビに視線を戻した。バラエティー番組に雷火が出てきて、萱代さんから「テレビ消せ」と怒られたのはその直後のできごとだ。
ダイニングテーブルに運ばれてきたのは、幸せを詰め込んだかのような一皿だった。コッテリとしたトマトの朱に染まるマッケローニ。酸味を伺わせるトマトの香りとじっくりと引き出されたニンニクの香り……これはもう最強タッグだ。そこに加わった、揚げナスの芳ばしい香り……。間違いない! これ、絶対に美味しいやつだ!
「冷めないうちに食べようぜ」
「いただきます!」
食べる前からもう、自分の頬が緩んでいるのがわかる。
口に含んだ瞬間、トマトのほのかな酸味が口中に広がった。オリーブオイルとニンニクの香りが鼻に抜ける。噛みしめるごとに、マッケローニのムッチリとした官能的な歯ごたえの虜になっていく。
ナスが芳ばしくて甘い。乱切りの揚げナスはソースに混ぜ込まれ、輪切りの揚げナスはパスタの上に飾られている。二つのナスのコントラストが愉快で、そして萱代さんが言っていたとおりトマトとの相性が抜群に良い。
そして何よりもたっぷりトッピングされたリコッタ・サラータが、パスタとソースの味わいを何倍にも膨らませている。リコッタと言うからペースト状のチーズを連想していたけど、削ることができるほど硬いチーズだったんだ……。
「どう? 旨いだろ」
「師匠、ノルマです! ノルマ!!」
マッケローニをフォークに刺すことすらもどかしい。行儀悪く皿ごと持ち上げて、口の中へかき込みたいほどの美味しさだ。……と言うか、実際にかき込んだ。あまりのもどかしさに皿ごと持ち上げて。テーブルの向かいでは萱代さんが、あきれ顔で苦笑している。でも気にしない。ワタシは美味しいものを、思いっきり頬張りたいのだ!
あっという間にパスタを食べ尽くしてしまったワタシは、皿をおいて手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
呆気にとられて萱代さんが見つめていた。
「いつも美味しそうに平らげてくれて嬉しいよ……」
そう言いながらも、引きつった笑みを浮かべている。
お行儀が悪くって申し訳ないとは思っている。けれども、萱代さんのパスタが美味しすぎるから悪いのだ。仕方がないことだと思って許してほしい。
「で、どうなの、さっきの問題。説明できる?」
エスプレッソマシンでミルクを泡立てながら、萱代さんが訊く。
「解んないですよ。いまご馳走になったのだってイタリア料理でしょ」
「そうなんだけどな。ま、解らないなら宿題だな」
「そんなぁ……」
パスタを教えてほしいと頼んで、まさかこんな禅問答えが待っていようとは思ってもみなかった。教えてほしいって頼んでるんだから、素直に教えてくれればいいのに。どうしてこんなにかたくななのか……。萱代さんって絶対、顔は良いけどモテないタイプだ。その証拠に週に何回かこの部屋に通っているけど、女性の影を感じたことはない。
「萱代さん、最近は生活にハリがあって楽しいでしょ?」
「なんで。いつも通りだけど?」
スチームのバルブを閉めながら、興味のなさそうな声が帰ってくる。
「ワタシがこうやって来てあげてるじゃないですか! 通い妻みたいで刺激的でしょ?」
短くため息をついたかと思うと、泡立てたミルクをエスプレッソに注ぎ始める。
「通い妻って普通、通ってきてアレコレ世話を焼いてくれるもんじゃないの? どっちかって言うと、俺が世話してるよね」
「ぐぬぬ……。お、お世話されに来てあげてるんです……」
「それに俺、彼女とか嫁さんとか要らないから」
「え? なんで!?」
「独りの方が気楽だろ。他人の人生まで背負い込むなんてご免だね」
そう言いながら差し出されたカップには、見事なリーフのラテアートが描かれていた。
「なんだか、寂しい考え方ですね……」
モテ要素のない言動に加えて、モテたいとも思わないだなんて……師匠ってなんと言うかもう、絶望的じゃないか。
「ほっとけ。価値観なんて、人それぞれだろ」
「いや、そうなんですけどね……」
寂しい考え方とは言ってみたものの、離婚経験のあるワタシとしては萱代さんの言うこともわからなくはない。あんなに憧れていた結婚生活だって、振り返ってみれば辛い思い出しかないのだから。そして離婚して身軽になった今、「独りの方が気楽だ」と感じている自分だっている。
とは言うものの、この先ずっと独りが良いのかと問われれば、そんな寂しい人生はごめんだと答えるだろう。だから次に一緒になる人は、失敗しないようにきちんと見極めたいと思ってしまう。
「きっと萱代さんに必要なのは、嫁じゃなくて弟子なんですよ! だからパスタ教えてください!」
「問題に答えられたらな」
融通のきかない男ってのは、どうなんだろう。萱代さんみたいな人はあまり女性ウケしそうにないけど、中には頑固者が良いっていう物好きだって居るかもしれない。けれどもワタシの好みではない。もっと優しくて、もっとワタシのことだけを見てくれる……そんな男性がきっと現れてくれるはずだ!
萱代さんが淹れてくれたカフェラテに口をつける。苦いエスプレッソとほんのりと甘みを引き出されたミルクのコントラスト……相変わらず美味しい。
「師匠、ノルマです! 良いバリスタになれますよ!」
彼に向かって、親指をニュッと立てる。
萱代さんは「師匠って呼ぶな」と言って苦笑していた。
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