第05話 押しかけ女房ならぬ押しかけ徒弟

 エレベーターを降りて彼の部屋に向かって廊下を歩いていると、腕を組んで壁にもたれる萱代さんの姿が目に入った。しかも彼の部屋の前ではなく、ワタシの部屋の前でたたずんでいる。

「萱代……さん?」

 声をかけると、驚いたようにワタシを見やる。

「よかった。帰ってきた……」

 彼は安堵の表情を浮かべた。

「もしかして、ずっと待ってたんですか?」

「いきなり飛び出して行っちゃうから……」

 頼まれもしないのに押しかけて、料理が上手くできなければ勝手にショックを受けて飛び出して……。その上こんなにも気を使わせてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

「色々と申し訳ありませんでした……」

 深々と頭を下げる。

 こんなにも心配してくれていただなんて……。突然飛び出していったから、怒っているんじゃないかと思っていたのに。

「立ち話もなんだし、うちに来ませんか」

 誘われるがままに、再び萱代さんの部屋へとお邪魔する。ダイニングテーブルにはワタシが出ていったときと変わらず、二枚の皿がセットされたままだった。ただ部屋を出たときと違うのは、両方の皿ともパスタが空になっていることだった。

「どうしたんですか? パスタ……」

「いただいたよ。せっかく作ってくれたんだし」

 思わず、驚きに目を見張ってしまった。あんなに不味いパスタを、全部たいらげてしまっただなんて……。しかも二人分も……。

「美味しく……なかったでしょ?」

 発した言葉はふるえ、涙声になっていた。

 涙が頬を濡らしていることに気づいたときにはもう、嗚咽は止まらなくなっていた。

 突然泣きだしたものだから、萱代さんが慌てている。彼には迷惑をかけっぱなしだ。泣き止まないワタシに、ダイニングの椅子をすすめてくれた。そして自分はテーブルを片付け、洗い物をして……泣いている間、ワタシをそっと放っておいてくれた。

 どうしてワタシは泣いているのだろうか。ワタシの作ったパスタを食べてくれて嬉しいから? 不味いパスタしかご馳走できなくて情けないから? 無理して食べてくれて申し訳ないから? きっとその全部だ。今日のできごとが……いや、この部屋でペペロンチーノをご馳走になってからのできごとが次々に思い出されて涙が止まらない。

「お腹すいてない?」

 洗い物を終えた萱代さんが、いまだ泣き止まないワタシにたずねる。

 パスタ一口しか食べていないのだ。お腹なんてペコペコに決まっている。「すいてます」と答えるより先に、お腹が鳴ってしまった。しかもかなり大きな音で……。

 悲しくたって、泣いていたって、お腹は空くのだ。ワタシは意外とたくましい。

 お腹の音を聞いて、萱代さんが苦笑している。ワタシも思わず噴き出してしまう。

 鼻をすすり、泣き笑いしながら彼に伝える。

「カルボナーラが……食べたいです」

 彼は笑いをこらえながらうなずくと、ワタシのためにカルボナーラを作ってくれた。カウンター越しに覗きみる彼の手際はみごとなもので、無駄のない動きは美しいとすら感じた。こんな風に表現すると、詩的すぎるだろうか。けれども詩的に表現したくなるほどに、段取りや手際に無駄がないのだ。

 そっと差し出されたお皿には、なめらかなクリーム色のソースをまとったスパゲッティが盛られ、美味しそうな湯気をたてている。ニンニクと挽きたての黒コショウの香りが食欲をそそり、またもやワタシのお腹の虫は盛大な音をたててしまった。

「いただきます」

 鼻声で手をあわせると、涙を拭きながらカルボナーラをフォークに巻いた。スパゲッティに絡みつくソースの艶やかさが目にしみる。

 初めてカルボナーラを食べるのだ。萱代さんが教えてくれたグアンチャーレってどんな味がするんだろうとか、ペコリーノってどんな味がするんだろうと興味はつきなかったのだけれど、一口食べた瞬間あまりの美味しさにどうでも良くなってしまった。

 食材が渾然一体となったソースの味はどこまでも濃厚で、滑らかな舌触りとスパゲッティの官能的な歯ごたえのハーモニーには感動すらおぼえてしまう。この調和の中にあっては、きっと牛乳やコンソメなんて、本当に邪魔な存在でしかないのだろう。

 夢中でむさぼるように食べた。フォークに巻きつく限界までスパゲッティを巻いて、大きな口を空けて頬ばった。口の中が至福で満たされていく。

 気がつけば、萱代さんが向かいの席に座り、ワタシが食べる様子を見つめていた。

「なにか付いてます?」

 自分で言っておいて、噴き出しそうになった。涙を流しながら、鼻をすすりながらパスタを頬ばっているのだ。なにか付いているどころの騒ぎではない。

「いや、いつも美味しそうに食べてくれると思ってさ。作り甲斐があるよ、まったく」

 自分がどんな顔をして食べているかなんて、考えたこともなかった……。

 でも、萱代さんの言うことは、痛いほどわかる。自分が作った料理を美味しそうに食べてくれる人が居るのなら、その表情を間近で見つめることができるのなら、こんなに嬉しいことはない。それは三年前、ワタシがいくら求めても得られなかった喜びなのだ。

「あの……ワタシ、旦那が居たんです」

 ワタシを見守っていた萱代さんが、驚いた表情で口を開けている。

 無理もない、話が唐突すぎる。

「聞いてもらっても良いですか?」

 恐る恐る上目づかいに尋ねると、いぶかしげな表情を浮かべながらも萱代さんがうなずく。大きくひとつ深呼吸をしてから、ワタシはゆっくりと話しはじめた。

「結婚してからずっと共働きだったんですけど、旦那は家事は女の仕事って考えの人で……。だからワタシ、毎日、必死にご飯を作ってたんです。でもね、旦那は美味しいなんて、一回も言ってくれなかったな。それどころか味にはケチをつけられるし、すぐに醤油やソースをかけまくるし……。あの頃は、ご飯を作るのが苦痛でしかなかったんです」

 料理を作って当然、掃除して当然、洗濯して当然……。自分は何もしないくせに、ワタシが少しでも家事をおこたると、ネチネチと責めたてられた。いま思い返しても胃が痛んでしまいそうだ。

 他人だった二人が一緒に暮らすのだから、価値観が違っても仕方ないと思った。だからせめて一年は我慢しようと思った。その間に、少しくらいはすり合わせられると思っていた。それなりに……いや、かなり努力したつもりだ。けれども無理だった。

「旦那と別れた時に思ったんです。料理なんて二度とするもんかって。今でも料理なんて、朝ごはんに卵をやくくらい……。それ以外は、コンビニのお弁当とか、スーパーのお惣菜とかですましてるんです。でもね、萱代さんが作ってくれたペペロンチーノを食べたとき、料理ってこんなに美味しく作ることができるんだって驚いてしまって……。こんなに美味しく作れるのなら、自分でもまた作ってみたいって思ってしまって……」

 結婚前、料理は得意じゃなかったけど、けっして嫌いではなかったはずだ。結婚してから、料理が苦痛になってしまった。萱代さんのパスタに感動して、結婚前の自分にもどれるんじゃないか……きっとワタシは、そんな風に思ってしまったのだ。

「どうして作ったこともないパスタを、美味しく作れるって勘違いしちゃったんでしょうね。でも、そんな勘違いをさせてしまうほどの力が、萱代さんのパスタにはあったんです。このカルボナーラも、とっても美味しい……こんな美味しいパスタがあるだなんて、今まで知らなかった。またワタシ、自分でも美味しく作れるんじゃないかって勘違いしてしまいそうです……」

 やはりワタシには無理だったのだ。美味しい料理を作るだなんて。

 勘違いして勇んで作ってはみたものの、散々な結果に終わってしまった。

「……作れるよ」

「え?」

 萱代さんの言葉に、耳をうたがう。

「作れるって言ってるの。ちゃんと美味しく作れるよ」

「作れますか? ワタシに……」

 聞き違いかと思った。彼がそんな言葉をかけてくれるだなんて……。

「旨いものを旨いと言える感性さえあれば、料理なんていくらでも上手になる」

「そういうもの……ですか?」

「後は、きちんと丁寧に作るだけだよ」

「そうですか……。美味しく作れますか……」

 ワタシでも美味しく作れると言われて、なんだか嬉しくなってしまう。

 それならば、ワタシでも美味しく作れるのならば、もう一度だけ挑戦してみたい。

「萱代さん、お願いがあるんですけど……」

 嬉しくなると調子に乗ってしまうのは、ワタシの悪い癖だと自覚はしている。だけどこればっかりは、どうしようもない。無理を承知で、不躾なお願いをぶつけてみる。

「料理を教えてもらえないでしょうか」

「俺が?」

「えぇ、萱代さんが……」

「宇久田さんに料理を?」

「えぇ、ワタシにお料理を……」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのは、いまの萱代さんの表情のことを言うのだろう。目をしばたたかせ、小首をかしげている。

「もしかして、この部屋が料理教室?」

「そうですね。うちの部屋はいろいろと無理なんで、この部屋で……」

「和気あいあいと、二人で夕食とか作っちゃう感じ?」

「あー、良いですねぇ。週末はアニメ観たり忙しいから、平日に通いますよ」

「へぇ、楽しそうだ」

「楽しいですよ、きっと!」

 彼がにこやかな笑みをこぼす。ワタシも釣られて、楽しい気分になってしまう。

 そして笑みを浮かべたままで、萱代さんはきっぱりと言い切った。

「だが断る」

「ナニッ!!」

 思わずのけぞってしまった。完全にOKの流れだったのに!

 萱代さんの表情から笑みが消え、一気にまくし立てる。

「さっきから聞いてりゃ、自分の都合ばっかり。俺になんのメリットもないじゃないか」

「どうしてですか。ワタシがこの部屋に通って、夕食を作ってあげるって言ってるんですよ?」

「俺が教えるんだったら、俺が作るようなものだろ」

「女の子の手料理が食べられるんですよ? そりゃ、女の子って呼べるような歳じゃないですけど……」

 言ってしまって、思わず口ごもる。自分で歳のことを言って自滅してしまった……いや、そもそも論点は歳の話なんかじゃない。

 呆れたように、萱代さんがため息をつく。

 そしてゆっくりとした調子で話しはじめる。

「前にも言ったけどさ、味に関しては妥協することができないから。俺が教えると厳しくなってしまうよ。耐えられないでしょ、そんなの。また料理が嫌いになってしまう」

 言われてみれば、確かにその通りだ。美味しく作れなかっただけでもショックを受けるワタシが、アレコレと指摘されて落ち込まない訳がない。

「それでも……スパルタ式でも……こんなに美味しい料理を作れるようになるのなら……少しくらいの我慢は……むぅ……」

「やめときなって。自分のペースで、ゆっくり楽しんだほうが良い」

「そう……ですかね」

 また萱代さんに、要らぬ迷惑をかけるところだった。自分の浅はかな考えに落ち込み、肩を落としてしまう。

「その代わり……」

 おもむろに、彼が口を開く。

 何事かと思い、上目づかいに表情をうかがう。

「いつでもうちに来てくれていいよ。飯くらいはご馳走する」

「本当に!?」

 思わず両手もろてをあげて喜んでしまう。

「気持ちいいほど美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるしね。たまには人のために作らないと、腕がなまる」

「良いんですか? 本当に」

 苦笑しながら、萱代さんがうなずく。

「料理を教えたりはしないけど、俺が作るところを見て勝手に憶える分には、厳しいことを言わないようにするよ」

 ワタシが小躍りせんばかりに喜んだことは、言うまでもないだろう。

 どれくらいの時間がかかるのかわからないけど、いつの日か萱代さんにワタシのパスタを「美味しい」と言ってもらえる日を夢みて、もう一度お料理に挑戦してみようと思う。

 作れるだろうか……そんなパスタを。萱代さんは「作れる」と言ってくれた。まずはその言葉を信じてみたいと思う。

 あとで教わったのだけれど萱代さんが作ってくれたパスタは、正確には『スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ』と言って、『炭焼職人風スパゲッティ』って意味らしい。荒く挽いた黒コショウを、炭の粉に見立てているのだそうだ。

 職人と聞いて、なんだか萱代さんにピッタリの言葉だと思ってしまった。魔法のように美味しいパスタを生み出す萱代さんは、炭焼き職人ならぬパスタ《パスタ》職人イオだ。

 そして職人気質の萱代さんに無理やり弟子入りすることにしたワタシは、押しかけ女房ならぬ押しかけ徒弟なのだ。

 冗談のつもりで彼のことを『師匠』と呼んでみたのだけれど、これが意外としっくりときた。萱代さんは「そんな呼び方するな」と嫌がっていたけれど、嫌がりようがあまりに面白かったから、たまにはイタズラ心を発揮して『師匠』と呼んでみようかと思っている。

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