第03話 珈琲を飲んで感動する日が来るだなんて

 暗くなる前に、マンションの前までたどり着くことができた。夏は日が長くて助かる。これで蒸し返すような暑ささえなければ、最高の季節だ。

 暗くなってから家路をたどると、なんだか物悲しい気分になってしまう。そして部屋にたどり着いても、その気分を引きずることになる。そうなのだ、真っ暗な部屋に帰るのが苦手なのだ。昼間の長さなんて、長ければ長いほど嬉しい。いっそ日本にも、白夜がやってこないだろうか……。

 馬鹿なことを考えながらエントランスに入ろうとしたとき、ふと脇の喫茶店が目に入った。マンションの一階に入っている喫茶店で、見かけるたびに一度くらい寄ってみようと思いながらも、いつも素通りするお店だ。

 お店の入口には、『純喫茶スターヒル』と書かれた古風な看板が掲げられている。純喫茶って、普通の喫茶店とは違うのだろうか……そんなことを考えていると、ガラス窓の向こう、お店のテーブル席から手を振る男性の姿に気がついた。

「え? 萱代さん!?」

 無愛想な表情で手招きをしているのは、萱代さんだ。入ってこいということだろうか。招かれるままに、店のドアを開けると、カランコロンとドアベルの音が響いた。

「いらっしゃいませ」

 落ち着いたマスターの声とともに、珈琲の香りをまとった涼やかな空気が迎えてくれた。夕刻とはいえ外はまだ暑い。家路を急いで上気した頭が、すっと冷えて軽くなる気がした。

「こっち、こっち」

 声の方を見やると、一番奥のテーブルで萱代さんが手を挙げていた。

 静かなクラッシックが流れる店内を見回す。カウンター席とテーブル席が三つの、小ぢんまりとしたお店だ。ワタシたちの他にお客は居ない。

「こんにちは。先日はどうも……」

 挨拶しながら、萱代さんの向かいに座る。

「もう大丈夫?」

 彼が自らの鼻の頭を指先で示す。

「えぇ。少しぶつけただけですし……」

「今日は良い格好してるね。一瞬、誰だか判らなかったよ」

 萱代さんが、ワタシのスーツを指さす。

 良い格好と言われて、何のことだか解らなかった。土曜日の格好と比べると……という意味だろう。くたびれたキャラクターTシャツにジャージ姿と比べれば、どんな格好だって小綺麗に見える。

 それに仕事モードのメイクも決めて、ヘアセットだってバッチリだ。スッピンでボサボサ頭の土曜と比べればだいぶマシに見えるはず……とは言うものの、誰だか判らないって程ではないだろう。もしかしてワタシ、けっこう失礼なことを言われてないか? 確かにだらしのない姿で部屋にお邪魔してしまったけれども、あれは仕方がないじゃないか。ドアに激突してしまったんだし……いや、まて、あれだってワタシの不注意が招いた結果か……。

「なに飲む?」

「それじゃ、アイス珈琲を」

 萱代さんが、マスターにオーダーを通してくれる。

「よく来るんですか? このお店」

「そうだねぇ。仕事の打ち合わせで使ったり、気分転換したいときとか……。このマンションに住んでるんだから、宇久田さんもよく来るでしょ?」

「え、えぇ……」

 初めて来たとは言いだせずに、つい話を合わせてしまう。

「良い店だと思わない? こういう喫茶店は少なくなってきたし、貴重な存在だよね。カフェみたいな店は、どんどん増えるけどさ……」

 申し訳ないけど、ワタシにはただの古ぼけた喫茶店にしか見えない。萱代さんが言うカフェみたいな店っていうのは、きっとスターバックスやタリーズみたいなお店のことなんだろうけど、ワタシにはスタバなんかの方が良い喫茶店だと思えてしまう……そういうものではないのだろうか。

 お店の中を見回していると、不意にテーブルの上のスマートフォンが震えだした。「ちょっと失礼」そう言うと萱代さんは、スマホを手にとり電話にでる。

 そうか、そうだよね。スマホって、電話がかかってきたりするんだよね……。当たり前のことなのに、萱代さんが電話する姿を感心して見つめてしまう。もう何年も、スマホで通話なんてしてない。もともとが電話だということすら、忘れそうになってしまう。

「ごめん、急用。部屋に戻るね」

「お部屋って……ご家族です? てっきりお一人かと……」

「一人だよ。うちの部屋、仕事場を兼ねてるから」

 なるほど。仕事がらみで部屋に戻らなくてはならないってことらしい。

「ここ払っとくから、ゆっくりしていって」

 マスターに右手を上げたかと思うと、萱代さんはそのまま店の外へと駆けて行ってしまった。まさか今ので、支払いが終わったことになるのだろうか……。

「チケットでいただいていますから、大丈夫ですよ」

 ワタシの不安を察してか、マスターがそっと教えてくれた。そして壁一面にはられた無数の食券のようなつづりの中から一つを選び出すと、二枚の券を切り離した。

「おや、ご存じないですか? 珈琲チケット」

 不思議そうに見つめるワタシを見て、マスターが疑問の声を上げる。

 恥ずかしながら、初めて耳にする名前だ。マスターによると、このお店では十杯分の代金で、十一枚が一綴になったチケットを買えるらしい。一枚で珈琲一杯が飲めるから、チケットなら一杯分お得という計算だ。

「昔ながらのお得意様へのサービスですよ。もう何十年もこうやって、常連さんのチケットを壁に貼っています。今さらポイントカードというのも、シックリきませんしね……」

 なるほど。壁のチケットの数だけ、常連さんが居るという事か……。

「良かったら、カウンターにいらっしゃいませんか」

 誘われるまま、テーブル席からカウンターへと移動する。カウンターの背の高い椅子に座ると、目の前では氷の詰まった珈琲サーバーの上に布製のフィルタがセットされるところだった。

「注文のたびに淹れてるんですか?」

 アイス珈琲というと、作りおきが冷蔵庫で冷やされているイメージだ。まさかドリップするとは思わず驚いてしまう。

「やはり、淹れたての香りを楽しんでいただきたいですし……」

 はにかんだ笑みを浮かべながら、マスターが挽きたての珈琲豆をフィルタへと移す。計量スプーン一杯が珈琲一杯分だと教えてくれた。フィルタの中には、たっぷりと二杯分の珈琲豆が入れらている。氷で薄まる分、豆を増やして濃い目に抽出するのだそうだ。

 ポットの細い口から、静かに湯が注がれる。粉のすべてに湯を染みわたらせて、そのまま静かに三十秒の蒸らし。珈琲豆から立ちのぼる湯気がえも言われぬ香気をはらみ、そっと鼻腔をくすぐっていく。

「いい匂い……」

 思わずこぼれた言葉に、マスターが満足げに微笑む。

 フィルタからサーバーへと、生まれたての珈琲の雫がポタリと一滴、そして二滴と、氷の間をすべるように流れおちていく。いつしか水に薄まり氷の中で、その存在がわからなくなってしまった。

 蒸らしを終えて再び湯が注がれると、珈琲豆の粉から豊かな泡が湧きあがる。ポットの注ぎ口がフィルタの上で円をえがくたび、湯を受けた珈琲豆から止めどなく泡が沸きたってくる。

 いよいよ本格的にサーバーの中へ降り始めた珈琲の雫は、大量の氷で即座に冷やされ味と香りをその場にとどめおく。珈琲の雫を受けていびつな形に溶け出した氷は、やがてバランスを失ってカラリと音をたててくずれた。

「おまたせしました」

 差し出されたアイス珈琲は、銅のマグカップに注がれていた。冷たく冷えたカップの外側は、無数の水滴に覆われて涼をさそう。

「最初の一口は、どうぞそのまま。のちにお好みで、シロップとクリームをお使いください」

 こんなに丁寧に淹れられた珈琲は、どんな味がするのだろうか……胸を高鳴らせながら、銅のカップを手にとった。ひんやりとしたカップの手触りに、そして冷やされてなお匂う珈琲の香りに、否が応でも期待が高まってしまう。

 カップに口をつけた瞬間、唇に伝わる冷たさに背筋が震えた。口の中へと滑り込んでくる涼やかな珈琲の感触が心地よい。口の中一杯に苦みが広がる。いや、苦いだけじゃない。芳ばしくもある。そうだ、芳ばしい香りだ……香りの良さが、今まで飲んだどの珈琲とも圧倒的に違う。酩酊にも似た感覚を覚えながら珈琲を飲みくだすと、喉の奥を流れ落ちた後にスッキリとした酸味とかすかな甘みが残った。

 言葉が出なかった。代わりに、大きなため息がこぼれた。息を吐くたびに、香りの残滓が鼻に抜ける。

 きっとワタシはいま感動している。珈琲を飲んで感動する日が来るだなんて、思ってもみなかった。珈琲を淹れてくれたマスターに、この思いを伝えたい……そう思って何か言おうとしたのだけれど、やはり言葉なんて出てこなかった。

 言い淀んで銅のカップから視線を上げると、マスターは人差し指を立ててワタシの言葉を制したあと、右手でそっとシロップとクリームを指ししめした。


     ◇


 満ち足りた気分で部屋に戻り、スーツのままベッドに身をなげた。

 あのアイス珈琲、マスターにいざなわれるままにシロップを加えると、また違った味わいを楽しむことができた。苦みが抑えられて、隠れていたフルーティーな香りが顔を出した。そしてクリームを加えると味の角が丸くなり、珈琲のコクとミルクのコクが合わさって飲みごたえのある風味へと変わった。

 マスターの珈琲は、どうしてこんなに美味しいのか……思わずそんな無粋な質問をぶつけてしまった。マスターは照れ笑いを浮かべながら、「美味しくなるように、丁寧に淹れているだけですよ」そんなことを言っていた。

 堪能したという感想は、たった一杯の珈琲を表すのに相応しい表現なのだろうか。いや、堪能したのは珈琲だけじゃない。お店の雰囲気やマスターとの会話も含めて、あの店のすべてを堪能したのだ。

 この感動を玻璃乃に伝えようと思ったけれど、メッセージでは伝えきれないと考えてやめた。また昼休みにでも、語って聞かせるとしよう。

 萱代さんのパスタといい、マスターの珈琲といい、ワタシの味の常識を安々とくつがえしてしまう。二十年以上も生きてきたというのに、こんなに美味しいパスタや珈琲が存在することを知らなかっただなんて……そう、この味に出合わずに生きてきただなんて、なんだか損をしているような気分になってしまう。

 萱代さんと言えば、マスターから良い話を聞くことができた。彼はパスタの中でもカルボナーラが好きで、あのお店でもよく食べるのだそうだ。先日のパスタのお礼に、ワタシが何かご馳走する約束になっている。好きなパスタを作ってあげれば、きっと彼もワタシの料理の腕を認めてくれることだろう。ワタシだって、料理くらいできるのだ。

 そうと決まれば、早速レシピを調べなくては……。カルボナーラって確か、クリームっぽい白いソースのパスタだったはずだ。

 ベッドに寝そべったまま、スマートフォンで『カルボナーラ レシピ』とウェブ検索すると、数え切れないほどのレシピが表示された。

『牛乳で作る超☆濃厚カルボナーラ』

『カンタン! 牛乳と全卵濃厚カルボナーラ』

『プロが教えるカルボナーラ 生クリームでリッチな味に』

『失敗しないカルボナーラ 隠し味は醤油でキマリ!』

『簡単ヘルシー 濃厚豆乳カルボナーラ』

『コンソメで旨みアップ! 極上カルボナーラ』

 目についたサイトを次々と見ていくけれど、いろんなレシピがあって困ってしまう。具材はどうやら、ベーコンやハムを使うらしい。オリーブオイルで炒めて、卵と牛乳を入れて茹でたスパゲティと絡め、黒コショウと粉チーズを振りかける……共通点はこんな感じだろうか。これだったら、ワタシにだって作れそうだ。

 ベッドから飛び起きて、冷蔵庫をのぞく。朝食用に買い置きしているハムと卵がある。牛乳と粉チーズだって、ちゃんとある。調味料を確認してみれば、塩もオリーブオイルも大丈夫だ。確か棚にスパゲティもあったはずだ。なんだ、うちにある材料だけでできてしまうじゃないか……カルボナーラとやらは。

 早速明日、作ってあげることにしよう。明日の仕事帰りに、萱代さんの部屋へ夕食を作りに行くことにしよう……。

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