第9話

「ちょっと!来るのがおそいん……えっ?」


 彼女の腕を掴むとビクッと一瞬震えたが、今は気にしてはいられない。


「こちらの女性は私の妻なんです。失礼させて頂きます」

「おい、今俺たちが……って、おい!まだ話は終わってねえよ!おい!」


 俺の声も震えていただろうが、そう一言だけ告げると雪姫の手を引き、足早にその場を立ち去る。男達の声が背後から聞こえてきたが全く耳を傾けない。次第にその声は周りの音に溶け込んでいった。


    ***


 結局、その後は何だか声をかけるのも気まずくて、無言の空間が続いた。その空気が漂うまま、俺たちはプールを後にした。


(この空気はいつまで続くんだ…?)


 帰ってからもこんな調子じゃ、唯一の憩いの場すら無くなってしまうのだが。


「はぁ~…」


そんな静寂を破ったのは短く、不満を含んだようなため息だった。


「その……まずはナンパされた時、助けてくれてありがと…。でも、妻って言って切り抜けるのはどうなの…?彼女ならまだしも、あいつらに人妻だって勘違いされたのよ……?」

「あ、あいつらだって人妻に手を出すとなったら、少しぐらいブレーキが働くだろうと思って…」

「それで逆に興奮するような奴もいるでしょ……」

「た、確かに…。うかつだったかもな……」


 ナンパされていた時の様に顔色も悪くなければ、減らず口をたたくぐらいの元気は取り戻したようなので、少しばかりほっとしたが、そこを気にしていたとは…


「そんな過ぎたこと今更気にしたって仕方ない。あの時の顔面蒼白なお前をほっとくよりも全然マシだろ?」

「……」

「男に悪い思い出でもあるのか?」

「なっ……!」

「そりゃ、よく知りもしない男に迫られれば怖いだろうが、あの時のお前の反応はそれだけで片付けちゃいけない気がしてる」

「……。あるって言えばあるけど、あんたに言う必要は無い」

「そりゃ、そうだ。でも、それを知れただけでも十分だ。これで無意識にお前を傷つける心配も無いしな」

「……。あっそ、殊勝な心掛けね」


 つい先日、会ったばかりでほとんど何も知らない。生意気で、憎まれ口ばかりだが、生まれつきそうだった訳では無いはずだ。彼女の今まで見聞きした物を、想像して少しでも寄り添ってあげたい。お節介かもしれないがそう思ったんだ。


「じゃあ、俺が助けてやった時に腕を掴んでことも謝らないとな。悪かった」

「あれについては咎めないわ。それに…あいつとアンタを同じ様に扱うのは間違ってると思う。それじゃいつまでも私も変われないし」

「そうか……。じゃあ改めてもう一度俺と手でも繋ぐか」

「はっ?!」

「自分を変えたいなら、行動に起こすのは早ければ早い方が良いんじゃないのか。それともまだ怖いか?」


 9割はどれくらい余裕が無いのか確かめてみたい。残りの1割はどんな反応をするのか悪い方向に好奇心が働いてしまった。


「も、もちろん。それぐらい余裕でこなしてあげるわ」


 その強がりは俺の目を見ながら言ってみてほしい。そんなんじゃ、差し出された震える手をどうしたらいいか分からなくなるだろう。


「……やるなら一思いにやりなさいよぉ…」

「悪者扱いするな」


 そこまで拒絶されている訳でも無さそうなので、その小さな手をそっと握る。強く握り返されたその感触に、精一杯の強がりを感じて、思わず笑ってしまいそうになる。わざわざ口には出さないが、いつかそんな暗い気持ちも、消えてしまうような出会いが会って欲しいなと願いたい。


柄にも無いことをしたせいで、背中に大量の汗をかいたことは墓場まで持っていきたいと思う。


 

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