2ー6 風が浚う






 ――はな。


 名を呼ばれた。

 その声に名を呼ばれると不思議な気持ちになる。

 あと何度、この声はこの名を呼んでくれるだろう。

 いつか訪れる最後を思いたくないから、もう呼ばないで欲しい。

 いつか最後がくるとわかっているから、何度も何度も呼ばせてしまう。


 ――はな、頼みがあるのだ。


 差し伸べられた手は皺くちゃだ。

 初めて触れた日のその手はしなやかで、まだ幼さの残るものだった。


 ああ。


 お前の願いなら、いくらでも――






 急激に意識を覚醒に促したのは、強烈な臭いだった。

 何かが腐ったような、鼻の奥にこびりつくような臭い。何をどうしたらこんな臭いになるのか、想像もつかないほど酷いものだった。

 目を開けると、薄闇の中に、墨を垂らしたような真っ黒な靄がいた。布団に乗りかかられているらしく、身動きが全くできない。まさしく金縛りにあっているようだった。

 黒い靄が覗き込むように近づいてくる。そこには不気味な笑みを刷いた、面と同じ顔があった。面自体はなく、黒い靄が器である面の形になっていた。

 気持ち悪い。

 腐臭が鼻をつき、息が詰まる。

 やばい。

 黒い靄は英を取り込もうとしているのか、はたまた身体に入り込もうとしているのか。

 どちらにしてもやばい。

 身体を捩ってみるが、大して動かず、靄は捕らえた獲物のささやかな抵抗など気にする素振りも見せない。

 徐々に近づいてくる面から逃れるように、唯一自由な頭を振ると、硬いものにぶつかる。

 塩を入れた小皿だ。

 頭がぶつかった拍子に零れたのか。清めの塩に怯むように、靄は仰け反るようにして英の顔から離れた。しかし、身体を押さえている力は弱まらない。

 結局状況は大して変わっていない。

 そう思いかけたが、僅かに広くなった視界の隅で何かが動くのが見えた。

 何かが、ひらひらと舞っている。

 

 花?

 ……いや、違う。


 窓の方からひらりひらりと蝶が飛んできた。


 靄に抵抗するのも忘れて、闇の中でも淡い光を纏った薄氷のような翅を目で追っていた。

 その姿は氷の破片が舞っているようにも見え、とても美しい。

 蝶は迷うことなくベッドに近づいてくると、靄と英の間に滑り込んできた。

 そして、羽ばたきのようにゆったりと翅を動かしたかと思うと、突然、英の鼻先から靄を押し上げるように風が起こった。

 突風はごうと音をさせて天井へと吹き抜けていく。黒い靄は風に吹き上げられ、天井をすり抜けて消える。


 布団を撥ね退けて、身体を起こす。

 暗がりでも手に取るようにわかる見慣れた部屋の様子は、突風が吹いたとは思えないほどいつも通りだった。何一つ動いた様子もない。腐臭も消えていた。

 突風がすべてを浚っていってくれたようだ。

「……蝶?」

 先ほどははっきり見えたその姿を暗闇の中に見つけられず、呼んでいた。

 そういえば、名はあるのだろうか。

 また姿を消してしまったのかと嘆息しかけたが、唐突に、目の前に現れた。

 あっと思った瞬間、ベッドの横に真っ赤な着物の女の子が立っていた。夕方、神社の境内で見た少女だった。

「きみは、あの蝶なのか」

 眼前で姿を変えたのだから、疑いようものないが、訊ねてしまう。

 小さく頷く少女の髪飾りがしゃらんと音をたてた。

 枕元に置いてあるスイッチで電気をつけ、ベッドの上で居住まいを正して少女に向き合う。

 少女も英をまっすぐに見据えていた。

 艶やかな黒髪、白い肌、整った相貌。表情の薄いその雰囲気は橘に似ている気がした。

「今の風はきみが?」

『うむ』

「ありがとう、助けてくれたんだよな」

 少女は小さく頷いた。





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