2-7 はな






「あれは何だったんだ。妖怪なのか」

『あれは……人間の感情の煮凝りのようなもの。面はもとは神聖なものであったろうに、なぜあれほど禍々しい気を帯びてしまったのかはわからぬがな。おまえの身体を欲しているようだったの』

 煮凝りか。

「靄はどうなったんだ?」

『追い払っただけじゃ。ただ、もうこの家には入れまいよ。本体の面に戻るじゃろう』

 英の問いかけに淡々と答えてくれる。

「じゃあ早くお祓いをしてもらわないと、またいずれ、出て来てしまうってことだよな」

『おそらくは。まあ、当分は大人しいだろうが』

 それでも、また誰かに災いをもたらすかもしれない。

「明日にでも佐久間さんに言わないと」

 呟きが聞こえたのか、少女は顔を顰める。初めて表情が変わった。

『己から首を突っ込むでない』

「心配してくれるのか」

 純粋に不思議に思ったから出た問いだった。

『……晴三郎との約束じゃからな』

「そうだ! 晴三郎!」

 布団に手をついて前のめりになる。蝶は逆に気圧されたように上半身を引いた。やけに人っぽい仕草だと胸の内で感心する。

「なぜ、時枝紫英はきみを絵に描いて、俺に色を塗らせたんだ?」

 時枝紫英の真意が知りたい。

 彼女の想いを聞きたい。

 訊ねたいことはいくつもあったが、少女は口を噤んだまま、怪訝そうこちらをみるだけだった。

 それから不意に手を持ち上げたかと思うと、英の頭に優しく手を置いた。

『人は眠る時間じゃ。話しはまた明日』

 枕元の時計を確認すると、午前三時を回っていた。

「また姿を消したりしない?」

『ずっと近くにいた』

「俺がわかるところにいて欲しいんだけど」

 わからずに見られているというのは落ち着かない。そう伝えると、少女は「善処する」と応えるてくれた。

「きみは眠るのか」

『我のことは気にするでない』

 布団を用意しようかと提案してみたが、素っ気なく断られてしまう。

「じゃあ、布団の代わりになるかわからないけど、あの椿にとまってもいいから」

 一度翅を休めていた窓際の椿を指す。

『出ていけとは言わぬのか』

 少女は意地悪そうに口端をあげた。仕草がいちいち人間じみている。

「こんな得体の知れぬものが居たら気も休まらないであろう」

 試すような言い方をしてくる。

 ならば確かに信用できないから出てけと言ったら、この少女姿の妖はどんな顔をするだろう。

「追い出さないけど。じゃあ、ひとつだけ教えて欲しい」

『なにかの』

「きみは、時枝晴三郎を恨んでいるか」

 英の言葉に、少女は虚を突かれたように目を丸くした。

 思いもよらない、考えたことすらないようなことを問われれば誰だって面食らう。人も妖も。

 この反応だけで……いや、この部屋で最初に少女の瞳を見た時に分かった。

「じゃあ、俺は寝るね。おやすみなさい」

 幼い頃から妖に危険な目に遭わされたことが何度もある。けれど、虎や橘のように人を守ってくれる存在がいることも知っている。

 出会ったばかりで、今初めて言葉を交わした蝶を家から追い出さず、寝ようとしている自分は、確かに危機感が足りないのかもしれない。

 そう思わなくはないが、黒い靄から助けてくれた少女に警戒心を持つ気にはなれなかった。

 布団から顔を出して窓際を見上げる。

 蝶々は椿の葉にとまっていた。淡い光を纏うその姿は精巧な細工物のようだ。

 光を透かすステンドグラスのように墨線の模様に薄氷が張ったような青い翅。

 瞼を閉ざす。


 描かれた真赤な鞠と桃色の花弁。しなやかに流れる墨線で象られた姿。


 ああ、あの鞠は少女の着物と同じ色なのだな。


 あの絵からは、晴三郎の眼差しが手に取るように感じられた。

 そうだ。あんな眼差しで描かれたものを疑う必要なんてなかった。不安に思うことなどなかったのだ。

 洸の言う通りだったんだ。

 とろとろと眠気に身を委ねながら思う。


 時枝晴三郎はきっと――





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る