2ー5 鬼ごっこ






 道を挟んで鳥居の反対側にある数台分の駐車場の隅に停められた車から、ここの神社の宮司が降りた。四十手前の男性で、いつも清潔な白衣と袴を身につけ髪もきちんと整えている。眼鏡の奥の瞳はいつも優しげで、人好きのする雰囲気のある人だ。

「英くん、来てたんだね」

「佐久間さん、こんばんは。もう帰るところでしたけど」

「そうか。見てもらいたいものがあったんだけど」

「……また引き取ってきたんですか」

 声に非難の色が滲んでしまう。

 佐久間さんは人が良すぎるせいで、泣きつかれると断り切れず、曰く付きだったり呪いの品と呼ばれるような、持ち主の手に余る品々を引き取ってしまうのだ。

 そして、この神社ならば引き取ってくれると噂が噂を呼び、ひっきりなしに相談が寄せられるようになっていた。

 佐久間さんは妖怪の類を見ることは出来ないようだが、この人がお祓いをすると、なぜか曰く付きの品たちは鎮まり、神社の蔵で大人しく眠るのだ。

 そうでなければランニングコースに組み込んで気軽に立ち寄ったり出来ない。

 ここの神社は境内の手入れが行き届いており、けれど敷地内の草花には余計な手を加えず、伸びのびと育っている。空気の流れが良く、お気に入りの場所だ。

 入ってみないかと誘われても蔵にだけは絶対に近寄らないようにしているが。

「いやぁ、持ち主の人たちもかなり困っていたみたいでな。ただ、曰く付きかどうかは別として、かなりの品なのは間違いないぞ」

 見てもらいたいって、そういうことか。

 彼は英が妖怪の類を見えることを知らない。

 ただ、数年前に彼が持っている品を見て、謂れも聞かないうちに良くないものだと忠告してしまい、それ以来、勘が良いとは思われているらしく、引き取ってきたものを見てくれないかと頼まれることがある。断固拒否している。

 しかし今回は、預かった品自体が良い物だから見て行かないかと言っているらしい。

「いつも言ってるじゃないですか。お祓いした後でも絶対見ませんから」

「あはは、そうだったね」

「ちなみに、今回は何なんですか」

「面だ」

 言いながら後部座席のドアを開け、上半身を潜り込ませた佐久間は「あれ?」と気の抜けた声をだした。

「どうかしましたか」

「いやぁ、ちゃんと閉じておいたはずだったんだけど……」

 数歩離れたところにいる英に見えるようにと佐久間は身体をずらす。

 座席には両手で捧げ持てるほどの古びた桐箱があった。結ばれていただろう朱色の紐が箱の両脇にだらりと広がり、蓋が僅かにずれていた。

 すぐに見るんじゃなかったと後悔した。

 見えてしまった。

 桐箱の隙間から覗いた、黄色みを帯びた乳白色の面から黒い靄のようなものが立ち上がったのを。

 瞬間、先ほど感じた震えとは比べものにならないほどの怖気が全身を走る。


 駄目だ、だめ。これはやばい。


 靄は明確な形になっていなかったが、英を見て確かににいっと笑みを浮かべたのだ。

 ばっと車から離れる。

「やばい」

 逃げなければ。

「英くん?」

 突如走り出した英の背中に、佐久間は驚いたように声を掛けてきたが、応えている余裕はない。

 佐久間さんは絶対に安全だから気にしなくていい。

 とにかく逃げなければ。

 住宅街の細い道を何度も曲がりながら夢中で走る。

 どこへ行けばいいだろうか。

 神社から離れたのは間違いだったか。けれど、あれは佐久間さんの手ずから境内に持ち込まれてしまう。清浄な境内の中ならば今のように自由には動けないかもしれないがそれも推測でしかない。

 家に戻るか。いや、家までついて来られるのは良くない。

 虎を頼るか。だめだ。郁が居たらだめだ。巻き込んでしまうかもしれない。それは絶対にだめ。

 一葉は数日かけて遠出すると言っていた。烏はそのお供。

 とれる選択肢は一つしかない。

 撒く。とにかく走って撒くしかない。

 ひとまず近くに別の神社へ向かおう。あそこならば黒い靄は入れないかも知れない。そうであってくれと願いながら足を動かす。

 走りながら背後を確認する。姿こそ見えないが、何か恐ろしい気配が近づいてくるのは感じる。足を止めたら一気に追いつかれてしまうだろう。

 十分近く走って住宅街を抜け、大通りに面した神社へと駆け込む。境内に人影はほとんどなかった。

 本殿のすぐ近くに立つ冬でも葉の落ちない大木に寄りかかり、胸に手をあてて息を整える。

 日が沈みかけ、あたりが薄暗くなってきたこの時間の軽暖はしんとしていて、時おり風が吹き抜けていく音しかしない。

 おちつけ。落ち着け。

 胸の内で呟きながら、長い呼吸を繰り返す。

 息が整った頃、黒い靄の気配が近づいてきているのに気が付き、また鼓動が早くなる。

 たいして意味がないと分かりつつ、少しでも枝葉の陰に隠れるよう大樹に背中を押し付ける。

 黒い靄はしばらく神社の周りをうろうろしていたが、英を見失ってくれたらしく、気配がゆっくりと離れていった。

「……助かったぁ」

 黒い靄の気配が戻ってこないのをじっくり待って確認してから、大木から背中を離す。ゴツゴツした幹に両手をあてる。

「ありがとうございました」

 それから本殿へ向かい、参拝してお礼をする。

 砂利を踏んで鳥居へ向う。静かに足を進めているつもりでも、人気のない境内では足音が響く。

 鳥居をくぐる前に黒い靄がいないかもう一度確認してから神社を離れた。

 一日のランニングとしては既に十分なほど走っていたが、家まで全力で走った。


 帰り着いた家はしんとしていた。

 靄は神社に戻ったのだろうか。

 玄関を閉じる前に気配を探ってみたが、当然、黒い靄の気配はない。

 見失って興味をなくしていてくれと願いながら玄関の鍵をかける。カシャンという音が心強く思えた。

 夜は早々に夕飯を済ませ、明日の学校の支度を整え、入念に戸締りをした。

 枕元に清めた塩を小皿に入れて用意し、布団に潜り込む。

 窓際に置いた苔玉からひょろりと生えた椿を見上げる。葉の艶々とした質感は暗闇の中でもわかる。

 昼間、あそこにとまった蝶は、今どこにいるのだろう。

 近くにいるのだろうか。


 晴三郎はどんな瞳であの蝶を見つめていたのだろう。


 どんな関係だったんだろう。


 とりとめもなくそんなことを考えながら、眠りについていた。





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