2ー4 着物の少女






「あや……英っ!」

 鋭い声に名を呼ばれ、はっと我に返る。

 隣に座った洸が心配そうに覗き込んできていた。

 春の匂いのする宵の口に引き戻される。風のない静かな夕暮れ時の中にいる。

 冬の気配を纏う黄葉は記憶に刻まれた光景だ。想像の残り香を振り払うように頭を振る。

「ごめん、ぼーっとしてた」

「どうした?」

 なんでもない、と答えようと口を開きかけるが、洸の声に遮られる。

「なんでもないはナシだからな」

 洸は膝に頬杖をついて見上げてきた。誤魔化そうとしたが逃がしてくれないようだ。

「……あの蝶ってさ、俺が絵を完成させたから出てきたんだよな、多分」

「状況から考えてその可能性が高いと思う」

「だとすると、紫英が描いてから四十年近く絵に閉じ込められていたわけじゃん」

「ああ……そんなことをした紫英を恨んでるんじゃないかって?」

 一つ頷くが、洸は「ははっ」と声をだして笑った。

「それはないな」

 英の臆病な疑念を洸は一声で切って捨てた。

「色を入れて落款印をと指示したのは紫英なんだ。そうすれば蝶が出てくるってわかっていたはずだ。英とは状況が違うんだ。恨まれるような相手を封印した絵をわざわざ遺言にして子孫に残すかよ。それじゃあ、厄介ごとを押し付けた形になる。時枝晴三郎がそんな人だったとは思えない」

 言い切った洸の声は、会ったこともない時枝晴三郎という人への信頼に満ち揺るぎなかった。

「英はネガティブに考えすぎなんだ。言いたいことはわかるけど」

 洸はふっと表情をやわらげた。

「英に残されていたことには必ず意味がある」

「そうだね。洸、ありがとう」

 友人に断言されると、そうなのだろうと思えてくる。

「あの封印の仕組みも突き止めたいし、早く英のところに来てくれると良いな」

 洸はおもむろに立ち上がり、背中を伸ばした。

「なんか分かったら、ちゃんと全部教えろよ」

 念を押す洸の声がやけに真剣で、思わず苦笑しながらも「わかってるよ」と頷く。

「そろそろ帰ろうか」

 言うが早いか、足早に鳥居へ向かって歩いて行ってしまう。

 友人の素早い行動に驚きながらも慌てて立ち上がると、英の腰くらいまでの身長の黒い瞳の少年がすぐ近くに立っていた。橘だ。

『良くないものが来る。ここから離れたほうがいい』

 珍しく早口でそれだけ言うと、さっと踵を返して洸を追いかけていってしまう。

 突然のことに理解が追いつかず、橘を呼び止めようとするが、それよりも先にすでに鳥居から外に出ていた洸が英を呼ぶ。

「あやー! 帰ろ」

「……ああ」

 小走りで洸のもとへ行く。

 鳥居をくぐったところで一旦足を止め、境内の方に向き直る。

 一礼して頭を上げた時、先ほどまで橘がいた木の根元に、人の姿の橘と同じ年頃の少女が立っているのが視界に入った。

 七五三の女の子のような華やかな着物姿。

 真赤な着物に肩口で切り揃えられた濡れ羽色が映える。

 じっとこちらを見ている……そんな気がした。

 ぞくりと悪寒が走る。

 無理矢理、視線を逸らす。

 ばっと振り返ると、目を見開いた洸が正面に立っていた。

「そんな勢いよく振り返ってどうしたんだよ」

「いや……帰ろう。じゃあね」

「ああ、じゃあな」

 洸はひらりと手を振り、離れていった。

 英も橘の忠告に従おうと、友人の後ろ姿に背を向ける。しかし、神社の前を通る細い道を走ってきた軽自動車に見覚えがあり、足を止めた。


 後にして思えば、そのまま立ち去るのは失礼だろうと車に近寄ってしまったのが失敗だった。





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