2-3 夕暮れの神社にて
「お、いた」
足音が近づいてくるのに気づいて顔をあけると、得意げな表情を浮かべた友人だった。
挨拶がわりに手をあげると、洸もひらりを振り返してくる。そのまま英がいるベンチの横を通り過ぎて本殿へと向かった。
流れるような所作で参拝する背中を見るともなしに眺める。
橘は少し離れた木の根元にいた。
池の近くのベンチまで戻ってきた洸は、立ったまま、さっそくという感じで口を開いた。
「あれから蝶は現れたか」
明日になれば学校でいくらでも話せるというのに、英のランニングコースの神社までわざわざ探しに来るなんて、よほど気になっていたらしい。
ランニングも毎日しているわけではないし、時間も決まっていないから、無駄足になる可能性だってあったのにだ。
「それを聞くためにわざわざ来たの?」
「まあ、散歩がてらね」
確かに、この神社は洸の家からも少し身体を動かすにはちょうどいいくらいの距離だ。そういうことにしておこう。
「一度だけ。見かけただけだけど」
昼頃、庭で洗濯物を干していた時のことだ。
ふと二階を見上げると、開けてあった英の部屋の窓から中に入っていくところが見えた。
窓際に置いてある苔玉の椿の葉に少しの間とまっていたが、またすぐに青空の中に消えてしまった。
本家に行ったのが金曜日の午後。日曜の夕方になるまでの間にその姿を見たのはこの一度きり。
蝶が抜け出て、赤い鞠と花弁だけが残された《桃花》は祖父から英へ譲られたが、蝶はどこかに消えたまま。
「近くにはいるってことだな」
「だと思う」
「何なんだろうな、あの蝶」
そもそも、なぜあんな奇怪な遺言を遺されていたのだろう。
英の高祖父は、一言で表すならば、とても変わった人だったらしい。
時枝晴三郎は明治の初め頃に生まれ、幼い頃から絵の才を磨くも、画壇を敬遠し、親友であった洸の先祖と数人の知人の支援に依りながらこの地でひっそりと絵を描き続けた。
生前は権威ある賞や名声とは無縁だったため、現在の世間的な知名度はそれほど高くない。
それでも、絵を売った収入で暮らし、交流のあった人たちからの支援も名のない画家に対しては十分だったようで、貴重な顔料がふんだんに用いられた大作も残っている。
晴三郎の変人たる所以は権威を遠ざけていただけではない。
権威を嫌い、一人、思索と制作を続ける作家は間々いる。
世間と距離を置いていた、というだけではない。
時枝紫英の作品には人や動植物とは明らかに違う、異形のもの、妖怪や化け物の姿が描かれたものが数多くある。
そのどれもが精緻な筆で、今にも動き出しそうなほど生きいきと描かれているからなのだろう。
とある資料に記された「時枝紫英は人ならざるものを見、言葉を交わし、その姿を写しとった」という一文の信憑性が妙に高いのである。
ちなみに、この資料は英の祖父と持ち主である春日家の意向により公表されていない。
時枝晴三郎は妖怪の類が見える人だったらしい。
それに関係する逸話が故に変人と称されているのだ。
晴三郎が妖怪の類が見えたというのは、虎の存在からも疑いようのない事実であり、その能力が玄孫の英に継がれたというわけである。
「あの蝶も?」
「妖だそうだ」
一葉が教えてくれたと言うと、洸は一つ頷いた。
「あの人が言うなら、そうなんだろう。虎図屏風殿と同じようなものなのかね」
虎は己の意思で自由に屏風から出入りしている。
《虎図屏風》は紫英が手ずから描き上げ、署名落款をした。紫英によって完成させられた作品である。
対して《桃花》の蝶は、英が色を入れ落款を押したのを契機として画面から出て来た。
紫英が描いたことにより絵に閉じ込められ、英が完成させたから出て来られたのだとしたら、果たしてそれはあの蝶にとって本位だったのだろうか。
絵の雰囲気は、それこそ、午睡を誘うほど穏やかだった。
けれど……絵に閉じ込めた紫英を恨んではいないだろうか。
そう、考えてしまう。
人がしてしまったことに、あれらは何をおもうのだろう、と。
木の葉が擦れる水流にも似た音が頭に響く。
目の覚めるような黄金色が降ってくる。冬の気配を孕む匂いが身体を包む。
眩い色、騒がしい音、清冽な空気。すべてが鮮やかに煌めく季節。
感覚だけがはっきりしていて、それなのに身体は動かず、声も出せない。
ただ、射るような眼差しを全身で受け止めていた。
……ああ、わかっている。
これは自分自身が作りだした虚像であると。
ただの想像だと。
それでも、指を動かすことさえできないほどに英の心を縛り続ける光景。
わかっている。憶えている。
こんな視線を向けられたことなどない。
それでもいつか……と考えてしまうのだ。
きっと、次に会った時。
きっと、現実になる光景なのだ、と。
そう、臆病な心が己を責める。
彼は俺を恨んでいるだろう。
愚かしい人間の絵から解放された今、あの蝶は紫英にどんな瞳を向けるのだろうか。
俺はどんな目を向けられるのだろう。
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