2-2 薬師と烏




「虎くんではない、知らない気配がしたから気になってしまって。ごめんね?」

 言い募る一葉は、柔らかな手つきで英の肘の上を掴みながら首を傾げた。

 こんな表情をされてしまったら、答えないでいられるわけがない。

 一葉は、英がこういう仕草に弱いのを知っていて、ここぞというところで使ってくる。あざとい。

 短く息をついてから、昨日のことを話す。

 英が話している間、一葉はストールを肩にかけてくれた。上着も貸すと言ってくれたが、見ているこっちが寒いから着ていてくれと断った。

「じゃあ、英から感じる虎くんじゃない気配は、その絵から出てきたという蝶なのかな」

「だと思う。それ以外の妖怪には近づいてないし。あの蝶も妖怪なんだよな?」

「そうだね」

 さらりと答えた一葉はニヤリと笑った。

「飛んで火にいるなんとやら、かもね」


 漆黒の中、燃え上がる炎に魅入られたように舞う虫たちが描かれた掛軸が脳裏に浮かぶ。


 あの絵で惑わされている虫は美しい蛾だ。

「それなら、燃える炎は俺だ」

 一葉の指先が頬を撫でる。氷のように冷たく感じるのは、英がまさしく炎であるかのようだった。

「……俺たち、だよ、英。忘れないで」

 琥珀の瞳が真っ直ぐに覗き込んでくる。

「ごめんなさい」

「よろしい」

「現状、蝶がどこにいるかも、晴三郎が《桃花》を遺した意図もわからない。あの蝶が話しが通じる相手かどうかもわからないから気長にいくしかないんだろうけど」

 まだ炎にはなれそうにない。

 そう苦笑すると、一葉は「そうだねぇ」と頷いた。

「もし英を困らせるようなら、薬の材料にしちゃおうね。絵から出て来た蝶なんてなかなか手に入らない珍品だ」

 穏やかな声が悪戯っぽく言う。

 一葉は何年をかけたか計り知れないほどの膨大な知識を以て人外たちを診て、適した薬を調合する薬師である。妖怪も怪我もするし、病にもかかるのだという。

 英と知り合ってから人間としてこの地に居を構えたが、生業にしているわけでもないのに一葉を頼って訪ねてくる妖怪が後を絶たず、面倒がりながらも対応していたら、いつの間にか「東の薬師」と呼ばれるようになってしまったらしい。

 薬には主に植物を用いるが、虫や動物も使うし、身体の一部が特殊な効果を持つ材料なる妖怪もいるそうだ。面白がって自身の一部を置いていくものや、己の亡骸を使ってほしいと勝手に押し付けてくる相手もいるのだと苦笑交じりに教えてくれたことがある。

 冗談だとしても、一葉ならば珍しい蝶を薬に煎じてしまうくらい訳ないだろう。

「そろそろ戻ろうか。いい加減、身体冷えちゃうね」

「そうだよ。薬師が外で寝こけて体調崩すなんて笑われてしまう」

「確かに。戻ったらケーキ食べようね」

「朝からケーキ?」

 彼が作るものはお菓子も料理も美味しい。早朝だろうと深夜だろうと余裕で食べられる自信はある。

「甘さ控えめ、フルーツたっぷり。二切れくらいペロリといけちゃう自信作だよ」

 楽しそうにプレゼンしながら一葉は英の手を強く握った。

 素早く立ち上がったかと思うと、岩を蹴り、音もなく地面に着地した。

 容姿を除けば普通の人間にしか見えないのに、たまにこういう人間離れした行動をとるから驚かされる。

 知り合った時もそうだった。

 見えようはずがないと、人間がしないようなことを平然とやっていた一葉を英は見つけて声をかけてしまった。そんな英を面白がって一葉はこの地に住まい、英を構うようになった。

 ちょうど三年前の春のことだ。

 登ってくる時は転ばないようにと神経をすり減らしたのに、一葉に手を引かれた帰り道は驚くほど楽だった。




 大岩が鎮座する山の麓に、緑に呑みこまれるように一軒の木造の家がある。一葉の住まいだ。古いがいつも手入れが行き届き、薬に使用する草花の匂いが満ちている。

 硝子戸の廊下が部屋を囲む造りは、昼間は明るく風の通りがよくて、雨の日は雨音と水の匂いに包まれる。自然の気配が濃厚に屋内に溶け込む家だ。

 からからと音を立てる玄関を開くと、奥から「おかえんなさーい」という声が届く。

 すぐに台所の方から声の主が現れた。

 肩に届くくらいの真黒の髪を無造作に結わえた二十歳くらいの青年だ。左耳にシルバーのピアスがいくつも輝いている。背が高く、手足が細い。

「おかえりなさい、万様。小僧も一緒か」

 一葉には愛想の良い青年は、英にはそっけない。

「おじゃまします」

「ただいま。じゃあ、おつかいよろしくね」

「はい」

 英たちと入れ替わるように、靴を履き始める。

「烏、出かけるの」

 声をかけると、青年は「気安く呼ぶんじゃねぇ」と突っぱねたが、その頭に一葉の手刀が振り下ろされる。ぺしっと痛そうな音がした。

 いてぇ、という呻き声を無視して一葉は英へ顔を向ける。

「ただの買い出しだよ。英も欲しいものがあったら頼むといいよ」

「なんで俺が……」

 諫められながらもブツブツ言う烏の明らかな態度を全く顧みない一葉の朗らかな提案に苦笑する。

「特にないよ。気をつけていってらっしゃい」

「いってらっしゃい」

 ふわふわ笑う一葉と苦笑を浮かべる英に見送られ、黒髪の青年は何か言いたそうにしていたが、すぐに諦めて玄関を出た。

「いってきやす」

 ポケットに手を突っ込んだ猫背は家の前の坂をすたすたと下りていき、すぐに見えなくなる。

「……あまり揶揄わないであげなよ」

「ふふっ、反応が面白くてつい、ね」

 尊敬する一葉が人間を構って仲良くしているのが面白くないのと、英に対して素直になれないのもあって、彼は知り合った頃から何かと突っかかってくる。それは反抗期の息子かというくらいに。

 それでも、不器用ながら優しいところがある彼のことが英は嫌いではない。

 ああやって突っ張っている態度も、一葉が言うように可愛く感じていたりする。烏の姿なら尚良しだ。文句を言いながら翼をバサバサと振り回す姿は何とも言えない。

 人間に交じる一葉と共に生活するために人間の姿をしていることが多く、烏の姿を目にする機会が少ないのが残念だが、それを素直に教えてしまったら嬉々として烏の姿を見せなくなってしまうだろうから秘密だ。

 烏はその名の通り、本性はカラスの姿をした妖である。

「いつになったら素直になれるのかと待っているんだけど。なかなか難しいねぇ」

 一葉が困り顔で言うが、小さく首を振る。

「俺は気にしてないよ」

「ごめんね」

 横に立つ一葉の背中に触れて、自分より高い位置にある顔を覗き込む。

「一葉が謝ることじゃないって。それよりはやく一葉のケーキが食べたいな」

 一葉の背中を押しながら廊下を進む。

 板張りの廊下は明るく、硝子戸は大きく開けてあった。

 すーっと深呼吸をするように匂いをかぐ。

「英はいつもうちの匂いをかぐよね」

 あからさまに家の匂いをかぐなんて普通は出来ないが、「この家の匂い、好きだなぁ」と言っているから、一葉は気分を気分を害すことはなく、くすりと笑うだけ。

 日のあたり具合、気温と湿度、それに季節の草木の匂い。それらが複雑に混ざり合って、その季節独特の匂いになる。日々移りゆく自然の中で生きていくうちに身に染みつく感覚。何の匂いなのか、どんな匂いなのかを説明するのは難しい。

「あ、ケーキの匂い」

 台所の戸を開けると、甘く香ばしい匂いがした。

「英はあっちで待っててよ」

 居間を指した一葉に「手伝っていい?」と問うと嬉しそうに受け入れてくれる。

 一人で座っているよりも一緒に作業するほうが何倍も楽しい。

 並んで台所に立ち、紅茶やケーキ用の皿を準備する。

「烏が帰ってくるの待たなくていいの」

「いいよ。あいつはいつも一人で食べたいって言うから」

 一葉が冷蔵庫から取り出したのは、鮮やかな模様が描かれた九谷焼の大きな平皿だった。そこには、オレンジをはじめとする数種類の果物がこれでもかと盛られたホールのタルトが鎮座していた。

「いただき物の美味しいオレンジがあったから使ってみたんだ。英、柑橘類好きだよね」

「うん」

 蜜柑もオレンジもレモンも好きだ。甘いのはもちろん、顔がゆがむくらい酸っぱいのもそれはそれで良い。

 お湯が沸くのを待つ間にケーキを切り分けて小皿に移す。

「マーマレードも作ってあるから持って帰ってね」

「ありがとう。父さんも喜ぶ」

 薬づくりの副産物と言いながら、旬の果物で作ったジャムをお裾分けしてくれたり、料理を振舞ってくれたりする。もう少しすれば山菜の季節がやってくる。

 季節の移ろいの中で、草木や花といった自然の生命力を相応しい形にして妖怪たちに分け与える。それは力となり、病を治し、時として命すら繋ぐ。

 それが、妖たちから畏敬の念を込めて万様と呼ばれる一葉という者の在り方であった。



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