2章 春休み
2ー1 彫像の声は
湿った地面を踏みしめ、朝の光が差し込む木々の間を進む。
道っぽく踏み固められてはいるが、夜の雨をたっぷり吸い込んだ土は所々ぬかるんでいて歩きにくい。
何度も足をとられそうになりながら、一歩一歩慎重に進めていく。
春の気配を含んだ冷たい空気には草木と土の匂いが溶け込んでいる。時折、足を止めて息を整える。
深呼吸をすると、身体の中に森の匂いが染みていくようだ。
森のいたるところにこちらの様子を窺う気配があるが、ここでは警戒する必要がないから楽だ。
この森にいる妖たちは英に何事かあれば恐ろしい目に遭うと知っているから、英が去るまで息を潜めているか、たまに来る人間だからと特段気にしていないかのどちらかである。
この森で英にちょっかいをかけてくるのはすなわち、余所者か新参者の証拠でもあった。
なだらかに登っていくと、一番高いところで木立が途切れ、日当たりの良い広場に出る。
そこには、大岩が鎮座していた。
岩の上は平らで、大人六人くらいなら余裕で乗れるほどの広さがあり、座布団を何枚か敷けば、晴れた日には何時間でも森の音を聞きながら過ごせるような場所だ。
大岩の上に目的の姿を見つける。
側面の凹凸を頼りによじ登り、平らなところに膝をつく。
そこには一人の青年が横になっていた。
瞼は閉ざされ、胸はゆっくり上下している。
眠っているのだろうか。
しみひとつない白い肌は磁器のようになめらかで、色素の薄い髪は陽光で透けているかのように淡く煌めいている。
前髪が額を隠し、風に揺れて瞼をくすぐっている様がもどかしい。
閉じられた瞼も、岩に投げ出されているストールに包まれた身体も、微動だにしない。悠久の時を静かに内包している彫刻のように。
微かに上下する胸の動きだけが、彼がつくりものでないことを教えてくれる。
そっと前髪に触れる。
指の背が額を掠ると、彫像がくすくすと笑い始めた。
「くすぐったいよ」
薄い唇から白い歯が覗く。
手首を掴まれ、顔の近くに引いていかれたかと思うと、感触を確かめるかのように頬擦りをした。人懐っこい猫みたいだ。
彼の肌は見た目通り滑らかで、ひんやりとしていた。
磨き上げられた大理石の像はこんな触り心地かのだろうか。あまりの手触りのよさに思わずため息をついてしまう。
それが聞こえたらしく、青年の口の端が僅かに持ち上がる。
「……一葉、冷たいよ」
誤魔化そうと文句を言ってみる。
嘘ではない。冷えた肌が指先から熱を奪うのだ。
己の熱がこの白い肌を温められるならばどんなに冷たくても構わないが、これでは身体が冷え切っていないかと心配になってくる。
「英はあたたかいね」
「ここまで来るのはいい運動になるから」
森の入り口までは家から十五分ほど走ったうえ、足元が悪い森を歩くのには神経を使った。ランニングウェアの中は汗ばんでいる。この外気温ではすぐに冷えてしまうだろう。
「そうだ!」
今まで瞼を持ち上げてすらいなかったのに、彫像のような青年は声とともに勢いよく起き上がった。
「一日遅れだけれど、誕生日おめでとう、英」
手首を掴まれていたはずの右手は、いつの間にか握手をするように両手で包み込まれていた。
今日初めての琥珀のような瞳が光を弾いた。
おそろしいほど整った容姿。浮世離れした造形は、幾度目にしようと見慣れることはない。
友人も常々言っている。好きな作品は何度見ても良いものだ、と。
「ありがとう。けど、メールくれたじゃん」
嬉しかったと伝えると、一葉は琥珀色の瞳を細めた。
「直接言うのは別だよ。昨日会えなかったし。昨日は晴海先生のところに行ったんだよね。何があったの?」
何気ない口調で問われる。
はっとして手を引こうとするが、力の籠っているようには見えない両手は、しかし英の手をしっかりと捕まえていた。
彼は「何か」ではなく、「何が」と訊ねてきた。
事の有無ではなく、事の子細を問うのは、何かがあったのだと確信しているからだ。
一葉は気配に敏感で、肌に触れると、記憶でも覗いているのではないのかと思えるほどに僅かな気配や英の変化を敏感に感じ取る。
手に頬擦りした時に気づいたのだろう。
「……油断した」
秘密にするつもりはなかったが、言おうかどうか迷っていた。
問われなければ、当分は黙っていたかも知れない。
相談すれば、一葉は力を貸すと言ってくれるだろう。だからこそ頼り切ってしまいたくなかった。
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