《虎図屏風》 3
洸の言葉に、虎が『そう!』と強く反応した。
英の膝でリラックスしていた虎はおもむろに立ち上がり、のそのそと歩いて洸の横で立ち止まる。洸の頬に鼻が触れそうなほど至近距離に。
『そう! そうなの! 春日の子はわかってる!』
己の心情を汲み取ってもらえたのが嬉しいのだろう。
「洸、虎がすぐ右隣りに行ったぞ。めっちゃ同意してる」
「だろうな」
洸は苦笑を浮かべながら、右へ身体を向けた。
何をするのかと見守っていると、洸は正座に座り直し、すっと背筋を伸ばした。それから、何かを捧げ持つかのように、両方の手のひらを上向けてあげた。すると、見えていないはずなのにうまい具合に虎の顎を支えるようになった。
「このへんかな。英、どう?」
「ばっちり。顎を持ってる感じになってるよ」
虎は柔らかな眼差しでされるがままになっている。
洸は見えているかのように虎へ視線を向け、微笑んだ。
「虎図屏風殿、こうして話しかけるのは初めてですね。春日洸と申します。以後お見知りおきください。英からあなたのことを教えてもらってから、姿を見て声が聞けたらと、何度願ったことか……」
普段の話し方とは違う、艶のある落ち着いた声と改まった言葉遣い。教師やよく知らない相手に使うものだ。洸は自虐的に「猫かぶり」なんて言っていたりする。
「春日の者として、お礼を。そして、いち紫英のファンとして展覧会を楽しみにしています。どうぞよろしくお願いします」
屋敷から出されることのなかった虎だが、初めての美術館への貸し出しが決まっている。展示するのは洸の母の勤め先であり、春日家の紫英のコレクションを展示する美術館である。
いつもの猫かぶりよりも数段堅苦しい挨拶をしたかと思うと、すっと頭を下げた。
その真面目な顔が虎の鼻の上に埋まってしまうのが、英には見えてしまった。
「ふっ、ははっ」
思わず吹き出してしまう。虎もくすぐったそうにコロコロと笑い出す。
「え、なになに、どうした? 俺、変なこと言った?」
ぱっと顔をあげてこちらを振り返り、普段通りの声を出す洸に首を振って答える。
「ごめ……なんでもないっ、ふふっ」
乱れた前髪に、さらに笑いがこみ上げてしまい、なんでもないという言葉には全く説得力がなかった。
「英がそんなに笑うって何でもなくないだろ」
言い募る洸の前髪を整えてやる。
どうにか笑いを収めてから、顔で虎の毛並みを堪能していたと教えると、洸は「俺も触れたらなぁ」と嘆息した。
「そうだったら虎は喜ぶ」
気のいい虎は人間が好きだ。
洸と視線を交わし声を向けてもらえたらと願っているのは虎ばかりではないのだけれど。
さきほどから虎の背に鳥がとまっている。洸が来た時、一緒に部屋に入ってきていた。
黒い頭と灰蒼色の長い尾羽が特徴的なその姿の通り、オナガという名の鳥。門をくぐる時、洸と英の様子を見ていた鳥だ。
橘という名だと、本人から教えてもらったことがある。
洸と常に行動を共にし、春日を守る存在。
十歳くらいの少年の姿をとることもある。
彼もきっと洸と言葉を交わしたいと願っているのだろう。名を呼んでもらいたいのだろう。
時折、洸を見つめる瞳が寂しそうなのだ。
今も虎に話しかける洸をじっと見ている。鳥の姿ではわかりにくいが、人の子の姿であれば複雑な色をその瞳に宿しているだろう。
洸にも、祖父や郁にも見えない虎や橘。
妖怪、と呼ばれるような存在なのだと思っている。
そんなものたちが英には見える。
そして洸は、英の口から聞いただけで自分では認識できない存在を信じてくれている。
けれど、いつも自分に付き従っている存在を、彼は知らない。
以前、橘に『自分のことは言わないで』と請われたから。だから、英がその存在を洸に伝えることはない。
そもそも英が友人でなければ知りようがなく、気が付かない方が自然なのだから教える必要はない。
口止めをしているに寂しそうな顔をするのだから、橘もまた、洸と触れ合えたらと願う気持ちがあるのだろう。
虎は洸から離れ、英の隣で床に伏せた。情けないほど眉が下がっている。
『英、橘様の爪が食い込んで痛いんだけど』
「ふふっ、我慢だ」
少年の姿の時もほとんど無表情で、声も最低限しか発さない橘の、珍しくわかりやすい行動に笑ってしまう。
「我慢って、展示が嫌なのか?」
英の声だけが聞こえた洸が焦ったような声を出す。
『違う、ちがう』
「ちがうちがう」
英と虎の声が重なる。
「手、動かしていいよ。虎もう離れたから」
教えると、洸は正座の上で指を組んだ。
『多くの人間に見られるのは久しぶりだから緊張するけど、春日には受けた恩があるから頑張るよ。英も見に来てくれるんだよね?』
「もちろん。俺の大好きな虎図屏風の晴れ姿ですから」
『嬉しい。だから、務めは全うするから春日の子は心配しなくていいよ』
虎の言葉を伝えると、洸は安堵の息をついた。
そんな洸を、人の姿をとった橘が優しく見守っていたが、もちろん洸はそれを知らない。
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