《虎図屏風》 2




 数分の間、英の胸に鼻先をぐりぐりと押し当ててじゃれていた虎は満足したのか上から退いた。その背中を一撫でして、起き上がり床に胡坐をかく。そんな英の周りを虎は落ち着きなく歩く。

『今日はゆっくりしていける?』

「少ししたら帰るよ。洸も一緒だし」

『えーっ!』

 不服そうな声を出す虎の顎の下を指先でカリカリと掻く。

「ごめんね。でも来月また来るから。そんな声出さないで」

 来月はどうしても断れない用事があって訪れることが決まっていた。

『必ず来てね。約束だよ?』

 もし俺が忘れていても洸が強制連行してくれるから大丈夫、と頭の隅で思うが言わないでおく。冗談でも虎は泣いてしまいそうだ。

「約束するよ」

 虎の胴に腕を回し、首元に顔を埋める。何年経ってもこの清冽な墨の匂いは変わらない。何度か深く息を吸い込んで匂いを堪能する。


 英にしか見えない虎。

 長年大切にされた器物が命を宿したという付喪神か、もっと違う存在なのか。

 虎に訊ねてみても、よくわからないという。

 《桃花》から抜け出たあの蝶も虎と同じような存在なのだろうか。

 英が顔を離すと、虎は英の横に伏せて膝に顎を乗せた。

「虎は、紫英の《桃花》って絵、知ってるか」

 虎は頭を少し持ち上げたが、すぐに『ううん』と首を振った。

「薄氷のような翅の蝶は?」

 頭から首にかけてゆったりと手を滑らせながら、重ねて問う。

『英、見たの?』

「うん」

『そっか……そっかぁ』

 虎は何度も「そっか、そっか」と繰り返し呟いていた。ため息交じりの声は元気がなくなっているような気がした。

「どうかした?」

『なんでもないよ……蝶だったね。たまに晴三郎と庭にいるのを見たことがある。でも、よくは知らないんだ。ごめんね?』

 長く屋敷にいた虎でも知らないならどうしようもない。

 虎を撫でながら、さきほど見た優雅に空を滑る姿に思いを馳せていると、「英、入るぞ」と障子の外から声がした。

 どうぞと応えるとすぐに障子が開き洸が顔を覗かせた。

 部屋に入った洸はすたすたと英の隣、虎がいない方に持っていたお盆を置きながら座った。

「虎図屏風殿は?」

「虎ならここにいるよ」

 ここ、とわかるように虎の頭をぽんぽんと叩く。それを虎は嬉しそうに受け止めた。

 洸には英の手が上下に動いている様子しか見えていない。

 自分には見えないのに、洸は虎の存在を信じてくれている。

 知り合って間もない頃にうっかり零した英の話を疑うことなく、更には「俺も見て見たいなぁ」と羨ましがるほどだった。

 二人揃って虎のところへ来るのはこれが初めてだ。

「変わった様子は?」

「ないよ」

 洸は嬉しそうに頷きながら、お盆に乗っていた茶色い瓶を差し出して来た。

 「ありがと」と言いながら受け取ると、よく冷えた瓶の周りにはうっすらと水滴がついていた。


 書斎から屏風が置いてある部屋へ向かおうとした時、祖父が「英のためにあれを用意してあるからあとで持っていこう。ゆっくりしていくといい」と声をかけてきた。

 祖父の口から楽しげに「あれ」と言われて、顔が熱くなる。

「もしかして、聞いてたんですか」と訊ねてみても、ふわりと笑うだけで何も答えてくれなかった。

 持ってきてもらうのは申し訳ないからと、洸が台所に寄って貰ってきてくれた。英も一緒に行こうとしたが、「虎図屏風殿が待ちわびてるだろうから早く行ってやれ」と追い払われてしまい、先に一人で虎のもとへ来ていた。

 お盆には小皿も載っていて、祖父のお気に入りのお店のロゴが入った宝石のようなチョコレートがいくつか盛られていた。

 手の中の瓶のアルミの蓋を持ち上げるようにして外す。

 中身の色が全くわからない飴色の三角錐の瓶に、アルミ製の独特な蓋。印象的な原色が配されたラベル。ビタミンCが多く含まれているという割に酸っぱくはなく、どちらかというと甘い。栄養価の高いエナジードリンクのような炭酸飲料。

 一日最高で一本、毎日は飲まない。

 そう己の中で決めて節制しないと毎日一本以上飲んでしまいそうなほどこの瓶入りの炭酸飲料を愛している。

 洸や祖父をはじめとして仲の良い人たちには知られてしまっていて、「あれを一本」と言えば大抵の頼み事は聞いてくれるというのが英に対する共通認識になっていた。

「俺が奢る予定だったんだけど」

 拗ねているようなことを言いながら、洸も瓶に口をつけた。

「そこは喜ぶところじゃないか?」

 自分で言うのも何だが、一回奢らずに済んだのだから。

「約束したのに果たせないのは消化不良じゃん。今度改めて奢るから。面白いものも見させてもらったしな」

「くれるっていうなら、遠慮しないけど」

 これに関しては意地汚いと言われようと、貰えるならば喜んで頂く。

「そうしろ。俺が納得したいだけだから」

 今は祖父が用意してくれたのを味わおう。

 瓶に口をつける。親しんだひんやりとした感触を唇に感じるとこれを飲んでいるという実感があって、飲む前から嬉しくなる。何本飲もうと毎回嬉しいのだから自分でも可笑しくなるほど好物なんだなと思う。

 ごくりと一口飲む。口の中でしゅわりと炭酸が弾ける。優しい甘さの独特な味。

 意識していなかったが、喉が渇いていたらしく、ごくごくと一気に飲み干してしまう。

 もうちょっと飲みたいと思わせる一瓶の量がまた絶妙だ。

 瓶をお盆に置く。

「虎図屏風殿は英が来なくて寂しがってるんじゃない?」



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