1-5 蝶




 従弟の目は英の背中をとらえていたらしく、視線がかち合う。

「何か?」

「郁は、俺で良いのか。俺なんかが紫英の絵に手を加えるなんて、納得できるのか?」

「僕は……」

 郁はすぐに言いかけるが、しかしふっつり口を閉ざしてしまう。

 少しの間、床に視線を落として考えるようにしていたが、次に顔を上げた時には、はっきりした声を紡いだ。

「僕は何も口出ししないとお祖父さんと約束して同席させてもらっています。僕が納得しているかどうかなんて関係ありません」

「でも……」

 郁の潔い言葉に、英の方が納得いかず言い募ろうとするが、視界の隅で動くものに気付き、そちらへ視線を向けると、洸が畳に手をついて身を乗り出してきた。

「時枝紫英のご指名なんだから大人しく従えよ、英」

 強い声と瞳が逃げ腰の英を射抜く。

「洸さんの言う通りですよ、英くん。逃げる方が許せませんね」

 従弟もまた真っ直ぐに英を見据えた。普段はすぐに目をそらされてしまうからこんなにしっかりと目が合ったのは久しぶりだ。

 郁を気遣うフリをして逃げようとしている。それに気付いているからこそ、二人はやるしかないのだと突き付けてくる。

「英」

 静かな声に呼ばれて、祖父の方へ向き直る。

「英が、恐れていると、わかっているよ」

 祖父の言葉に鼓動が跳ねる。変な声が出そうになるのを必死に押しとどめる。

 なにを、とは言わなかった。それでも伝わった。

 絵画教室を辞めた理由を話したことはなかったが、祖父は理解しているのだ。

 英が描くことを恐れているのだと。

 向き合わねばならないことから目を逸らしているのだと。

 祖父は理解していてなお、描けと言っている。

「これだけは私のために果たしておくれ。これはね、祖父との大切な約束なんだ」

 《桃花》へ向けられた祖父の目は、しかし、どこか遠くを見ているようだった。その視線に先にあるのは在りし日の晴三郎との思い出だろうか。

 祖父の視線をなぞるように《桃花》を眺める。

 時枝晴三郎はどんな人だったのだろう。

 絵から感じとれるような穏やかな人だったのだろうか。どんなふうに話し、笑ったのだろう。

 絵を託した子孫が、絵から逃げたことがあると知ったらどう思うだろう。

 それでも、《桃花》に色を入れるのは俺にしか出来ないことなのだろう。

 今の俺の力を尽くすしか、祖父の想いに応えるには、それしかないのだと決心する。

「……わかりました。やります」

 腹を括ったと宣言してから、畳に両手をついて絵を覗き込む。


 塗れ、と。

 どんな色だろう。

 蝶の姿を目に焼き付けて、瞼を閉ざす。


 空を舞うその姿を知っているような気がした。


 年老いた男性が虚空へと声を向ける。

 優しく短い音を紡ぐ。

 そこへ風に舞う花弁のように蝶があらわれた。

 男性が持ち上げた手の、その指先にとまる。


 目をひらき、顔をあげる。

 祖父が用意してくれたのは、大切に保管してあった紫英が使用していた岩絵具だ。

 こんな色が欲しいと説明しつつ、《桃花》の紙の状態に近づけてある紙に筆を滑らせながら、色と筆の感覚を手に馴染ませる。

 色は出来た。筆の癖もつかめた。

 ふっと短く息を吐いてから、《桃花》の蝶へ筆先を触れさせる。

 悠々と空をすべる姿を思い浮かべながら、筆を動かす。

 何度か色を調整しながら、塗り重ねていく。

 英が筆を動かす間、誰も一言も発さなかった。

 英が祖父に絵具の色を伝える短い声と、二人が作業する微かな音だけが部屋に響く。


 それほど時間はかからなかった。

 これで最後。そう確信を持って乗せた筆を紙からそっと離す。

 うん。これでいい。

 筆を置いて、しばらくの間、絵を眺める。

 不思議と筆に迷いは生じなかった。色も塗り方もこれで良いという確信がある。


 それはよく晴れた冬の空。

 外側へいくほど淡く。けれどそれは儚いのではなく、清冽な美しさ。

 不意に緩い風が頬を撫でた。

 廊下の窓から入った風が部屋まで届いたのだ。

 身体を起こして祖父に顔を向ける。



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