1ー6 薄氷の蝶
「できました」
そう告げると、祖父は一つ頷いて、文机の上から今度は小さな包みを取り、こちらへ差し出してくる。
両手で受け取ると、重くはないがしっかりとした感触のものが厚手の布で包まれていた。
「これも《桃花》とともに祖父から預かったものだ」
左手の平にのせ、右手で布をつまむ。しっかりした感触の正体は縦長で三センチ四方の石だった。乳白色にまだらに灰色が混じった石には一方の端の面に彫りが施されていた。
「落款ですね」
表したい部分にインクをのせる朱文印だった。桔梗の蕾のような丸みを帯びた五角形の中に「英」の一字が彫り残されている。
「一字で英の落款……紫英の作品には使われてないものですね」
英の手元を覗き込んでいた洸が祖父に向けた言葉に、思わず、そうなのかと訊ねると「フルネームと紫英の二字ものも、あと紫で一字もあるけど、英の一字のものは確認されていないはず」と教えてくれた。
「洸の言う通り。これは英のためのものだからね」
言いながら、祖父は手の平に収まるほどの蛤の貝のような形の陶器の蓋を開いた。中にはくすんでみえるほど濃い色を湛えた、練り上げられた印泥が入っていた。
「さあ、仕上げだよ」
祖父は英の手から落款印を取り、印泥を丹念に均一に施して返して来た。
何からなにまで出来ないと思われ、手伝ってもらわねばならない自分が情けない。晴三郎が見たらきっと悲しむだろう。
「好きなところに押しなさい」
すぐに画面左側のやや下と決める。署名、落款の定番の位置ではあるが、描かれたものとの配置からここしか考えられない。
迷わず、けれど慎重に印を押しあてる。
数秒待ってから、紙をおさえて印を持ち上げると、濡れたもったりとした音をたてながら離れた。丁寧な手つきが仰々しい儀式でも行っているように思えて、くすりと笑ってしまう。
微かな色の変化で印泥が乾いていくのがわかる。
それを見守っていると、不思議なことが起こった。
落款の朱色の線が生きているかのようにしゅるりと解け、一本の線となり、紙の上を泳ぐように滑り始めたのだ。朱の線はなめらかに蝶の墨線に吸い込まれて消えた。
一瞬のことだった。声を出す暇もなく、ただ見ていることしかできなかった。
後ろにいる洸たちはもちろん、祖父も気づかなかっただろう。
たとえ英と同じように至近距離で覗き込んでいたとしても、見えなかったかもしれない。
あの時枝紫英が遺言にしてまで遺した絵なのだから、なんの変哲もない絵のはずがない。
この絵も虎図屏風と同じようなものなのかも知れない。
謎は残るが、ひとまず完成だ。
祖父に頼まれたことは果たした。
落款印を筆の横に置き、上体を起こす。慣れない姿勢で固まってしまった背中をほぐす。
「あ」
不意に漏れた声は郁のものか、洸のものか。
「蝶が」
声につられて絵に視線を戻すと、蝶を形作る墨の線が翅の先からぷっくりと浮かび上がっていた。蛹からその姿をあらわすように、ゆっくりと翅が紙から持ち上がってゆく。
対の翅が上がりきると、胴、触覚、脚が順に出て、ついには紙の上に蝶がとまった。
蝶は紙にとまったまま翅の具合を確かめるよう二、三度揺らめかせると、ふわりと飛び上がった。
皆が息をのみ、蝶の動きを追っていた。
蝶はその顔を見回すかのように、室内を一周して、開いたままの障子戸から出て行ってしまった。
反射的に追いかけていた。
廊下に出た蝶は窓の隙間から中庭へと出ていってしまう。
中庭にある桃の木を目指しているだようだった。
靴下のまま中庭へおりる。
一瞬でも目を離したら見失ってしまいそうで、靴のことを考えている余裕はなかった。
蝶は桃の細い枝先にとまり、翅をそよがせていた。英が追いつくのを待っていたのか、ただの気まぐれか。
英が木のすぐそばで足を止めた時、突然、ごうと強い風が吹いた。咄嗟に目を閉じてしまう。
風はすぐに止んだ。
慌てて目を開けるが、枝の先の蝶の姿は消えていた。
雲一つない青空の下に立つ桃の木には、まだかたい蕾だけがついていた。
「英、蝶は?」
縁側に座って靴下を脱いでいると、洸が近づいてきた。
郁も書斎の障子戸の間からこちらの様子を窺っている。
「消えてしまった……あの蝶、洸たちにも見えていたんだな」
絵から出てくる様子に最初に気付いたのは英ではなかったし、書斎の中を飛んでいるのが英以外の三人にも見えているようだったが、確信がなく訊ねると洸は呑気な声で肯定した。
「ああ。綺麗だったな」
絵という平面から、そこに描かれていた生物が抜け出すという不可思議な現象を目の当たりにしても、それを疑問に思う者はここにはいない。
それほど、時枝紫英という画家は特別な存在なのだ。
「そうだ、絵はどうなったんだろう」
急いで書斎に戻ると、座ったままの祖父が「おかえり」と迎えてくれた。
「蝶は外に出てしまって、見失いました」
「そうかい。お疲れさま、英。ありがとうね」
祖父は蝶が姿を消したと聞いても落胆する様子はなく、優しく労ってくれる。
畳の上の《桃花》には、赤い鞠と数枚の薄紅色の花弁だけが残されていた。
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