1ー4 《桃花》
本名、時枝晴三郎。
祖父の祖父にあたる、この家の初代の主。
《桃花》は、年表などにはその存在が記されるものの、所有者である時枝晴海が詳細を一切公開しておらず、美術館への貸し出しも行っていないため、実物を目にしたことがある者は現在ほとんど居らず、現存していないのではないかという心無い噂まである、洸の言葉通り「幻の作品」である。
絶筆とは、生前最後の作品を指す。急逝した場合は未完で残される。晴三郎は《桃花》を描いてから半年ほどで亡くなっている。
英が実物を見るのは初めてだ。洸もそうだろう。
「これが《桃花》だと、よくわかったね、洸」
「母に、どんな絵なのかしつこく訊ねたことがあるんです」
洸の母は紫英の研究者であり、紫英の作品を多く所蔵している美術館の学芸員をしている。見る機会があったのだろう。
「それで、アキさんはなんて?」
「春の匂いがして昼寝がしたくなるようだ、と。はぐらかされたのだと思っていたのですが」
友人を仰ぎ見ると、口元は緩み、瞳は嬉しそうに細められていた。
洸の両親はともに時枝紫英の絵を愛しており、洸もまたその血を受け継いでいる。
「アキさんも面白い表現をしたものだね」
「ええ。でも……」
「よくわかる」
洸の言葉に接ぐように同意すると、洸もくすりと笑って頷いた。
ぽんぽんと肩を叩いて手が離れ、洸は自分の座布団へ戻った。温もりがなくなると途端に心細くなる。
「先生、《桃花》をどうするんですか」
洸が訊ねる。
祖父は洸と英を順に見てから、絵の一点を指さした。
軽やかな墨線の蝶。
「英に、この蝶に色を入れてもらう」
「は?」
理解が追いつかず、間の抜けた声が出る。
「……俺に何をしろと?」
「この蝶に色を塗ってもらう」
なぜそんなことをするのか、ということよりも、なぜ俺なのかという疑問が強く浮かぶ。
どうしても加筆する必要があるというならば、さっきから部屋の隅で気配を消している従弟のほうがよほど適任だ。幼いころから十三歳になる今でも祖父に師事しているのだから、十歳の頃に数年通った絵画教室から逃げ出した自分よりもふさわしいはずだ。
「なぜ、俺なんですか」
「祖父、時枝晴三郎の遺言だからだよ」
「その遺言とは、どういったものなんですか」
冷静な声で問うのは洸だ。動揺している英への助け舟だ。
そっと様子を窺った従弟は、身じろぎひとつせず英と祖父を見守っていた。
郁は納得できるのだろうか。
「これより二十三年後に生まれる子孫が十五になる日、《桃花》の蝶を完成させるように」
何かを読み上げるような平坦な声で祖父が言った。
「祖父の遺言のひとつにこうある。遺言が書かれた年から数えると英が当てはまるのさ」
晴三郎の子と孫に兄弟はなく、英と郁の父が二人兄弟のため、直系の子孫がそもそも少ない。そして、二年遅く生まれた郁はあてはまらない。それゆえ英が指名されたという事になるわけか。
「変わった遺言ですね」
洸の率直な感想に胸の内で同意する。
なぜ自分が死んだ後の子孫の誕生を言い当てられたのか。子孫に絵の完成を託さなければならないのは何故か。疑問がいくつも浮かび上がってくる。
「確かに不思議な遺言だけれどね。まあ、彼は変わった人だったから」
祖父は気にしていないらしい。これは問い詰めたとしても、明確な答えは期待できないだろう。祖父はいい意味で大らかなのだ。
「ほら、英。始めるよ」
祖父は横にある文机に置いてあった道具を絵の横に並べ始めた。筆、絵皿、膠液を温めるヒーター、綺麗な水が入った小ぶりなバケツ。
気にしていなかったが、文机の上には岩絵具が入った小瓶がいくつも並べられている。
「好きに使いなさい。色が決まったら私が用意しよう。微調整は自分でしてもらうことになるけれど、細かいイメージを言ってくれればアドバイスするからね」
祖父の声を聞きながら、ふと思い出す。
絵画教室に通っていた時、祖父は他の子たちには彫刻や粘土細工など、絵以外のことを好きにやらせていたが、英には日本画の描き方や道具の扱い方を学ぶように言い、丁寧に教えてくれていた。英も虎図屏風など紫英の作品が身近にあり、興味もあったから疑問を抱くことなく絵ばかり描いていた。今にして思うと祖父は、英に紫英の技術の一端でも身につけて、この日の臨んでもらいたかったのだろう。
今の自分では紫英の絵にふさわしくない。
晴三郎本人の遺言なのはわかるが、筆に手を伸ばす気になれない。
畳に手をついて身体ごと振り返る。
「郁は……」
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