1ー3 本家2




 一度角を曲がった先の廊下の中ほどで祖父は足を止め、迷うことなく部屋に入った。

 障子戸を開けるとよく中庭が見えるこの部屋は、この家の最初の主、時枝晴三郎ときえだせいざぶろうが書斎として使っていた。室内の調度品とその配置は、晴三郎の生前そのままに残されているそうだ。

 障子と対面の壁側には天井までの木製の本棚が設えてあり、小説や動植物の図鑑など古い雑多な本が並んでいる。本棚の隣にはやや背の低い硝子戸のついた棚があり、こちらには晴三郎が使用していた画帖や筆が仕舞われている。

 時枝晴三郎も祖父と同じく画業を生業としていた。

 彼の孫の時枝晴海も晴三郎と同じく画家として活躍している、という方が正しいのだろう。

「虎がいない!」

 廊下からでも真っ先に視界に入るはずのものが見当たらず、思わず声が出る。

 普段この部屋には時枝晴三郎の手による屏風がある。

 祖父が受け継いだ晴三郎の作品のほとんどは美術館に寄託しているが、英が「虎」と呼んでいる六曲一隻ろっきょくいっせきの屏風は晴三郎の遺言により屋敷から出されることなく祖父の元に残っている数少ない作品のひとつだ。

「皆が揃うと手狭になってしまうからね。違う部屋に移動してあるよ」

 屏風があれば、そのすぐ前の位置に座した祖父が教えてくれた。

「あとで見に行ってもいいですか」

 部屋に入りながら言うと、祖父は小さく笑った。

「もちろん。虎図屏風とらずびょうぶも喜ぶだろう」

 虎はこの屋敷で過ごしていた幼い英の遊び相手だった。

 屏風には祖父も知らない秘密がある。

 祖父の口ぶりからして、何か思うところもあるようだが、直接問われたことはなく、英から話すこともない。

「屏風はないけど、郁がいるじゃん」

 屏風のことばかり気にしていた英は、後から部屋に入ってきた洸の呑気な声でやっとその存在に気付いた。

 屏風が置いてあるのとは反対側の隅にいたんだから気づかなくても仕方ない。そう胸の内で言い訳をしながら恐るおそる視線を滑らせる。

 従弟のいくは、英を睨んでいた。

 目が合うと、すぐに澄ました様子で視線を落とし、畳に手をついて頭を下げた。

「お久しぶりです、洸さん。それに英くんも」

 おまけ扱いなのは屏風に気を取られて気づかなかったことへのささやかな腹いせなのだろう。

「久しぶりだね、郁。正月以来かな」

「洸さんとは先月、お祖父さんの個展でお会いしてますよ」

「そうだった。正月ぶりなのは英だな」

 からかってくる洸を肘で小突くが、気にするふうもなく軽く笑いながら、さっと郁の隣に座ってしまった。

「えっと、久しぶり」

 英が絞り出すと、郁はそっけなく「はい」と応えるだけだった。

 祖父は孫たちのやりとりを楽しそうに眺めていたが、所在なさげに立っている英に座るよう促した。用意され、あいている座布団は一つ。

 やっぱり俺がここか。

 洸と郁はあいている座布団の後ろに控えるような位置に座っている。

 洸に譲ったら叱られるよな。でも、せめて洸と隣がよかった。

 そんなことを思いながらも黙って祖父に従う。

 座布団に正座をして、背筋を伸ばして居住まいを正す。

「さて、さっそく本題に入ろうか。呼び出された理由もわからなくてドキドキしているだろう」

 悪戯っぽい言い方に正直に頷く。

「ふふっ、これをごらん」

 祖父は己の横に置いてある和紙を重ねたものを向かい合っている英との間に動かし、一番上の真新しい和紙を持ち上げた。

 現れたのは絵だった。

 時枝晴三郎の絵だとひと目でわかる。

 時枝晴三郎の真筆と確認されている作品は、描かれている題材が多岐に亘り、多様な技法を熟しているため、作風や技術で琳派や狩野派といったカテゴライズは難しいとされている――そう教えてくれたのは洸だ。

「近くで見てもいいですか」

 後ろから聞こえた声がいつになく硬い。

 祖父が軽く「いいよ」と答えると、すぐに洸が動く気配がした。

「……とうか、か?」

 微かな呟きが降ってきたかと思うと、肩に乗った手に力が籠る。服越しでも洸の興奮が伝わってくる。

 それほど大きくない紙に描かれているのは、目の覚めるような紅色の鞠がひとつ。そこに、墨の線のみで描かれた色のない蝶がとまっている。鞠の周りには薄紅色の花弁が数枚散っていた。

 背景はなく、ただそこに鞠と蝶と花弁が描かれているだけ。

 しかし、鞠と花弁に施されたわずかな青みを帯びた影だけで画面に空間の広がりを思わせた。

 たったこれだけなのに、静けさに満ちた春の穏やかな昼下がりの時間を想起させる絵だった。

「時枝紫英、幻の絶筆ですね」

 うっとりとした声が降ってきた。



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