第十三話
小一時間ほど経ったころだろうか。桜蓮荘の門をくぐり、ミネルヴァが戻ってきたのにマーシャは気付いた。どことなく元気がない様子で、表情は沈んでいる。イアンの姿は見えぬ。
ミネルヴァはとぼとぼと歩き、中庭の片隅の長椅子に腰掛けた。
イアンと喧嘩でもしたのかと思うマーシャだったが、その考えが正しいのなら、桜蓮荘に帰ってくるのはイアンで、ミネルヴァは自宅に戻るほうが自然である。
「ミネルヴァ様、どうなさいました」
「ッ!? 先生! いえ、その……」
「イアンと共に出かけたようにお見受けしましたが」
「ええ、そうだったのですけど……」
「何かあったのですか?」
「それが……」
そもそも、二人が出かけることになったのは、イアンがいつぞやの面当ての礼をしたい、と申し出たからなのだという。
談笑しつつ街を歩く二人は、大通りで立派な箱馬車が何台か連なって通りかかるのを見た。別に、王都では珍しい光景でもない。
「突然、イアン殿が……何と言ったらいいのでしょうか、とても『怖い』お顔になって……あの馬車の持ち主に心当たりはないか、とおお尋ねになったのです」
馬車の車体に掘り込まれていた紋章は、少しでも社交界について詳しい者なら、誰もが知っている家のものだった。
「ランドール家のかたが乗っていらっしゃるのでは、と答えました」
マーシャは、眉間に深い皺を寄せた。
「して、イアンはどうなりました」
「あら、先生までそんな怖いお顔を……」
「私の顔などどうでもいい。イアンは」
「え、ええ。『急用ができたので、申し訳ないが今日は失礼する』、と仰って……走って行ってしまわれたのです」
マーシャの顔から、血の気が引いた。ランドールといえば、つい先ほどマクガヴァンの口から聞いた名だ。
(イアンは、父を殺害した犯人のうちの一人の顔ははっきりと覚えている、もう一度見れば間違わぬと言っていた。まさか――)
麻薬事件に関わりがあると思われるランドール家の馬車を見て、イアンがとった異常な行動。マーシャの頭の中に、ひとつの仮説が組み上げられた。
「ミネルヴァ様、その馬車を見たというのはどこですか」
逢引の最中にわけもわからぬまま置いて行かれ、複雑な表情を浮かべるミネルヴァに気を使う余裕もない。マーシャが、強い口調で尋ねる。
「イスカ大通りの、織物問屋が集まっているあたりだったかと」
「なるほど……ミネルヴァ様、私も少し用事ができました。少し出てきますゆえ、今しばらくここでお待ちくださいますか」
返事も聞かぬうちに、マーシャは駆け出した。あとには、呆気にとられたミネルヴァが残される。
桜蓮荘の門を出て少し走ったところで、
「パメラ! いるのだろう!」
と呼ばわった。パメラは、二人の逢瀬を邪魔せぬよう、離れた場所からミネルヴァを見守っているはずである。密偵として鋭い観察眼を持つパメラに、詳しい話を聞き出すつもりであった。
しかし、パメラは現れない。職務に忠実なパメラが、ミネルヴァの傍を離れるというのは尋常ならざる事態だ。
(これはおかしい……)
イスカ大通りを目指し、マーシャは走る。しばらく行ったところで、前方からパメラが走ってくるのが見えた。
いつもの侍女服ではなく町娘ふうの装いをしているのことから、この日もミネルヴァに見つからないよう密かに護衛をしていたことが知れる。
普段、感情の動きというものをほとんど表に出さぬパメラだが、このときばかりは様子が違った。顔は青ざめ、明らかな動揺の色が見える。足音を殺すこともせず、真っ直ぐにマーシャに向かってきた。そして、着衣のあちこちには血痕が付着している。
「パメラ、いったい――」
「プライス様のお命に危険が迫っております。こちらへ」
マーシャの言葉を遮るようにパメラが言うと、踵を返して走り出した。マーシャも慌てて後を追う。
(まさかこの王都でイアンが偶然仇を見つけてしまうとは……なんたる不運か……!)
マーシャは、唇を強く噛み締めた。
二人が辿り着いたのは、とある町医者の診療所であった。
診療所に駆け込んだマーシャの目に映ったのは、ベッドに横たわるイアンの姿だ。意識はないようだった。傍らでは医者とその助手たちが、必死の治療を続けている。
「御免。イアン――その男の知り合いです。容態は?」
初老の医者は一旦手を止め、マーシャのほうを向いた。
「三箇所ほど、手酷い傷を受けています。ちょうど今、縫合が終わったところですが……なにぶん、失った血が多すぎる」
「危険な状態ということですか」
「正直に申し上げれば。そもそも、そちらの娘さんの見事な応急処置がなければ、ここに運び込まれる前に絶命しておったでしょう」
と、イアンが呻き声を上げた。
「うぅっ……ぐっ、こ、ここは……せ、先生……?」
「喋ってはいけない、安静に」
医者がイアンを落ち着かせようとするが、イアンは既に死を覚悟しているのだろう。マーシャに、最期の言葉を伝えようとする。
「申し訳……ございませぬ……ご、迷惑を……」
「よいのだ。よいから、喋るな」
「馬車…………かた、き……うぅッ」
イアンから、呻き声が漏れた。その両眼は、すでに焦点を結んでいない。マーシャは、その手をきつく握り締め、必死に励ましの声をかける。――それが、半ば無駄なことだとわかっていながら。
「しっかりしろ! 故郷のお母上や、ミネルヴァ様もお前を待っているのだ、イアン!」
「……っ! ミネル、ヴァ、さ…………こ、れ…………」
イアンは震える手で、ポケットからなにかの紙包みを取り出す。
「よか……ぁ、壊れて……いな…………」
イアンの手から、力が抜ける。それ以上言葉が発せられることもなく。マーシャの手から、イアンの命が零れ落ちた。
マーシャは、イアンの手にあった包みを開けてみる。中には、ガラスでこしらえた花をあしらった髪飾りが一つ。おそらくは――面当ての礼として、ミネルヴァに贈られるはずだったもの。
「ーーーーーッ!!」
マーシャが、声なき慟哭を上げた。握り締めた両の掌からは、真っ赤な血が滴り落ちている。
声を出さぬ代わりに、両目からは大粒の涙が溢れ出す。イアンを失った哀しみ、己の無力に対する怒り、憤り……様々な感情がないまぜになり、涙と共に流れ出た。
(私のせいだ)
強い自責の念に駆られる。
白昼の王都、ミネルヴァという同行者の存在、そしてパメラの見えざる護衛。なにより、マクガヴァンに全てを委ねたことで、気が抜けていた。思えば、いままで大した配慮もせずイアンを出歩かせていたが、不用意が過ぎた。後悔しても後悔しきれぬ。ただただ、涙を流す。
パメラはそんなマーシャに声をかけることもできず、その場に立ち尽くすのみ。
しばらくして、ようやく落ち着いたマーシャは、パメラを診療所から連れ出し話を聞く。
「ミネルヴァ様と別れてから、イアンの身に何が起きたのか……知っているのだな」
パメラは頷く。
「あのときのプライス様の様子に、ただならぬものを感じました。虫の知らせ、とでも申しましょうか……とてつもなく悪い予感が。ゆえに、私は罰せられるのを覚悟のうえ、お嬢様ではなくプライス様のほうを追うことにしたのです」
彼女が護衛対象のミネルヴァを放ってイアンを追跡することを選んだというのは、まさに異例のことであった。
「実を申せば、プライス様の素性については私も調べさせていただきました。お父上が何者かに殺害された直後、王都にお
その相手が、強大な権力を持つランドール家ゆかりの者であるとなると、これはただ事ではない。自分が側を離れることによってミネルヴァの身に危害が加わる危険性と、イアンを失うことによってミネルヴァが傷つく危険性。二つを天秤にかけ――パメラは、ミネルヴァの「こころ」を護ることを選んだのだ。
「プライス様は辻馬車を拾って追跡に当たられました。人通りの多い街中でなら気取られずに済みますが、例の箱馬車は海沿いの倉庫街に向かいまして」
倉庫街は、街中に比べると交通量がぐっと少なくなる。そこで、尾行術の基本を知らぬイアンが相手に気付かれるのは必定であった。日除けのない辻馬車であったから、イアンの面体も相手からはよく見えたに違いない。
「プライス様の馬車は、辻を曲がったところで急襲を受けました。御者は、恐らく即死」
イアンは奇襲で傷を負いながらも、四人の襲撃者のうち二人を斬り倒した。しかし――イアンの奮戦はそこまでだった。とうとう、深手を負って倒れた。
「私があと一歩早く助けに入っていれば……無念です」
奥歯を噛み締める音がマーシャにも聞こえたほど、パメラは悔しさを滲ませる。
駆け寄りつつ投げナイフを投擲し、それは残り二人の襲撃者の手首と肩口を捕えた。二人はイアンの傷が致命傷だと確信したのか、パメラに反撃しようとはせず、倒れた仲間を担ぐと素早くその場から走り去った。
「ランドール家の馬車とやらは?」
「私が割って入ったときには、既に遠くへ。追うことは不可能ではありませんでしたが、プライス様を捨て置くわけにも参りませんでしたので……私の力不足でした」
「いや……よくやってくれた。パメラがいなければ、私はイアンの
マーシャがパメラの手を強く握った。パメラも、黙ってマーシャの手を握り返す。
しばらくしてパメラの手を離したマーシャは、いつもの落ち着きを取り戻したかに見えた。しかし、パメラはその瞳の奥に、地獄の業火の如き暗い煌きが宿るのを見逃さない。
「グレンヴィル様、これからどうなさるおつもりですか」
「イアンの、そして彼のお父上の仇はこれではっきりした。しかし、確たる証拠はない」
パメラの目の前でイアンが殺されたことで、麻薬密売に端を発する一連の事件にランドール家の者が関与していることは明白となった。いや――ランドール家の力を考えれば、ほかの誰かに操られているということは考えにくい。おそらくは、首謀者だ。
「仇討ちは何も生まぬなどと、イアンには偉そうに説教したものだが――今の私は、犯人が許せぬ。仮に大罪を背負おうとも、犯人を成敗する」
私人であるマーシャが、個人で誰かを断罪するとなると、これはただの傷害、殺人罪である。しかし、マーシャは罪人になることも辞さない覚悟だ。
「わかりました。ではグレンヴィル様、私も微力ながらお手伝いいたします」
と、パメラが申し出る。しかし、マーシャとしてはすんなりと受け入れるわけにはいかぬ。マーシャがこれからなそうとしているのは立派な犯罪である。パメラは大恩ある公爵家の使用人であり、巻き込むことを躊躇するのは当然だ。
マーシャは、パメラの瞳をじっと覗き込む。いつもの鉄面皮。しかしその瞳には、マーシャと同じく炎が燈っていた。
(そうか。お前も、怒っているのだな)
幼少時よりフォーサイス家に仕えるパメラは、十年以上ミネルヴァの傍に付き従ってきた。滅多に表には出さぬが、彼女にとってミネルヴァは実の妹以上の存在であった。イアンとの睦まじい様子を陰日向に見守ってきたパメラには、ミネルヴァの幸せを奪った輩を許すことなどできないのだろう。
マーシャは、パメラと視線を交わしたまま、無言で頷いた。
と、遠くから複数の馬蹄の音が聞こえてくる。通報を受けた警備部のものだろう。第一発見者であるパメラが調べを受けるのは必然だ。
「パメラ、適当に誤魔化してもらえるか」
「わかりました。グレンヴィル様、お嬢様をお願いできますか」
「ああ。御屋敷まで送り届けて――」
マーシャが、口をつぐんだ。ミネルヴァにどんな顔をして会えばいいのか、わからないのである。かつてのプライスのようには振舞えぬ自分が恨めしい。マーシャは、己の人生経験の薄さを痛感した。
「……パメラ、済まぬが……」
「わかりました。本家のほうから迎えを出すように手配いたします。それと、お嬢様に、その……プライス殿のことは……」
「……伝えないでおいてもらえるか」
われながら卑怯だとマーシャは思う。今ミネルヴァに伝えずとも、いつかは必ず真実を告げねばならないときが来る。マーシャのやっていることは、ただの先延ばしに過ぎないのだ。
パメラはマーシャのその言葉に、無言で首肯した。
警備部の対応をパメラに任せ街に出ると、マーシャは大通りの街頭に立つ伝言屋を捕まえた。
伝言屋とはレンの如き大都市にはつきものの商売で、その名の通り人への伝言を代行することで報酬を得る連中だ。
マーシャはそこで、雑貨屋「ブルックス」を通じてマクガヴァンにも伝言を頼んだ。
(今はとにかく、迅速に動かねばならぬ)
敵はイアンとマーシャのつながりを当然掴んでいるとみてよいし、マーシャがフォーサイス家と親密であること、またマーシャがかつて国家機密に関わる部隊に所属していたことも把握しているかも知れぬ。敵がまったくの間抜けでない限り、マーシャの出方に警戒を強めるのは必定である。
事情聴取をそつなくこなしたパメラは、早速行動を開始した。
第一になすべきは、イアンが追っていたランドール家の馬車の行方を掴むことである。仮に馬車の中にイアンの仇が乗っていたというマーシャの推測が正しいなら、馬車の向かった先にその仇に繋がる手がかりがあるはずだ。仇自身がいる可能性も高い。
倉庫街からほど近い食堂で待機していたマーシャのもとに、パメラが報告に現れたのは日もどっぷりと暮れたころである。調査に要した時間は、わずか数時間であった。
夕飯時をやや過ぎた時間帯ながら、店は多くの客で賑わっている。マーシャとパメラの密談は喧騒にかき消され、隣の席の人間とて聞き取ることはできないだろう。
「まず、役所の登記を洗いました。結果、この倉庫街の近辺に、ランドール家ゆかりの建物が五つ見つかりました」
「ふむ。それで?」
「うち、四つは毛織物等の商品に使う倉庫。番人を数人立てているものの、内部には怪しい様子はなく、まったく普通の倉庫でした」
「ということは――」
残る一箇所――それは、ランドール家私設の船着場であった。
その船着場は港から少し外れた場所にあり、二つの大きな桟橋に大きな屋敷が併設されている。屋敷はランドール家の者が寝泊りするために造られたもので、別荘と言っても差し支えない豪奢なものだった。
「隅々まで調べたわけではないので、馬車の姿は確認できませんでした。しかし、武装した男たちが、おそらく数十人単位で配備されていました。およそランドール家に仕える者には見えぬ風体の者ばかりです」
港のはずれということで、特別用があるわけではない限り、人は近づかない。そこが、ランドール家の所有であるとなれば尚更だ。
「なるほど。ほぼ、決まりだな」
「では、どうなさるおつもりですか」
「官憲に頼らないのであれば、やることは一つしかあるまい。討ち入って敵の首を獲る」
「時間をいただけるなら、私が確たる証拠を掴んでまいります。グレンヴィル様が動かれるのはそれからでもいいのでは」
「いや、事態は一刻を争う。もし私が敵の立場なら、イアンを殺した時点で証拠の隠滅を図り、アジトも引き払おうとするだろう。もっとも、敵はそれなりに図体の大きい集団ゆえ、そう身軽に動けるとは思えぬ。勝負は今夜だ」
「では、私が先に潜入して……」
「いや、屋敷に入るのは私一人だ。お前の腕前を信用しないわけではないが、万一お前の身が敵の手に落ちたりすれば、ギルバート様に申し訳が立たぬ」
「……わかりました。では、これが屋敷の見取り図と侵入に適すると思われる経路です」
パメラは、既に詳細な図を紙に描き記していた。実に手際がいい。
と、店のドアベルを鳴らして入って来た一人の男が、マーシャに近づく。
「言われたとおりのものを運んできましたぜ」
男は、片手で抱えられるほどの大きさの棒状の包みを床に下ろした。男はマーシャに依頼されて桜蓮荘から荷物を運んできたのだ。マーシャが心づけを渡すと、男は去っていく。
「さて……おおい、おかみ」
「はいはい、何にいたしましょ」
小太りで愛想のいい中年女性が、注文を取りに来る。
「少し聞くが、薬草酒の類は置いているか?」
「ええと、売り物ではないんですけど……うちの家族で飲んでるのでよろしければ」
「ほう。ひょっとして、おかみはライサ島の出身かね?」
「私でなくて旦那ですよ。あれがないと眠れないって言って、わざわざ取り寄せてるんです」
「なるほど、これは運がいい。では、少しでいいからそれを二つくれ」
程なくして、薄緑色の酒が入った小さなグラスが二つ運ばれてきた。釣りは要らぬと言ってマーシャがおかみのポケットに銀貨をねじ込むと、おかみはほくほく顔で去っていった。
「パメラ、酒は?」
「飲みません。しかし、飲めるように訓練されてはおります」
情報収集においては、酒を飲まなければならない状況になることもある。まったくの下戸では、密偵は務まらぬ。
「景気付けだ。済まぬが一杯だけ付き合ってくれ。薬草酒は、イアンの好物だったのだ」
「わかりました」
「では――」
二人は軽くグラスを掲げると、一気に酒を飲み干した。
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