第十四話
風は穏やかで雲はなく、空には夏の星座がまたたく。静かな夜だ。
この夜、レンの港に出入りする船舶は少なく、緩やかに打ち寄せる波の音のみがわずかに響く。
しかし港の片隅にあるその屋敷だけは、剣呑な空気に包まれていた。
「急げ、なんとしても今夜中にすべて運び出さねばならんのだ!」
屋敷の中庭で声を張り上げているのは、小柄な初老の男である。どことなくくたびれた感じの特徴のない男だが、眼光だけは異常に鋭い。
そして、その指示に従い、多くの――おそらく三十人以上の男たちが、木箱に入った荷物を建物の外の桟橋に運び出していた。どの男も武器を帯びており、荷役に従事する人足、という雰囲気ではない。その体つきや身のこなしは、男たちが戦うことを生業とする人間であることを思わせる。
「まあ、そう焦らずともよいではないか」
中庭に張り出したテラスにて、作業の様子を見守っていた壮年の男。年のころは四十前後、焦げ茶の頭髪をきっちりと油で撫でつけ、形のいい口髭をたくわえている。その男――ランドール家当主その人である――は、余裕の表情を崩さない。
五十年ほど前に流行った、今や古風と言っても差し支えない意匠の黒の上下に身を包みながら、いささかも古臭さを感じさせない。仕立ての腕がいいのもその理由のひとつだが、何よりランドール本人から立ち昇る気品がそうさせるのだろう。
「どうした、随分臆病ではないか。そんなことでよく『蜃気楼』の指揮官が務まったものよ」
「プライスの息子を始末した際に割って入ったという女のこともあります。用心に越したことはありませぬ」
「だいたい、特務が何だというのだ。いまだ、具体的な証拠はなにひとつ与えておらぬはと申したのはそなたではないか」
「マクガヴァン子爵は執念深く
「ふん、そこまで言うなら好きにするがいい」
あくまでも考えを曲げないその物言いに、ランドールはやれやれといったように肩を竦めた。
ふと、ランドールが傍らに積まれた木箱に手をかける。中から一本の酒瓶を取り出した。
「不思議なものだな。この液体がああまで人を狂わせ、そして私に大きな富を与えてくれる。そして――来るべき日にはわがランドール家にふたたび栄光をもたらすであろう」
星明かりに瓶の中身を透かせるように持ち上げると、ランドール公爵はうっとりとした表情を浮かべた。
「そのキラートの販路を奪い、あなたにお譲りしたのが誰か、お忘れなきよう」
「わかっておる。しかし、そなたも大胆な真似をしたものよ。私欲のために『蜃気楼』を動かし、無実の人間を多数殺害させたのだから。それでいて、自分が関わった痕跡ひとつ残さなかったのだから大したものだ」
恩着せがましい男の物言いに、ランドールは皮肉で反撃した。
「しかし――そなたには感謝しているのだぞ。先王フェリックス――あの成り上がりの末裔の、口に出すのも忌々しい改革とやらのせいで失われた我ら貴族の誇りは、なんとしても取り戻さねばならん。お前は、そのための手段を提示してくれたのだからな」
この言葉に、初老の男は無言で一礼した。ランドールからは窺い知れぬその表情は、実に冷ややかなものだった。
「今、手を緩めるわけにはいかぬ。評議会での多数派工作、宮内庁の官僚どもへの根回し……やらねばならぬことは山積みだからな」
「なればこそ、より慎重にことを運ばねばと申し上げて……」
と、そこで男の身体が静止する。耳をそばだてる素振りを見せたと思うと、袖口に隠されたナイフを引き抜き、植え込みに向かって投げ放った。
手ごたえは充分――しかしナイフは金属音を立てて弾かれた。
「何者か!」
植え込みから、一つの人影が立ち上がる。
怒りの炎を身に纏い、その姿を現したのはマーシャ・グレンヴィルであった。
尋常ならざる出で立ちである。通り魔を成敗したときと同じ、黒の上下。特筆すべきは、剣である。左右の腰にそれぞれ二本ずつ。背中には、交差させるようにしてもう二本。合計六本もの剣を身に帯びているのだ。
「グ、グレンヴィル……!」
初老の男は、呻くように声を絞り出した。
マーシャは、ランドール公爵に目を向ける。
「七大公爵たるランドール家当主が、自ら麻薬密売に手を染めるとは。恥を知るがいい」
雷鳴の如き烈しい
「貴様がマーシャ・グレンヴィルか。この私に対して随分な物言いだな、無礼者め」
「塵にも劣る薄汚い罪人に、無礼もなにもあるものか」
「なっ!? き、貴様……!」
恐らく、ランドールは生まれてこの方これほどの暴言を吐かれたことなどないのだろう。怒りのあまり、言葉を失ってしまった。
「プライス父子をはじめ多くの人間が殺されたこと。そして、麻薬中毒の通り魔によって十人以上の人間の命が奪われたこと。すべて貴様らが原因だな。もはや言い逃れはできまい」
「すべては、先王によって歪まされたこの国の『かたち』を正すため。わが正義の執行のため、必要な犠牲だ」
「この国の『かたち』……?」
「貴様に語っても詮無きこと――時間がないのでな、そちらの用件を聞こうではないか。取り込み中ゆえ、もてなしをすることはできぬが」
ランドールは、腕組みをしてふたたびマーシャを見下す。
「貴様を斬る」
マーシャは両の腰の剣をすらりと抜いた。右手に一本、左手に一本。二本の剣を構える。
「この七大公爵たる私を斬るとは大きく出たな。しかし貴様はいずれ始末するつもりだったのだ、こちらとしては好都合よ。者共、曲者だ!」
ランドールがひと声かけると、広い屋敷の庭にわらわらと武装した男たちが集まってきた。その数は、総勢四十近い。男たちは、マーシャをぐるりと取り囲んだ。
「どうだ、この数相手では手も足も出まい。地面に額をつけて命乞いするのなら、命だけは助けてやらないでもないぞ。両手を落とし、玩具として飼ってやる」
さすがに戦意を失っただろう。そう考えたランドールだったが、マーシャの口から出てきたのは意外な言葉だった。
「今この屋敷にいる者たちに告げる。貴様らは、金で雇われランドールの悪事の片棒を担いでいるのだろう。大人しく警備部に出頭するというのなら、私も手出しはせぬ。しかし――向かってくるのなら容赦はせぬ。命は取らぬよう努めるが、腕や足の一本は覚悟してもらうぞ」
と、堂々と告げたのだ。
四十人を前にしてのこの物言いに、傭兵たちは失笑を禁じえない。彼らはただの傭兵ではない。一人ひとりが腕に覚えのある武芸者である。四十対一は、絶望的な戦力差だ。ランドールも、くっくと喉を鳴らして嘲笑している。
「それが貴様らの返答か。よくわかった」
マーシャの眼光が、一段鋭くなる。
「『雲霞一断』マーシャ・グレンヴィルが御相手いたす。どこからでも、かかってくるがよい」
マーシャが構えた。
「ふん……
ランドールが右手を上げると、傭兵たちが一斉にマーシャに斬りかかった。
マーシャは地を這うが如く低く身体を沈め、傭兵たちの突撃をかわす。その体勢のまま、両手の剣を地面と平行に振るうと、二人の男の足がくるぶしの辺りから切断された。悲鳴をあげ、二人が倒れる。
さらに、前に立ちはだかる男の肩を左手の剣で串刺しにしつつ、走り込みながら右手の剣を一閃させる。マーシャの右手にいた男の腕が斬り飛ばされた。
一瞬、囲みにほころびが生まれたのをマーシャは見逃さない。両の足に力を込めると、矢のような速さで人垣の間を走り抜けた。
その間、わずか数秒であろうか。マーシャは包囲を抜けただけでなく、四人を戦闘不能にしてみせた。
マーシャはくるりと振り返ると、剣先を男たちに向け、手招きするように動かした。歯をむき出しにして、獰猛な笑みを浮かべている。
思わず、傭兵たちの動きが止まる。まるで、山道で凶暴な獣に出くわしたような――奇妙な恐怖にとらわれたのだ。
「ええい、どうした! さっさとそ奴の首を取らぬか!」
ランドールの叱咤に、傭兵たちは弾かれたように動き出した。
マーシャは、斜め後ろに後退しつつ応戦する。最初に繰り出された突きを紙一重で避けると、体を回転させて横に薙ぎ、男の太股を深く切り裂く。
さらに、二人が同時に襲い掛かる。一人は長柄の戦斧、もう一人は大陸風の曲刀を振りかぶった。マーシャは、ぎりぎりまで引き付けたところでひらりと身をかわす。
「ぬおぅッ!」
「ぐわぁッ!」
二人の男が血を噴き出して倒れた。同士討ちである。
傭兵たちが怯んだところで、すかさずマーシャは両の剣を閃かせる。まるで剣舞の如く回転しつつ放たれた斬撃で、今度は三人が同時に倒れた。
「くッ、このアマ!」
鋭く突き出されたのは、丈が大人二人分の身長ほどもある鉤槍だ。マーシャは右の剣の鍔でこれを受け止めると、同時に左の剣でその柄を両断。男があっという間もなく肉薄し鋭く斬り上げると、半分になった柄を握っていた指が三本ほど宙を舞った。
マーシャは、またたく間に十人を斃してのけた。
たとえ相手が何人いようとも、背後さえ取られぬよう立ち回れば、ひと時にかかってこられるのはせいぜい二人だ。簡単な理屈だが、マーシャでなければとても実行できることではない。
今のマーシャは、獰猛な獣である。それも、王国最高の剣技と高い知性を持った獣だ。
「何をしておる! 数で押し切れ!」
ランドールの声に焦燥が混じる。無理もない。既に、四分の一の戦力が失われてしまったのだから。
しかし、傭兵たちもマーシャに襲い掛かるのを躊躇する。金で雇われた烏合の衆である弱みが、ここで出た。傭兵とは、暴力を売って生計を立てる稼業だ。いくら契約とはいえ、商売道具である肉体を損ねてしまっては元も子もない。互いに、他の者を矢面に立たせ、自分は美味しいところだけを頂戴する。そう考えているのだ。
「どうした。来ないのならば、こちらから行くぞ」
切れ味の鈍った剣を投げ捨て、新たに二本の剣を抜く。返り血を全身に浴びたマーシャが、不敵に笑った。
同刻。
屋敷の門を抜けて、人気のない道を走るひとつの影があった。
(まったく、あの馬鹿殿さまめ……マーシャ・グレンヴィルの危険性については、散々忠告したというのに)
男は、心の中で毒づく。先ほどまで、傭兵たちを指揮していた初老の男である。
男の名は、ヘクルートという。かつてマーシャを「蜃気楼」に抜擢した、「蜃気楼」の実質的指揮官であった男だ。
かつての「蜃気楼」での任務でのマーシャの働きぶりを思い出し、ヘクルートは身震いする。
(特に、双剣を手にしたグレンヴィルの恐ろしさときたら……くわばら、くわばら)
両手に一本ずつ剣を持つ戦い方は、特に手ごわい敵、多勢に対するときのみに使われていたものだ。言うなれば、本気の印である。そのときのマーシャの鬼神のような強さは、「蜃気楼」の歴戦の隊員をも震え上がらせるほどだった。
(半端な剣士をたかだか四十人かき集めたとて、グレンヴィルを相手にしては業火の前に四十本の藁束を晒すのと同じこと。蹂躙され、焼き尽くされるのみよ)
身の危険を感じたヘクルートは、乱戦の混乱の最中に屋敷を抜け出し、逃走することにしたのだ。走りながら、変装用の付け髭、かつらをかなぐり捨てる。自ら部屋を荒らし、口封じに遭ったように見せかけてからというもの、外出時には欠かさず着けていたものだ。
(グレンヴィルに私の正体は気取られずに済んだようだが……ともかく、一刻も早くこの場を離れねばならん)
と、屋敷から一人の男がヘクルートを追って駆けて来た。
「ヘクルート殿、どちらへ行かれるおつもりか」
ヘクルートの補佐役としてランドールから宛がわれた男であった。屋敷に詰めていた傭兵たちと違い、ランドール家の手の者である。いや、宛がわれたというよりは、押し付けられたといったほうが正しい。表向きは補佐役という名目だが、その実ヘクルートに張り付いて動向を監視する目付け役も兼ねていたからだ。
「あのままでは、ランドール公が危うい。ランドール家本宅へ赴き、援軍を連れてくる」
「なるほど、援軍を……」
しかし、目付け役の男はそれが嘘であることを見抜いているし、ヘクルートももとよりこの男を騙せるとは考えていない。ランドール家本宅までは馬を使っても往復数十分かかる。そんな時間をかけて援軍など呼んでも、役には立たないのは目に見えている。
ふたたび走り出すヘクルートの背中を見て、男は何も言わず静かに剣を抜いた。もしヘクルートに不審な動きがあれば、始末するのも男の役目であった。いや、むしろ隙あらば殺せ、というのが
男は一気にヘクルートに駆け寄ると、その背中目掛けて鋭く刃を突き出した。男は長年剣の修行を積んだ、ランドール家家臣きってのつわものである。必殺の一撃。男は奇襲の成功を確信した。
「そんな腕前で私が殺れると思ったか、若造」
しかし男の前にヘクルートの姿はなく、声が聞こえてきたのは背後からであった。振り返る間もなく、男の首筋が横に切り裂かれた。噴水のような血煙を上げ、男は声もなく倒れる。
「お主が隙あらば私の命を取ろうとしていたことなど、とっくにお見通しだ。愚か者め」
見た目こそ冴えない中年男のヘクルートだが、長年「蜃気楼」の指揮官を務めた男が弱者であるはずもない。十数年前までは、凄腕の暗殺者として暗躍していた男だ。
手にした短剣の血糊を拭って袖口に仕込むと、ヘクルートはなおも先を急ぐ。
(あの時代遅れの殿さまの言葉ではないが……私としたことが、とんだ手抜かりだった)
「蜃気楼」の任務を通じキラートの存在を知ったヘクルートは、これを利用して一儲けすることを画策した。犯罪組織を摘発したのち、その密売経路を独占。故意に不祥事を起こさせ、当時の「蜃気楼」関係者を現場から遠ざける。ランドールの力を利用しキラートを売りさばき、ことが露見しそうになればすべての罪をランドールに押し付け高飛びする、というのがヘクルートが描いた絵図である。
ランドールを動かすのは容易かった。かねてから抱いていた先王の改革への不満。王国有数の伝統と格式を持つ自家への矜持。ランドールの感情を上手く煽り、利用したのだ。
しかし、春の通り魔事件依頼、すっかり歯車が狂ってしまった。
ランドールは自らの目的に執着するあまり視野が狭くなることが多々あった。ヘクルートからすれば軽率な行動を取ることがあり――白昼、イアンを襲撃させたのはその最たる例である――ランドールがいつか破滅するだろうことは予想できていた。
しかし、事態はヘクルートの考えるよりも早く進行した。
プライスをはじめとした当時の関係者の口封じ、公文書の捏造・隠滅。すべて特務の先を越して動いたはずが、偶然が重なりマクガヴァンの猛追を許すことになった。そして、すべての中心にいたのはマーシャ・グレンヴィルであった。
第一にマーシャを暗殺することも検討はしたのだ。しかし、マーシャはキラートについて詳しく知らぬだろうし、なによりあのマーシャを秘密裏に始末することがヘクルートには不可能に思えた。
(今思えば、私が取りえた最良の手段は、グレンヴィルがこの件に関わっていると知った時点で手を引くことだったのだ。む、あれは……?)
考えながら走るヘクルートの視線の先に、一つの光が。どうやら若い女性が、ランプを片手に歩いているようだ。服装からすると、どこぞのお屋敷の侍女か。人気の少ない、夜の港である。侍女が一人で歩くのはいかにも不審だが、今のヘクルートにそんなことを気にしている暇はない。
(あ奴を殺った瞬間は見られていまいが――今死体を見つけられては面倒だ)
袖口の短剣に手をかけつつ、ヘクルートは歩く。女性との距離はだんだんと縮まり、零となった瞬間。すれ違いざま、ヘクルートの右手が雷光のように素早く動いた。
確実に女性の喉元をとらえた、そう確信したヘクルート。しかしその右手に手ごたえはなく、代わりにどさりと何かが地面に落ちる音がする。一瞬遅れて、ヘクルートは現状を把握した。ヘクルートの右手首から先が、なくなっているのだ。
「ん、なッ……!?」
鮮血がほとばしる自らの右腕を見て、ヘクルートは愕然とする。無理もない。女性に斬りつけたと思ったら、なぜか自分の手が切り飛ばされていたのだから。
「ふう。グレンヴィル様からは、命は取らぬようにと申し付けられましたが……あなたがあまりに物騒なことをなさるものですから、危うく反射的に首を落としてしまうところでしたよ」
その女性――パメラが、淡々と告げた。手から垂れ下がる糸状のものが、ランプの光に照らされ輝いている。それは、鮮血滴る細く鋭い鋼糸。パメラは、ヘクルートが短剣を振るおうとした瞬間それを手首に巻きつけ、一瞬のうちに切断してみせたのだ。
「ッ、貴様――!?」
上腕の内側を強く押さえ血止めをしながら、ヘクルートが呻く。
「屋敷から逃れようとする者を捕らえよと命じられています。抵抗しないでいただけるとこちらの手間が省けますゆえ、どうかご協力を」
まるで主人にするように、パメラが慇懃に一礼する。
(こやつ、特務の戦闘要員か? いや違う。そう、もっと危険な『何か』――)
長年王国の暗部に携わってきたヘクルートの勘が、最大級の危険を告げている。
身を翻すと、迷うことなく駆け出した。切断された手首の手当て、先ほど殺害した男の死体――懸念はいくつもあれど、眼前の侍女から逃れることを何よりも優先すべきだ。ヘクルートは、そう判断した。
初老に差しかかろうという年齢とは思えぬ健脚である。パメラとの距離はみるみる離れていく。
「……仕方ありませんね」
パメラは、右足を軸にその場でくるりと一回転。ふんわりと舞い上がった長いスカートの裾を左手で摘み上げると、お辞儀をするように前屈して右手をスカートに差し入れた。
「ふッ!」
パメラの右手から放たれた何かが、金属音を立ててヘクルートの右足に絡みついた。両端に錘の付いた鎖分銅である。
「ぬうッ!?」
転倒こそしなかったものの、ヘクルートの体勢は大きく崩れた。パメラは続いて頭のブリムを引き抜くと、レースの飾りを剥ぎ取る。中から現れたのは、三日月形の刃であった。横投げで回転をかけ鋭く投擲する。
ヘクルートもさるもの、袖に仕込んだナイフを引き抜くと、曲線的な軌道を描きながら迫る刃を弾いた。
しかし、パメラは既に次なる攻撃の準備を整えている。両手の指の間に四本ずつ、計八本の小型の投げナイフ。小指ほどの刃渡りのそれは、エプロンの裏にびっしりと仕込まれていたものだ。顔の上に両手を交差させ、振り下ろしざますべてのナイフを投げ放った。
「ぬおおおぉッ!!」
ヘクルートは身をよじり、片手のナイフを振りかざして必死の回避行動をとる。が、鎖分銅に足を取られそれもままならぬ。全身四箇所に刃を受け、思わず片膝をついた。
乱れたスカートとエプロンを直しつつ、パメラはゆっくりとした足取りでヘクルートに歩み寄る。
「それでは、お覚悟を」
「なッ、舐めるなあぁぁーーッ!」
ヘクルートは、両足に溜めた力を一気に解放させた。五歩ほどの距離を一瞬にして詰めるほどの凄まじい速度でパメラに肉薄すると、残った左手を閃かせる。
満身創痍のヘクルートが、最後の力を振り絞って放った斬撃は、しかし空を切った。
ヘクルートの視界にパメラの姿はなく、 茉莉花の香水の残り香が漂うのみ。耳のすぐ後ろで、パメラの言葉が響く。
「お遊びはこれまで。では、ごきげんよう」
「ッ!? この私が背後を――」
それが、へクルートが発した最後の言葉だった。首筋に手刀を打ち込まれ、ヘクルートは一瞬にして意識を失った。
「さて、もう一仕事ですね」
屋敷からは、複数の足音がばたばたと近づいて来る。マーシャに恐れをなし、逃げ出してきた傭兵たちのものだ。
しかし――一人たりとも、パメラの手から逃れることは叶わないだろう。
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