第十二話
その日も、中庭ではミネルヴァとイアンが剣を交えていた。イアンが桜蓮荘に来てから十日ほどが経過している。
ミネルヴァがマーシャのもとで稽古するのは、月に三、四度ほどというのが通例であったが、この十日間というものミネルヴァの訪問は既に三度目だ。
剣術以外の習い事、勉強に社交界の付き合いと、大貴族の娘であるミネルヴァは多忙だ。そんなミネルヴァがこれほど頻繁に稽古に来るのに、マーシャも疑問を感じえなっかったけれども、
(稽古熱心なのはよいことだ)
と、深く考えることはなかった。
稽古が一段落したところで、ミネルヴァとイアンは中庭脇の長椅子に並んで腰掛け、小休止をとった。
「……イアン殿、先ほどの止めとなった突きですけれど……」
「ああ、驚かれたようですね。あれはライサ島に伝わる古流から取り入れられた技で……」
二人の表情は和やかで、剣術談義に花を咲かせている。
ここ最近のミネルヴァは、それまでにも増して稽古に力が入っているようにマーシャには感じられた。
(イアンの存在が、ミネルヴァ様にとっていい刺激となっているようだ)
若い二人が切磋琢磨し、互いに高めあうのはマーシャにとって喜ばしいことだ。
「それでは、今度は私が相手しよう。まずはイアン、来なさい」
二割増で気合を入れ、マーシャは二人に稽古をつけるのだった。
マーシャの指導はいつもより激しく、稽古が終わるころにはイアンもミネルヴァも完全にばててしまった。
「ふう、久しぶりにいい運動をしたな」
このときばかりはさすがのマーシャも息を乱し、珠のような汗を流している。
「ふぅ、はぁ、恐れ入りました。私もまだまだ鍛錬が足りません」
イアンは、滝のような汗を流しながら地面にへたり込んでいる。
「先生はいつもは部屋にこもりがちですのに、どうしてそんなに体力がおありなんでしょう」
パメラに汗を拭ってもらいながら、ミネルヴァは半ば呆れ顔だ。
「ただ、昔の貯金が残っているだけですよ。二人は若く、これからいくらでも伸びます。私もいつかは追いつかれ、追い越されることでしょう」
そう言うマーシャだが、実はマーシャは今でも暇を見ては剣の素振りを行っている。長年染み付いた習慣というのは恐ろしく、二日も剣を握らぬと身体が疼いてしまうのだ。
「本当にそうなのでしょうか。信じられませんけれど――あら?」
ふと、ミネルヴァが声を上げた。
「イアン殿、お顔の――ええ、そこですわ。擦り傷が」
ミネルヴァはハンカチを取り出すと、イアンのこめかみの当たりに優しく押し当てた。
「あ、これはかたじけない。おそらく、面当てが擦れたのでしょう」
「もしや、大きさが合わなかったかな?」
「少しきついという程度です。稽古に支障はありません」
「いや、毎度擦り傷を作るようでは防具の意味がない。表通りを少し行った先に、武具店がある。そこで調整を――」
「それなら、私がご案内しますわ」
先ほどまで立ち上がる気力もなかったミネルヴァが、俄然元気を取り戻した。イアンの腕を取って立ち上がらせると、引っ張るようにして歩き出す。マーシャが代金を渡そうとする間もなかった。
このミネルヴァの様子を見て、マーシャはようやくここ最近のミネルヴァのおかしな行動の原因に気付く。
「なるほど、あのミネルヴァ様がなぁ」
出合って間もない二人だが、世の中には一目ぼれという言葉もある。人が好き合うのに、共に過ごす時間が長いも短いもないだろう。それに、二人ともその真っ直ぐな人柄を体現したような、気持ちのいい剣を使う。剣を合わせるうちに、通ずるものがあったのかもしれぬ。
「もっとも、ご本人もその感情がどういうものかわかりかねているようですが」
いつの間にかマーシャの横にはパメラが立っていた。遠ざかるミネルヴァの背を、目を細めて見守っている。パメラは、ミネルヴァの感情はまだ恋愛という域には達していないということを言いたいのだろう。
「パメラ、いいのか? イアンは好ましい青年だが、フォーサイス家のご令嬢と釣り合うような家柄ではないぞ」
「それは、私が判断することではありません。私はただの護衛で目付け役ではありませんので。ただ、お嬢様の望むままにして差し上げるのが私の役目。では、失礼」
と、パメラが二人を追おうとする。
「パメラ、二人の邪魔は……」
「心得てございます。お二人の視界に入るような下手は打ちませぬ」
そう言うと、パメラはふたたび歩き始めた。マーシャにすら、その足音は聞き取れない。パメラの隠密の術は、それほど高い水準にあった。
(相変わらず、見事な……)
さしものマーシャも感嘆を禁じえない。
小一時間ほど経って、まずパメラが先に戻ってきた。ミネルヴァに怪しまれぬよう、先回りして戻ってきたのだ。
「グレンヴィル様、少しお話が」
「うん?」
口数が少ないパメラが、こうして話しかけてくるのは珍しく、マーシャが怪訝な表情を見せる。
「イアン・プライス……彼を付け狙うのは何者ですか」
「気付いたか」
「はい。遠巻きにお二人の様子を覗う気配が二つほど。彼らの注意はお嬢様にではなく、プライス様に向けられていたように感じました」
イアンが監視されているだろうことは、マーシャも予想していた。しかし、ここは百万人近い人口を誇る、天下の王都レンだ。それにイアンには夜間一人で出歩かぬよう言いつけてある。うかつに仕掛ければ、誰かに目撃されるのは避けられぬため、敵もおいそれと手出しはできないはずとマーシャは考えていたのだ。
そもそも、イアンが故郷から王都レンに向かうまでの間に襲撃を受けなかったことを考えれば、敵も積極的にイアンの命を取る気はないのだろう。
「込み入った事情があるのだが、今は話せないのだ」
「そういうことなら、詮索はしませんが」
「すまない。それで、パメラはどうしたのだ?」
「捕縛することも考えましたが、今日のところは様子見を」
「うむ、それがよい」
下手に手出しをして敵の警戒心を喚起するのは得策ではない。向こうが仕掛けてこないのであれば、こちらから打って出るべきではないとマーシャは考えている。
(それにしても……パメラの手並みは見事と言うほかないな)
尾行を仕掛けた相手も、訓練を受けたその道の専門家に違いない。なのに、パメラは易々とその気配を察知してしまったのだ。
パメラの姿を見ていると、マーシャは
(仕掛けてみたい)
と思うことがある。
強者とみれば自らの腕を試したくなる。これは、おおよそ武術を学ぶ者ならば誰もが抱く感情だ。数年来隠居同然の生活を送っているマーシャにしても、この習性は抜け切っていない。そして、パメラの技量はマーシャをしてそう思わせるほどのものだということだ。
「ともあれ、ミネルヴァ様に危害が及ぶようなことはあるまい。今日のことは、パメラの胸に仕舞っておいてもらえないだろうか」
「グレンヴィル様がそう仰るのでしたら」
「ありがとう、助かる」
そこで、ミネルヴァとイアンが連れ立って戻ってきた。遠目に見る二人の姿は、マーシャの目には実にお似合いのように映った。
「お帰り、二人とも――おや?」
イアンの手には、新品の面当てがあった。それまで使っていた面当てを武具店で調節させるつもりで二人を送り出したマーシャにとっては意外なことである。
「これは、お近づきのしるしに私からイアン殿にお贈りさせていただいたのです」
「私も、ミネルヴァ様に余計な出費をさせるわけにはいかないとお断りしたのですが……」
困惑気味のイアンである。
「王都に滞在するには、色々と物要りでしょう。どうかご遠慮なさらず、お受けになってくださいまし」
ミネルヴァの懇願するような視線に、イアンは思わず赤面して眼を逸らす。
(イアンのほうも、満更ではないらしい……)
と、マーシャは二人のやり取りを微笑ましく思いながら見守る。
とうとうイアンが折れたと見え、イアンはミネルヴァに頭を下げた。
「それでは、ありがたく頂戴いたします。しかし、このお礼は必ずさせていただきます」
「ええ、楽しみにお待ちしておりますわ」
程なくして、ミネルヴァとパメラは去っていった。日はすでに沈みかけ、ちょうど夕飯時である。マーシャは、イアンを連れて「銀の角兜亭」に行くことにした。
「こちらでの暮らしはどうだ?」
カウンターに並んで腰掛け、マーシャがイアンに尋ねた。
「はい。先生に剣の教えを受けることができ、非常に充実した日々だと思っております。自分で言うのもおこがましいのですが、郷里の道場では私の相手が務まる者がいなくなってしまいましたので。師匠は去年病を患って身体が弱ってしまいましたし。それに、父の旧友の方々も、皆よくしてくれます。王都にいたころの父の話もたくさん聞くことができました」
手元のグラスから酒を一口飲み、マーシャはイアンの目をじっと見つめる。
「いい機会だから聞くが――いまだお父上の仇討ちをしたいという気持ちは変わらぬか。はっきり言わせてもらう。復讐はなにも生まぬ。お父上もそれは望むまい。それに、もしお前が返り討ちに遭うようなことになれば、郷里のお母上はどうするのだ」
イアンは自分のグラスの水面に目を落とし、しばし口をつぐんだ。
「……父の最期の姿が、目に焼きついて離れぬのです。王国軍を辞めて帰郷するまでは、年に数度しか合えない父親でしたが、強く優しい、私にとって理想の男でした。父の旧友から、在りし日の父の話を聞くにつけ、なぜあの父が殺されねばならなかったのかと、悔しさが募るばかりで……」
イアンは、握りつぶさんばかりにグラスを握り締めた。目尻には薄っすらと涙が滲み、こめかみには青筋が立っている。
(この男、誠実で一本気だが、それゆえ余計に復讐が諦められぬのだろうか)
逆に焚きつけることになるやもしれぬと見たマーシャは、この場での説得は諦めることにした。
「わかった。私からはもう何も言うまい――む、イアン、グラスが空ではないか。おおい、店主」
「へい。兄さん、なんにします?」
「そうですね……薬草酒の類は置いていますか?」
「薬草酒とは、珍しいな」
「ライサ島の郷里のあたりでは、それほど珍しいものではないのです。滋養がつくと言って子供の頃から少量ずつ飲まされてきたのが、いつの間にか
「兄さん、申し訳ない。薬草酒は置いてないんですよ」
「そうですか……では、どうしようか」
「店主、いつぞやの……ほら、私に薬草酒を出したことがあったろう」
マーシャは、クレイグが殺された晩に、店主が薬草酒を出してきたのを思い出した。店主は好んで飲む者はいないと言っていた。売り切れたとも思えぬ。
「いや、それがですね。例の強盗に入られたときですよ。あのとき、割られちまったんです」
強盗が逃げ出す際、苦し紛れに放った投げナイフによって、数本の酒瓶が犠牲になったのはマーシャも憶えている。
「なるほど、あのときに…………」
言いかけて、それきりマーシャは口をつぐんだ。
単なる強盗には似つかわしくない手腕に、捕縛されてからの不審死。割られた薬草酒。
「薬草酒……そうだ、薬草酒だ!」
突如叫び声を上げたマーシャにイアンも店主も驚くが、マーシャは気にしない。
「店主、あのときの薬草酒についてなにか憶えていないか?」
カウンターから身を乗り出さんばかりに興奮するマーシャに、店主は気圧されながらも答えた。
「それが、よくわからねぇんですよ。仕入れ元の酒問屋も、手違いで入ってきたもので詳しく知らないって言ってましたし」
「む、そうか……」
マーシャは消沈してふたたび椅子に座る。
「でも、ラベルなら取ってありますよ」
「本当か?」
「ええ、一度店に入った酒のラベルは、必ず取っておくことにしてるんで。お客さんの好みなんかを書き付けておくと、後々便利なんですよ。ええと、どこだったかな……」
店主は、棚の引き出しをまさぐり、一枚の紙を取り出しマーシャに渡す。紙には、「キラート」という酒の名前と産地、生産年月などが簡単に記されていた。
「店主、これを貰い受けたいのだが」
「別に構いませんが――」
「すまん、助かる!」
マーシャは数枚の硬貨をカウンターに放り出す。
「イアン、悪いが少し出てくる。飯が済んだら先に戻ってくれ。寄り道はせぬようにな」
イアンの返事も聞かず、マーシャは走り出した。
「いったい、なんだったんですかねぇ」
「さあ……?」
イアンと店主は首を捻るばかり。
人ごみの間を縫うように、マーシャは夜の街を駆け抜ける。目指すは雑貨屋「ブルックス」。特務のマクガヴァンが使う情報屋がいる店だ。
(今頃気付くとは、なんたるうかつ……あの強盗の投げナイフは、端から私を狙ったのではなかった。薬草酒の酒瓶を破壊することこそが目的だったのだ)
走りながら、マーシャは考える。
恐らくあの薬草酒は例の麻薬だ。どうしてかはわからぬが、なにか偶発的な事情でほかの酒に紛れ、世に出てしまった。そして、その回収に出たのがあの三人組だ。そう考えれば辻褄が合う。
マーシャの妨害により、酒そのものを盗み出すことは不可能と判断した強盗は、瓶を破壊することを選んだのだろう。
そして、捕縛された二人が死を選んだということは、それだけ恐ろしい相手が後ろに控えているということだ。
しかし、今の段階ではまだ推測の域を出ない。それを裏付けられるのは、今マーシャの手にあるラベルのみだ。
雑貨「ブルックス」の店主は、四十過ぎの中年男だった。恰幅のいい温厚そうな男だが、その目付きや身のこなしにはどことなく堅気のものとは思えぬ雰囲気がある。
マクガヴァンからは既に話が通っていたようで、マーシャの名を出し、簡単に説明するだけでことは済んだ。
(これで、すべてかたがつくと良いのだが……)
麻薬事件の黒幕とは、即ちイアンの仇でもある。マクガヴァンによってそれが逮捕され、司法の手によって断罪されれば、イアンがこれ以上敵討ちに執心する必要もなくなる。
あとは、マクガヴァンに任せるしかない。マーシャは早足で桜蓮荘に戻るのだった。
マクガヴァンの行動は迅速だった。調査の結果を携え、マーシャの部屋を訪ねたのはわずか三日後のことである。
今度は白いシャツの上に、ポケットの多いチョッキ。腰のベルトに金槌や物差しを挟み、頭には手拭いを巻いている。どう見ても、桜蓮荘の営繕をしに来た大工の親方であった。差し迫った用件があるにもかかわらず、この見事な変装にマーシャは噴き出してしまう。
「どうだ、『今日の』はなかなかの自信作なのだ」
と、マクガヴァンは胸を張った。
しかし本題の話が始まると、たちまちマクガヴァンの表情は引き締まる。
「結論から言うと、そなたの推測は正しかった。あのラベルは、まさしく例の薬草酒のものであった」
「それは何よりです。詳しくお聞きしても?」
「ああ。ここまで協力してくれたのだ。そのために今日は参ったのだ」
酒の産地は、レンの対岸に浮かぶ島・ライサ島の一地方だった。その地方で伝統的に作られている薬草酒があるのだが、醸造の際使う薬草の種類と配合を変えることで、強力な薬効を持つ麻薬――キラートが生まれるのだという。
「表向きは普通の薬草酒を作るのと変わらないように見えるため、どの蔵元でキラートが製造されているのか判別するのは難しい。しかし、複数存在するとみられる製造元のうち、幸運にも一箇所だけは突き止めることができたのだ」
特務の調査員はそこの人間を締め上げたが、得られた情報はただ一つ。年に数度、仲買人が麻薬を買い上げていくということのみ。仲買人の素性も、品物が出荷される先も、蔵元の人間は把握していないようだった。
「そこで、我々は港の記録を調べた。一度に出荷される量は木箱数十個分だという。それをレンに運ぶというからには、必ず港の通関記録に残っているはずだと考えたのだ」
島国であるシーラント王国は、必然的に海運が盛んである。海運が盛んであればそれを利用した密貿易が行われる可能性も高くなる。港湾で輸送船の荷が厳しく調べられるのも、また必然であるといえる。
特務の調査員は、産地から一番近い港に向かい、記録を総ざらいして調べたという。
「しかし、目ぼしい結果は得られなかった。そもそも、港の役人が抱き込まれている可能性も否定できない。調査員が一旦諦めかけたところで、ひとつ興味深い符合を見つけた」
それは、港の入出港記録であった。何月何日の何時に、どこの何という船がその港を出入りしたのか、ということを記したものだ。
「年に数回という酒の出荷日から数日以内に、必ずその港を出入りしている私有船があったのだ」
「その持ち主とは」
ここで、マクガヴァンの声が一段低くなった。
「マルコム・ランドール。ジェラルマン公爵、ランドール家の当主だ」
「マクガヴァン殿、まさか! そんなことが本当に……?」
マーシャが大声を上げたのも無理はない。ライサ島のジェラルマン地方に広い所領を持ち、「七大公爵家」のひとつに数えられる大貴族の名が、マクガヴァンの口から出たからだ。
ランドール家は、シーラントでもとりわけ伝統のある貴族だ。歴史学上古代と分類される古よりライサ島で大きな力を持っていた豪族を祖に持ち、少なくとも八百年以上の歴史を持つという。爵位こそ同じ「公爵」だが、統一前の戦乱で武勲を上げ取り立てられたフォーサイス家よりも、本来格式は高いとされている。
現王家にしても、フォーサイス家同様戦乱を機にのし上がった家系である。シーラント王国で大っぴらに口に出すのは憚れるけれども、歴史的に見ればランドール家のほうが格上、というのが暗黙の事実だ。ランドール家とはつまりそれほどの大貴族なのだ。
国政に大きな影響力を持ち、様々な特権を持つランドールともあろう者が、麻薬密売に関わっているなど、考えるだに恐ろしいことだ。
しかし――普通の貨物船が厳しい荷物検査を受けるのに対し、七大公爵家私有の船は港を素通りできる。法でそのような特権が定められているわけではないが、あえてランドール公爵の私有船の貨物を改めようとする港湾職員などいない。決してあってはならぬことだが――禁制品を運ぶのに、これほど安全な船もない。
「これは、あくまで状況証拠に過ぎぬ。しかし――私の勘では『クロ』だ」
「しかし、なぜランドール公爵ほどの大貴族が? 犯罪に手を染める動機はあるのでしょうか」
「ふむ。これは社交界に詳しい者ならば誰でも知っていることだが、ランドール家は先王の改革で大きな痛手を負った貴族の代表格なのだ」
先王フェリックスによる改革。数多くの政策が施行されたが――そのすべてに共通する骨子は、王とそのの直下に配された中央省庁の手により、各地方を厳格かつ強力に統制し、効率化を図るというものだ。志願制の軍の設立にしても、各地を治める貴族がそれぞれ独自に保有していた戦力を王直属の軍団として再編成し、効率的な運用を図るということが目的だ。
この改革によって、それまで地方によってばらばらだった様々な制度が中央の定める基準によって一本化されることになった。
しかし、これは国王と中央省庁の権限を増大させ、反面貴族の権限を縮小させることになる。時流に敏感な者は事業を興したり官僚に転身したりするなどして難を逃れたが、改革によって力を失った貴族は少なくない。ランドール家もまた、この改革によって大きな打撃を受けたのだという。
「失った利権の代わりを、麻薬密売に求めた、と」
「そういうことだ。まあ、現在ランドール家の財務状況は改善しているらしいので、動機としては少し弱い気もするがな。それに、もし本当にランドール公が関わっていたとしても、相手が相手だけに確たる物証を揃えねばこちらに勝ち目はない。まだまだ調査をする必要がある」
「仰るとおりです」
「グレンヴィルは此度の件に尽力してくれたゆえ、情報を明かしたが――これから先は、非常に危険な領域だ。一般市民であるそなたにこれ以上深入りさせるわけにはいかぬ。わかるな」
「はい。マクガヴァン殿も、くれぐれもお気を付けを」
マクガヴァンが部屋を辞したのち、マーシャは思わず唸った。
大きな力を持つ相手だとは考えていたものの、ランドール公爵ほどの権力者が黒幕とはマーシャは夢にも思わなかった。
(いやいや、まだランドール公爵が黒幕と決まったわけではないのだが)
しかし、それが本当ならば、事件解決には並々ならぬ困難が待ち受けることだろう。その明晰な頭脳と不撓不屈の精神をもって数多くの不正、汚職を暴いてきたマクガヴァンだが、今回ばかりは相手が大物過ぎる。
ともあれ――事態はもはや、マーシャの手を離れた。
「あとは、マクガヴァン殿と特務に任せるしかない、か……おや?」
マーシャは、何者かの気配が部屋に近づくのに気付いた。大股で力強いその足音は、イアンのものだろう。
「先生、いらっしゃいますか」
「おお、イアン。どうした?」
「所用がありまして……少し出かけて参ります」
「所用? またお父上の知り合いでも訪ねるのか?」
「いえ……そういうわけでは」
なぜか赤面し、歯切れが悪いイアンである。
「まあいい。毎度口煩いことを言うようだが、夜になる前には帰るのだぞ」
「はい、心得ております。では」
そう言って、桜蓮荘を出て行くイアンの姿を、マーシャは窓越しに見守る。
「む? あれはミネルヴァ様ではないか――なるほど、そういうことか」
イアンとミネルヴァは一言二言会話を交わすと、並んで歩き出した。
(まったく、イアンも隅に置けぬなぁ。しかし――なんだかんだで行き遅れてしまった私を、亡くなったと父上、母上が見たら何と思われるだろうか)
一人娘であったマーシャは、婿を取らぬままもう三十路近い。このままでは、武門としてのグレンヴィル家は断絶してしまうだろう。富や名声にはさほど拘泥せぬ両親ではあったものの、マーシャは今の自分の現状に引け目を感じるときもある。
(もしあのとき父上が亡くなっていなければ、私もあるいは――)
婿を貰い、子供の世話に手を焼く――そんな自分の姿を想像し、可笑しくなって噴き出してしまう。
一線を退くまでひたすら剣に生きてきたマーシャだ。下町に越してきたころのマーシャはまるで世間知らずであり、まともな社会生活が送れるようになるまでには随分と周りの人間の世話になったものだ。
そんなマーシャが家庭を持つ――これを笑わずにいられようか。
(今はただ、若者たちの行く末を見守るのみ)
今の自分の生き方を、マーシャはそれなりに楽しんでいる。
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