第六話

 マーシャとミネルヴァによる出稽古は続いた。

 まずミネルヴァに乱取りをさせ、ミネルヴァでは歯が立たぬ相手が出てきたとき初めてマーシャが出る。そうした流れはどこの道場でも変わらない。

 中には敵意むき出しでマーシャに向かってくる者もいたが、その全てをマーシャは返り討ちにしてみせた。

 ミネルヴァは、各道場の高弟と呼ばれる実力者に対しても怯むことなく挑み、時には一本を取ることもあった。長い剣から短い剣、槍や杖を相手にすることもあり、ミネルヴァにとっては貴重な経験となっただろう。

 それはさておき、そもそもマーシャがこの出稽古を始めたのは、通り魔事件解決のためである。

 道場を回る理由のひとつが、情報収集である。道場の中に怪しい剣士はいないか、戦うさまを自らの目で確認し、また剣士たちにそれとなく通り魔事件について聞いてみる。しかし、これまでのところ有力な情報は得られていない。

 そして、もうひとつ。こちらが本命なのだが――マーシャが道場を行脚することによって、王都レンの剣士たちはマーシャのことを噂するようになった。「かのマーシャ・グレンヴィルがうちの道場に来て、高弟の某を容易く打ち倒した」だとか、「実際に相対したが、まったくなにがなにやらわからぬまま敗れてしまった。マーシャ・グレンヴィルの実力は健在だ」などと。

 圧倒的過ぎるマーシャの剣技を体験した者ならば、これを話の種にしたくなるのが人の情だろう。

 これこそが、マーシャの真の狙いであった。

 犯人の手がかりがないのなら、向こうから喰らいつくのを待てばいい。例の犯人は、それと知られた実力者を殺して優越感に浸ることに愉悦を感じる狂人のように思える。ならば、いまひとたびこの王都でマーシャ・グレンヴィルの名を売って、犯人の興味を惹こう、そう考えたのである。

 ミネルヴァを伴ったのは、あくまで「弟子に経験を積ませるため」という体裁を整えるためである。かつて剣士としての名声を欲しいままにしたマーシャだけに、ひとりで道場を回って

「一手ご教授を」

 などと言っても不自然であるし、嫌味にも聞こえる。場合によっては道場破り扱いされてしまうだろう。まずミネルヴァに立ち合わせ、そのあと相手に請われる形で自分が出るならば、そうした誤解を受ける心配がない。


 出稽古が始まってからというもの、マーシャは稽古を終えてミネルヴァを見送ったのち、ひとり夜の王都をぶらつくという生活を続けていた。

 そして、十数日も経ったある晩のことだ。春にしては気温が高く、じっとりと湿った空気が立ち込めており、半袖でなければ汗ばむような夜であった。

 マーシャは、真黒の長い外套の下に先祖伝来の長剣を佩くという出で立ちである。傍目には非常に暑苦しそうだが、陶器のようなそのおもてには汗ひとつ滲んでいない。

 マーシャは、人通りの少ない場所を選び、ゆっくりとした足取りで歩く。三十手前とはいえ、女の一人歩きである。途中、がらの悪い男に絡まれることもあったが、そこはマーシャだけにいとも簡単にあしらう。

 どれほど歩いたことだろうか。マーシャは、通称旧貴族街と呼ばれる区域に差し掛かった。王城の移転に伴い、多くの貴族や富豪の邸宅も街の西部に集まったことは前に述べた。そして、それまで貴族や富豪の邸宅が集まっていたのが、この旧貴族街と呼ばれる区域なのだ。

 マーシャの自宅から旧王城区を挟んで反対側。川が近く、地盤が緩い。大雨が降れば水害に晒される危険性も高い――実際この旧貴族街では、床上まで浸水するほどの洪水に数度見まわれたという。普通、金持ちというものは街の中でもなるべく標高が高い区域に邸宅を構えようとするものだ。なぜこのような場所に貴族の邸宅が集まったのかといえば、旧王城に程近く、広い空き地がある土地がそこしかなかったからだ。

 レンは、統一王国成立よりはるか昔から商業都市として発展してきた街だ。レンが王都とされた当時、既にレンは大都市と呼べるだけの規模を誇っていたため、利便性を考えた場合選択肢は一つしかなかったのである。

 王城の移転から六十年余りが過ぎ、この区域もだいぶ再開発されたが、もともと素性のいい土地ではない。まだ打ち捨てられたままのかつての豪邸がそこかしこに残されている。


 さて、マーシャは先刻から、自分の後をつけて来るひたひたという足音に気がついていた。

(とうとうお出ましか……?)

 ここ最近撒き続けてきた餌に、ようやく魚が食いついてきたらしい。「あからさますぎる」マーシャの行動が、かえって犯人の警戒心を煽る結果にならないか、ということだけがマーシャの唯一の懸念だったが、それは要らぬ心配だったようだ。

(さて、どうするか)

 考えながらマーシャが歩く。やがて、一軒のうらぶれた邸宅がマーシャの視界に入った。おそらくは貴族の豪邸だったのだろうその邸宅は広い庭を持ち、朽ちかけてはいるものの高い外壁は健在である。浮浪者などの気配は感じなかった。

(これは、うってつけ……)

 と、ぽつぽつと雨が落ちてきた。ごろごろと遠雷が響く。空を仰ぐと、まるで雨宿りでもするかのようなさりげない動きで、マーシャはすっとその邸宅の門をくぐった。

 庭に回る。かつては一面芝生が敷かれていただろう草ぼうぼうの広場の中央に、傘も差さずにじっと立つ。人の手入れが入らなくなって久しいバラ園では、春咲きの薔薇が雨に打たれ、花びらがはらり、はらりと舞い落ちている。

 やがて、マーシャの背後に立つ気配。振り向きもせず、マーシャが声をかける。

「こんな雨の夜に薔薇見物とは、私以外に酔狂な人があったものだ」

 ひっひっひ、というかすれた笑い声が響く。

「ご冗談を。あなたが私を誘ったのではありませんか。マーシャ・グレンヴィル殿」

 そこで、初めてマーシャが振り向く。そこにいた男の姿を見て、マーシャの眉がぴくりと動いた。年の頃は二十台半ばか。ほっそりとした体躯に、端正な顔立ち。薄く嗤うその表情は、どことなく神経質なものを感じさせる。マーシャは、その顔に見覚えがあった。

「お前は……」

「くくっ。まさかあの酒場で会ったのが、かの『雲霞一断』マーシャ・グレンヴィルだったとは。いや、お目にかかれて恐悦の至り」

 と、大仰に一礼する。なんとその男は、クレイグが殺された晩に酒場で荒くれ男に絡まれていた青年であった。半袖のシャツに七分丈のスラックスというごくごく気楽な出で立ちで、防具のひとつもつけていない。

 態度や言葉遣いは慇懃であるが、男はそわそわと落ち着かなく、その声音・目つきには尋常ならざるものがある。マーシャの目は、その男に狂気が宿っているのをはっきりと見て取った。

「お前がダイアー殿を殺したのか」

「ダイ……? ああ、あの男ですね。ふふっ、敵わぬとわかっていながら見苦しくあがく姿は、まこと滑稽でしたね」

 そう言って、男は甲高い笑い声を上げた。

「なぜ、かような凶行に及んだ」

「なぜって……そりゃあ、楽しいからですよ。自らを強者と思い込んでいる愚か者を、この剣で切り刻むのは何よりの快楽です。あなたのような方になら、わかっていただけると思ったのですが」

 異常に高揚した男は、マーシャの質問にぺらぺらと答える。

 もはや言葉は要らぬ。

「もうよい。望みどおり、相手をしてやろう。名を名乗れ」

 マーシャが、すらりと長剣を引き抜く。

「死に行くあなたに語ったとて、意味のないことかと存じますが……」

 と、男も剣を抜いた。かなり細身の剣である。そしてその剣身とは不釣合いな分厚く大きな鍔と護拳が付いている。強烈な一撃をその細い剣身で受けるのは危険なため、鍔と護拳を防御に使うのだろう。

 礼儀として、一応名を聞いたまでのことだ。マーシャはもとより男の名に興味などない。斬って倒すだけだ。

 マーシャは手にした長剣を中段正面に構える。一方の男は、身体を半身に開き、前に出した右手で細剣を持つ。

 男がじりじりと間合いを詰めるが、マーシャは微動だにしない。

(どこからでもかかってくるがよい……)

 という意思表示であることは、男にもわかったであろう。

 稲光が空を疾走る。それを合図に、男が一気に踏み込んだ。上段から、斜めに斬り込む。

(速い。が、素直すぎる)

 あれほど自信に満ち溢れていた男にしては、あまりに芸のない一撃だ。違和感を覚えたマーシャは、あえて受けず後ろに跳んで斬撃をかわす。

 そして、その剣の秘密を垣間見た。刃が、異常にしなっているのだ。細剣というものは、多少はしなるものである。しかし、その男の剣のしなりは尋常でない。いかなる技法をもって造られたのか、まるで蔓草のようにぐにゃりとしなるのだ。

「ほう……? さすがと言うべきか。この初撃をかわしたのはあなたが初めてですよ」

 男がにやりと笑う。

 この剣、いわば切れ味の付いた鞭のようなものだ。安易に受けると、受けた剣を巻くようにして切っ先が襲い掛かるだろう。しかも、間合いが測りにくいという特性もある。

 続けて男は剣を振るう。マーシャは、左右、後ろに跳んでこれを避ける。

「どうしました? 避けるだけでは勝てませんよ」

 勢いづいて、男が更に二、三撃。マーシャはこれを避け、大きく跳んで間合いを取った。

 外套の肩と胸の辺り二箇所が、すっぱりと切れている。男の剣の切っ先が掠めたのだ。

 男の得物は、扱いを誤れば自身を傷つけてしまいかねない特殊なものだ。それを、自由自在に操るのだから、腕前のほうはかなりのものだ。

「かの名高いマーシャ・グレンヴィルも、この程度ですか。好物は最後まで取っておく性質たちゆえ、あなたを狙うのは後回しにしていましたが……そんなことをする必要もなかったようです」

 男が、ぐにゃりと歪んだ笑みを浮かべた。興奮はもはや頂点に達したようで、その目は完全に常人のものではなくなっている。

「やはり、剣士は人を斬ってこそですよ。人を斬ったこともない者が、剣士を名乗るほど滑稽なことなどありますまい」

 マーシャを圧倒して気分がいいのか、男は随分饒舌だ。剣を振るいながら、その弁舌は止まらない。マーシャの頬が薄く切れ、鮮血が雨に流され頬を染めた。男はいったん間合いを取ると、剣先に付いた血のりをぺろりと舐める。

「人ひとり斬るごとに、剣が冴えていくのを感じるのです。道場剣術のぬるま湯に漬かっているあなたたちには、わからない感覚でしょうな。死んでいった者たちには感謝を――いや、あの者たちも私の剣の血肉となることができたのだから、むしろ感謝してもらわなくては。くくっ、くはっ、くひひひひっ」

 自分の言葉が面白くてしょうがないというふうに、男は引きつけ・・・・のような笑い声を上げる。

 挑発めいた男の言葉をじっと黙って聞いていたマーシャだが、ここへ至って心の中でなにかが弾けた。この下劣な男に何人もの人々が殺されたのだと思うと、気持ちの抑えが利かなくなってしまう。

「もうよい。これ以上喚くな」

 怒気を含んだ、低く冷たい声で言い放つ。

「ほう。それではどうしてくれるのですかな」

 なおも余裕の表情を崩さない男に対し、

「調子に乗るな、小僧。今から本当の人斬りの剣というものを見せてやる」

 マーシャは外套を跳ね除けた。外套の下から現れたのは、漆黒の装束。上は長袖のチュニックだが、肩から下が太く作られており、袖口は広く開いている。下は足首まであるスラックスだが、これもかなり太めに作られている。黒づくめという点を除いては、伝統的な剣士の戦装束だ。

 ふたたび、マーシャが剣を構える。

 刹那、男の総身に寒気が奔った。先ほどと何ら変わらぬ構えのはずなのに、マーシャの雰囲気はがらりと変わっている。周囲の気温がぐっと下がった心地で、打ち付ける雨がまるで凍てついた雹のように感じられる。

 男の目には、マーシャの身体を黒い霧のようなものが取り囲んでいるように見えた。まるで、外套に隠されていた剣気が、一気に放出されたかのようである。

 マーシャがきっと男を睨む。ただそれだけで、男の身体は金縛りにあったように動かなくなる。雨に紛れた脂汗が、男の頬を伝って落ちる。

「どうした、来ぬか」

 ぞっとするような、冷たい声音でマーシャが言う。マーシャが一歩前進すると、圧されるように男が一歩後退する。

「くっ……、ふうっ……」

 先ほどまでの威勢は完全になくなり、息も絶え絶えな男の様子はまるで天敵に追い詰められた小動物のようだ。男は、まるで自分がのみしらみの如き矮小な存在であるかのように感じていた。

「はっ、ははっ……! なるほど、なるほど! これは面白い!」

 と、男は震える手で懐から小瓶を取り出すと、中の液体を一気に飲み干した。

 ぴく、ぴくっと男の身体が痙攣する。すると、男はとたんに落ち着きを取り戻した。ただ、目付きだけは前よりも鋭くなっている。

「くくっ、まさかあなたが私の同類だったとは。いったい、何人の血をその剣に吸わせたのです?」

 マーシャは答えない。

「いいですよ、実にいい! こういう相手を待っていたのだ!」

 男が攻勢に出た。大きく踏み込むと、一気にマーシャに突きかかる。先ほどまでよりも、更に鋭く疾い。

 二人の剣が閃き、交差する。

 マーシャの美しい黒髪が一筋はらりと落ちた。

 男が笑う。

(先程は驚かされたが、所詮はこの程度。自分の剣がまだ上回っている)

 そんなことを考えていた男の足元で、ぽとりとなにかが落ちる音がした。

「そら、大事なものが落ちたぞ。拾わなくてよいのか?」

 マーシャに言われて足元を見た男は、眼を見開いた。そこにあったのは、自らの右手の小指だったからだ。

 すれ違いざまにマーシャが放った斬撃が、男の小指のみを正確に狙い打ったのだ。

「き、きさまぁぁぁーーーッ!」

 男が吼え、いきり立ってマーシャに向かう。複雑な軌道を描く凄まじい速度の連撃を繰り出すも、マーシャにはかすりもしない。しかも、先ほどまでと違って、マーシャはほとんど立ち位置を変えずに、膝のばねと上体の動きのみでその攻撃を避けきってみせたのだ。

 男は、たまらず距離を取った。

「な、なぜだ! なぜ当たらん!」

 自らの繰り出す変則的な剣が、こうも容易く見切られたことに納得がいかぬ様子だ。

「ひとつ、教授してやる。お前の振るうその剣、手首の微妙な捻りによって軌道を制御しているのだろう。そして、手首の動きというのは全て前腕の筋肉に導かれる。つまり、お前の前腕に注意を向ければ、剣の軌跡など容易く読めるのだ」

「な、んだと……?」

 男が驚愕するのも無理はない。激しい戦いの中、そのような見切りができるなど到底信じられないのだ。

 この人間離れした眼力こそが、マーシャを最強たらしめた要因の一つである。技巧を極めた秘剣も、岩をも砕く剛剣も、事前に察知されては意味をなさない。

 ただし、相手の動きを予測できても、それに対応できるかどうかは別の話である。瞬時の判断力と対応力、そしてその眼力を充分に生かせるだけの剣技を身につけるには、血の滲むような修練が必要であったことを付け加えておく。

 先刻男の剣がマーシャに届いたのも、マーシャが様子見をしていたからに過ぎない。未知の流派、未知の技術わざに遭遇したとしても、マーシャにはその場で即時に相手をねじ伏せてのけるだけの対応力がある。彼女があえて様子見をしたのは、楽に相手を倒すという欲求よりも、未知の技術に対する好奇心が勝るからであった。

 仮に相手が卑劣な殺人鬼であろうとも、その技術を学び、自らの糧とする。この武術に対するどこまでも貪欲な姿勢が、マーシャを最強たらしめた要素のひとつなのだ。

「真剣勝負の場に、腕を曝した服装でやってくる時点で下の下」

 マーシャの装束――剣士の伝統装束の裾が太く作られているのも、足捌きや腕の挙動を敵に悟られにくくするための工夫なのである。

 今度はマーシャが打って出た。

 繰り出したのは、「ガルラ八式」その一である。

「ッ、こんな手垢の付いた技で――!」

 いまや基本とされ、対処法も確立されたこの技だけに、最初は男も余裕を持ってかわす。しかし、マーシャが一手進めるごとに男の動きに余裕がなくなっていき――一太刀、また一太刀と斬撃をその身に浴びる。

 確かにこの技は男が言うように手垢の付いたものだ。しかし、高い水準の速度、正確さで放たれたそれは、いまだ必殺の威力を持つ。

 「八式」すべてを繰り出したころには、男の身体に八箇所の傷ができていた。

 転げるようにして、ふたたび男が間合いを取った。辛うじて戦意は失っていないものの、すっかり腰が引けてしまっている。

「さて、稽古の時間はここまでだ」

 マーシャが一歩踏み出す。と思うと、次の瞬間マーシャが目の前にいた。男にはそう感じられたことだろう。無駄な予備動作の一切が排除され洗練の極みに達したその動きは、相手にまるでマーシャの身体が急加速したかのように錯覚させる。

 男が剣を構える間もなく、マーシャが男の左腕を斬りつけた。男の横を走り抜けると、くるりと反転して両足の膝裏あたりを切り払う。男が前のめりに崩れ落ちた。

「これまでだ。観念するがいい」

 男の鼻先に剣をつきつけ、マーシャが言い放つ。まるで感情がこもっていない冷たい声には、えも言われぬ凄みがある。

「ひいッ……!」

 とうとう、男の恐怖心が決壊した。

 四つんばいになりながらじたばたと手足を動かし、男がマーシャから遠ざかろうとするも、そこへマーシャの剣が二度襲い掛かる。背中を十字に裂かれ、男は仰け反ると仰向けに倒れた。

「ぐっ、た、助けて……命だけは……」

 男の顔は、雨と涙と鼻水とでぐしゃぐしゃだ。

「駄目だな」

「た、頼む! 警備部に出頭するから……ほら、剣もこの通り」

 と、男が剣の柄のほうをマーシャに向ける。

「…………」

「ま、マーシャ・グレンヴィルともあろう者が、無抵抗の者を斬ろうなんてことはしないよな……ッ!」

 瞬間、ひゅっ、という音とともに、マーシャの顔面に針のように尖った物体が迫った。柄の中に仕掛けられたばねによって打ち出された隠し武器である。

 しかし、完全な不意打ちに思われたその針を、マーシャは事もなさげにひょいと避けた。

「たわけ。先ほど教授してやっただろう。柄を握るお前の手の不自然な緊張、目つき……なにかを狙っていることなど、とうに気付いている」

「! ぎゃああぁぁーーーッ!」

 男の右眼に、細い投げナイフが突き刺さっている。マーシャが袖口に仕込んでおいたものだが、男にはそれがいつ投げられたのか全く認識できなかった。

「隠し武器とは、いかに相手に悟られることなく使うかが肝要。勉強になっただろう、坊や。さて――茶番はこのくらいにしておこう」

 マーシャの剣が一閃。男の右耳上半分が宙を舞う。

 男は必死で後ずさろうともがくが、それもままならない。マーシャの全身からどろりと粘りつく、夜の暗闇よりも更に暗い漆黒の気体が噴き出し、それが男の身体を絡め取って離さない。少なくとも、男にはそう感じられた。

 暗闇の中、マーシャの双眸のみが煌々と光る。

 そのマーシャの姿を見て、思わず男の口から発せられた言葉は、

「し……死神ッ……!」

「ふむ、確かに昔、その名で呼ばれたこともあったよな……さあ、死神のお迎えだ。観念いたせ」

 にやりとマーシャの口の端が上がった。一片の慈悲も篭らぬ、氷のごとき微笑だ。

 大きく長剣を振りかぶった。横薙ぎに男の首を刎ね斬る構えであることは一目瞭然である。

「…………!」

 男は、もはや口をきくことすら敵わぬ。そこへ、豪という凄まじい刃風を伴って、マーシャの神速の剣が襲い掛かる。

 「雲霞一断」。雲や霞をも両断すると評されたマーシャの剣の前では、この細身の男の首など子供に手折られる野の花よりも頼りない。

 ――しかし、血煙は上がらなかった。

 マーシャの剣は男の首筋の皮一枚を切り裂いたのみ。

 男は、あまりの恐怖に白目をむき、股の間を濡らして失神していた。

「なんとまあ、だらしのないことだ。少し脅しをかけただけでこの有様とは」

 そう言ったマーシャの言葉からは、先ほどまでの剣呑さが失せ、いつもの泰然とした雰囲気が戻っていた。

 懐中から包帯と縄を取り出すと、簡単に血止めをしたのち男を縛り上げる。

「さて、私のなすべきことはここまで。あとは、お上の裁きに任せるとしよう」

 このまま警備部に突き出せば、普通なら死罪は間違いない。

 しかし――マーシャは、この男の身なりや話しかたから身分の高い者特有の空気を感じていた。

(この一件……果たしてこれで終わるかどうか)

 犯罪者を捕縛する任を務める警備部は、制度上王国軍の一部門ということになっている。軍の上層部に影響力を持つ人間が、犯罪行為をもみ消すことは不可能ではない。近年は警備部の独立性が強まっており、そういった不正は難しくなっているとマーシャも聞き及んでいるが――それも、相手方の権力次第だ。

 しかし、小指や両足、眼球など、剣士として致命的な負傷を負わせている。なにより、これでもかというほどの恐怖を味あわせ、心を砕いてやった。男がまともな日常に戻ることは叶わぬだろう。

(しかし、気になるのは――)

 男が口にした、小瓶の液体。闇夜の中ゆえ、はっきりと見ることはできなかったのだが、

(あれは一種の麻薬のようなものではあるまいか)

 そう考えれば、男が異常に高揚していたことも納得がいく。深手をいくつも負わせたにもかかわらず、男がさほどにも痛がる様子を見せていなかったことも、今にして思えば不審であった。

 マーシャは男の懐中を漁ると、空の小瓶を取り出した。蓋を開けると、わずかに香る独特の甘い匂い。どこぞで嗅いだことのあるような気はするのだが、

「はて、どこで嗅いだものだったか……」

 さっぱり思い出せぬ。

 無論麻薬はご法度であり、もしこれが麻薬の類であるのならばこれは一大事である。たとえ男のことは罰せられずとも、この瓶の中身に関しては警備部が詳しく追及することだろう。

 と、男が小さくうめき声を上げた。いまだ意識は覚醒していないが、

「早いところ警備部に突き出さねばな」

 と、マーシャは男を担ぎ上げて歩き出した。

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