雪虫

谷風 雛香

雪虫

 『一寸の虫にも五分の魂』という諺がある。これは今の僕のことだ。

 秋が顔を覗かせ始めた頃、僕は一匹の虫になった。いや、正確には生まれ変わったと言うのが正しいだろう。背中からは透明な羽が生え、針金のように細い手足が米粒のような胴体から伸びている。

 僕が何故こんなことになってしまったのか。話は1週間前に遡る。

 その日、僕は会社での残業を終えて、駅のホームで帰りの電車を待っていた。二十一時を少し過ぎた頃だというのに、疲労で土気色になったサラリーマンや、これから街に出かけるのであろう派手な化粧をした女が、野に生える土筆のように並んで立っていた。

 ホームの反対側からは、近くの居酒屋から焼鳥の匂いが漂ってくる。後ろを振り向けば、サイリウムがチラチラと光るように、夜に覆われた街を車のライトが照らしている。その光の騒々しさに、聞こえるはずのない繁華街の騒めきが耳に届いた気がした。けれど、実際にホームにやってきたのは定刻通りに走ってきた電車だ。

 周囲にまばらに立っていた人達が、こちらに歩いてくる。最前列にいた僕は、足を踏み出して距離を詰めた。トンネルの奥に視線を向ければ、眩しい光が大きな音を立てて走ってくるのが見える。

 その時だった。背中を押された感覚がしたかと思えば、次の瞬間、僕の両足はホームから離れて体は宙を舞った。

 驚いて目を見開くと、先程まで立っていた場所に見知った顔があった。それは、会社の同期である倉橋だった。

 人を突き飛ばしたような姿勢で、こちらを睨んでいる眼は血走っており、正気ではないのが一目で分かる。


 ああ、僕は死ぬのか。


 走馬灯というのは経験したことがなかったが、おそらく今がそうなのだろう。眼前に迫った車両の模様を眺めながら、僕は呑気にそう思いつつ視界は闇に染まったのだった。

 何とも呆気ない最後だろう。この世には天国も地獄もなく、気がつけば新しい命を与えられるらしい。現に今の僕は、死に際の記憶を持ったまま、一匹の雪虫として走行中の車のフロントガラスに張り付いている。

 しかも、その運転者はあの倉橋である。

 天国はないけれど、神はどうやらいるらしい。せめてもの情けなのか、復讐の機会を与えられたようだった。


 「どうしたものかな」


 声にならない虫の声を出してみても、自体は何の進展も見せはしない。そもそも、僕には倉橋に恨まれる心当たりなど無いのだ。強いて言えば、上司から大きなプロジェクトのリーダーを任されたことぐらいだろうか。確か、その時にアイデアを盗んだとか何とか難癖を付けられた覚えがある。

 まさか、そんなことで。とも思ったが、世の中には色々な人間がいるのだ。あり得ない話ではない。

 車内を覗き込めば、涙で顔を腫らした倉橋が震える手でハンドルを握っている。その姿は今にも消えてしまいそうに見えた。ほんの少しのトラブルが起きれば、ハンドル操作を誤ってしまいそうだ。

 そう例えば、一匹の虫が車内に入り込んできて、目を突いてくるとか。


 「やれやれ、僕も頭がイカれてしまったかな」


 胡麻粒ほどの頭を振り、僕はそう呟く。死んでしまったのは悲しい。けれど、不思議と倉橋を恨む気持ちにはなれなかった。それは、僕が生きることに疲れていたというのもあるし、仕事に追われない場所で眠りたいと本心から願っていたというのもある。つまり、倉橋は僕にとって救世主であり加害者であった。

 車のスピードが段々と上がってくる。周囲を見渡せば、高速道路への車線に移動したことが分かった。時速数百キロの風圧に僕の体は耐えられはしないだろう。タイムリミットが迫っていた。


 「しょうがない。許してあげるよ」


 ぐんぐんとスピードを上げていく車は合流地点まできてしまった。風圧で僕の体はフロントガラスに押し付けられていく。細い足で踏ん張るけれど、殆ど意味がなかった。

 僕はいま、どんな顔をしているのだろう。もしかしたら、目の前の倉橋と同じ顔をしているのかもしれない。

 だって、僕はこんなにも悔しくて、悲しい気持ちになったことがなかった。

 とうとう、足に力が入らなくなる。僕の一寸にも満たない小さな体は、フロントガラスに押し花のようにくっ付いてしまった。

 高速道路の突風に押しつぶされた僕の視界は、再び闇に染まっていった。

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雪虫 谷風 雛香 @140410

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