第50話 キング・オブ・キャット
地下トウキヨの上空では、砂の龍と空の道の大暴れが続いていた。
どんよりとした灰色の雲が空を覆い尽くすように居座っている。
逆さま列車もなく、見物客もいない無人の駅は、心寂しい闇をまとっている。
スーニャンは凍ったプラットホームに登り、背中の羽根をはためかせて滑空した。
孤独な闇を切り裂いて飛翔するが、空飛び猫駅に手が届こうか、というところまで迫ると、神の見えざる手に阻まれてあっけなく墜落した。
飽くことなく挑戦し続けたが、幾度繰り返しても結果は同じだった。
「うーーー、なんで」
スーニャンはぎりりと歯噛みして、心底口惜しそうだ。
ポポロも空飛び猫駅を訪れ、絶対に越えられない壁の正体を見定めようとした。
駅自体は一見すると、なんの変哲もない。
よくよく探ってみると、なにか磁場のようなものがあるような気もするが、高度な妖術を操るわけでもない凡庸なポポロには判じかねた。
「うーーー、もういっかい!」
挑戦し続けるスーニャンを電柱の影から盗み見るアナベルの姿があった。
全身黒ずくめ、黒いサングラスに黒いマスク姿で闇に乗じているが、アナウサギの獣人に特徴的な立ち耳は隠しようがない。音のしない妖術フォンがスーニャンの飛空の様子を〈
「……あん、尊い」
「ぐげげげげげ。盗撮は犯罪だぎや、アナベル様」
「あたしは秘密の特訓を見守っているのよ。これは警備よ、警備!」
「ぐげげげげげ。運営さんがいらっしゃいました、アナベル様」
ポポロはにこやかにアナベルに近付き、小さく会釈した。
「こんばんは、アナベルさん」
「あ、あら。ごきげんよう」
「いつもスーニャンを見守っていただいてありがとうございます」
「そ、そうね。スーニャンちゃんの羽根の調子はどうかしら」
「おかげ様で調子はいいようです。あと一歩が届かなくて、口惜しそうですが」
当たり障りない会話をしてはいるが、アナベルはどうにも挙動不審だった。
町が寝静まると、スーニャンは夜な夜な飛空訓練に出掛けた。ほとんど見物客もおらず、無駄に騒がれもしない。夜行性のスーニャンが自主練習するにはうってつけだ。
しかし、どこから嗅ぎつけたのか、夜毎の訓練に決まってアナベルの姿があった。
きちんとした距離感を保っており、みだらにスーニャンに近寄ったりはしないので見逃していたが、隠し撮りまで許可した覚えはない。
「非公式の飛空なので、私的な撮影はやめていただきたいのですが」
「えと……、あの、スーニャンちゃんの羽根はあたしが与えたものでもあるわけで、これは我が子の成長を愛でるようなもので」
アナベルが弁解がましく並び立てているので、やんわり釘を刺しておくことにする。愛が重たいアナベルは、愛が高じると「ついつい盗撮」「ついつい監禁」してしまう、厄介な性癖を持っている。
「無断での撮影、および無断での監禁はやめてくださいね」
「はい。ごめんなさい」
アナベルは叱られた子供のように、しゅんとしてしまった。
「アナベルさん、ひとつお聞きしたいのですが」
「牛スジを餌に監禁しようなんて企んでません。ごめんなさい!」
土下座せんばかりの勢いでアナベルが平謝りした。
「いえ、聞きたいのはそういうことではなく」
「え? 違うの。もしかして
「いえ、違います」
アナベルは出入り禁止を命ぜられるのか、とハラハラしていたようだ。
「よかった。出禁じゃないのね。聞きたいことってなあに?」
アナベルはほっと胸を撫で下ろし、黒ずくめの変装を解いた。
「スーニャンはどうしてもあと一歩が届かないんです。物理的に届かないのではなく、なにか見えない力に拒絶されているような感じなんです」
「あー、それね。明らかに不自然よね。あたしも変だと思ってたの」
「どうすれば、あと一歩が届くでしょうか」
ポポロが真剣な眼差しを向けると、アナベルは不本意そうに頭を掻いた。
「なんとなく察しはついているんだけど、あたしの口から言いたくないな」
「どういうことです?」
「〈
「いろいろ言っていました。過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える、とか。いつか空の飛び方を知りたいと思っている者はまず立ち上がり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない、とか」
アナベルは腕組みし、ちっと舌打ちした。
「まーた、都合よく〈
「マヌはそんなに性格が曲がってますかね」
「違うわ。マヌじゃないわよ。マヌはただの傀儡」
ポポロにはアナベルが怒っている理由がよく分からなかった。
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ、とかなんとか意味分からないこと言われなかった?」
「いえ、それは初耳です」
アナベルはスーニャン駅を指差し、それから空飛び猫駅を指差した。
「スーニャンちゃんが飛び立つ駅が〈現在〉で、スーニャンちゃんが目指している隣の駅を〈未来〉とするでしょう。スーニャンちゃんが〈現在〉で、空飛び猫が〈未来〉と言い換えてもいい。それがどういう意味か分かる?」
いまいち意味が分からず、ポポロは首を横に振った。
「空飛び猫を覗くとき、空飛び猫もこちらを覗いているのよ。ちらちら覗いてるの。おう、若いの。〈
国家からの独立を宣言した猫の王たる空飛び猫――モシュ。
アナベルはモシュとは不仲であるらしく、散々に悪口を並べた。
「可愛いスーニャンちゃんがアレと親しくするなんて許せない。ぜえったい性格歪んじゃうもの!」
「……アレですか」
ポポロが苦笑いする。
「あんなのアレで十分よ! スーニャンちゃんをアレに会わせるのだけは断固反対!」
アナベルは名前を呼ぶことさえ汚らわしいのか、もはやアレ呼ばわりだった。
「スーニャンちゃんは素直なままでいてほしいの。アレに触れたら性格歪んじゃう! ダメ! ぜえったいダメ!」
「ぐげげげげげ。本音が漏れてるだぎや、アナベル様」
ホーラ・ガイストが暴走を諫めるが、アナベルはヒートアップしたままだ。
「うっさいわね!」
「ぐげげげげげ。法螺貝にも言論の自由があるだぎや」
ポポロの傍らに、いつの間にやらマヌが寝そべっていた。
「モシュがひねくれているのはいつも通りですよ、アナベルさん。空飛び猫に憧れる若い猫がいるなら、素直に空の飛び方を教えてあげればいいんですけどね」
マヌであって、マヌでないものが喋っていた。いつぞやの高慢さはなく、ちょっと呆れたような、だが深い慈愛にも満ちた声であった。
「そ、その声、ミ、ミリクちゃん?」
「はい、ミリクです。ぜんぶ聞こえてましたよ、アナベルさん」
マヌがそろりと動き、空飛び猫駅に近付いていく。
アナベルは急に慌てふためき、しゃなりしゃなりと歩き出した。
「ミミリクちゃん、違うの。これは悪口じゃなくて」
「いいんですよ、アナベルさん。喧嘩するほど仲がいい、と言いますから」
「仲は良くないもん。天敵よ、天敵!」
「僕は天敵とも仲良くできるアナベルさんが好きです」
「……きゃっ。す、す、好きだなんて、そんな。ミミリクちゃん、ここはあたしだけじゃなくて、運営さんもいるのよ」
アナベルは全身真っ赤になって照れまくり、乙女のように恥じらっている。
愛の重たいアナウサギの獣人を上手にあしらっているのは、空飛び猫の従者ミリクであるようだ。マヌでないマヌが空飛び猫駅を見上げた。
「ここは〈現在〉と〈未来〉の時の回廊が断絶しているんです。だから、〈未来〉に手が届かない」
「ミミリクちゃんが喋っているということは、そこにアレもいるのね」
「ご心配なく。近くにいますけど、寝てます。放っておかれると拗ねるくせに、待望されると勿体ぶるんです。モシュの出番はまだか。待ちくたびれたぞ、ってうずうずしているくせに、華々しい出番じゃないと嫌なんですよ」
「メンドくさっ! 超絶メンドくさっ!」
アナベルが憤りの声をあげる。
「モシュ王に謁見し、〈現在〉と〈未来〉の断絶を解いてもらえば、スーニャンは正式に空飛び猫になれるのでしょうか」
ポポロが訊ねると、マヌの身体を借りたミリクがさらりと言った。
「謁見の必要はないです。モシュもシト・トウキヨに遊びに行きたがってたんですよ。でも、いちおうは王ですから。『モシュは王ぞ。貴様ら
王という立場上、スーニャンだけを特別扱いすることもできないのだろう。
「モシュ王にご助力を賜るにはどうすればいいでしょうか」
「手紙を書くといいんじゃないかな」
「……手紙?」
不可思議な回答に、ポポロが首を捻った。
「文面はどのように?」
「そんなに真面目に考えなくていいですよ。前途ある若者のために一肌脱いでやろう、と思えるような大義名分さえあればなんでも構いません」
「はあ……」
いつしか空が白み始めていた。
「うー、げんかい。ポポ先生ぃ、おなかすいたぁ」
飛び疲れたスーニャンが戻ってきた。ごろごろと喉を鳴らし、甘えてきた。
「よく頑張ったね、スーニャン。えらい、えらい」
「えへへ」
スーニャンの頭を撫でてやると、目をとろんとさせ、尻尾をぴこぴこ振った。
「スーニャン、空飛び猫の王様にお手紙を書こう」
「……おてがみ?」
スーニャンは目をきょとんとさせた。
「そう。心のこもったお手紙を書くんだ」
スーニャンは喜々として空を飛びたがったが、手紙を書くのは嫌がった。
「うー、じをかくの、ニガテ……」
砂穴に引っ込んでしまったスーニャンがようやく手紙を書き上げて持ってきた。
お世辞にも上手とは言えない字だが、文面はポポロが手を加える必要がなかった。
思わず含み笑いをしてしまうほど、可愛らしい手紙だった。
もしゅおうさまへ
すーにゃんはすなねこです
さばくにすんでました
にんげんのたわーまんしょんが
いやで
いやで
そらをとびました
すーにゃんはそらとびねこになりたいです
まだなれてません
どうしたらなれますか
すーにゃん
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