第49話 準備が足りない

 マヌの「ひたすら進め」という激励に刺激されたのか、スーニャンが急に目覚めた。


 ついさっきまで、うとうとと微睡んでいたのが嘘のように猛ダッシュし、ポポロとマヌを置き去りにした。


「ちょっ……、待ちなさい! スーニャン!」


 ポポロが声を張り上げるが、スーニャンは聞く耳を持たない。


「スーはまけない! スーはとぶ!」


 アナベルの住処である〈妖術師の巣穴〉で、スーニャンそっくりの砂の猫を打倒したときの勢いを彷彿とさせた。歴史的な大雪に加え、遥か上空では砂の龍と空の道が争い合っているなかで、〈スナネコ飛空挑戦〉を行うには場所の状態コンディションが悪過ぎる。


 ポポロの言いつけを守り、スーニャンは飛空を我慢していたが、さすがに限界に近かったようだ。脇目も振らず、逆さま列車のプラットホーム目指してまっしぐらだ。


 飛びたくてうずうずしていたスーニャンはもう止まりそうにない。


 スーニャンの闘志に火を点けてしまったマヌは、しれっとどこ吹く風。


 マヌルネコという名前であるが、滑らかにヌルヌル動かず、中になにか別のものが入っているかのようにカクカク動いた。歩き方があまりにぎこちなく、マヌであってマヌではない異物に憑依され、身体を乗っ取られているかのようだ。


 だいたいからしてマヌは言いたいことを言うだけ言って、謎らしい謎をばら撒き、すうっと霧に紛れて姿を消すのがお決まりのパターンだ。それなのに、今日に限っていつまでもポポロの傍を離れずにいる。それもまたおかしなことだ。


「……マヌ、だいじょうぶ?」


 マヌの皮を被った得体の知れない物体に話しかける。


 マヌはつん、と押し黙ったまま、ぎこちなくカクカク動いた。


 はじめて地上に降り立った異星人が「歩く」という行為を試してみると、こんな風にぎくしゃくした動きになるのかもしれない。そのぐらい動作が洗練されていない。


「マヌ、お医者さんを呼ぼうか?」


 シト・トウキヨに行けば、動物病院なるものがある。


 地下トウキヨにも数は少ないが、医者はいる。


 だが、カクカク動く奇病を治せる医者がいるかどうかは定かではない。


 ポポロがあたふたしていると、マヌが勿体ぶった口調で言った。


「いつか空の飛び方を知りたいと思っている者はまず立ち上がり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。その過程を飛ばして、飛ぶことはできないのだ」


 カクカクとぎこちなく歩くマヌが言うと、やけに説得力があった。


「じゃあ、これから走って、登って、踊るの?」


 ポポロが素直に聞き返す。


「ふん。誰に向かって口を聞いている」


 マヌは小馬鹿にしたように鼻で笑った。


 皮肉シニカルな物言いは、明らかにマヌのものではなかった。


「よもや忘れたか?」


「あ、え、いえ……」


 マヌの身体を借りた声の主はいやに高圧的だった。


 ポポロはしどろもどろになり、押されっぱなし。


 知的な格言で煙に巻くマヌとは違い、この声はとにかく偉そうだ。


「師がこれでは先が思いやられるな。貴様の弟子はいつまで経っても空は飛べまい」


 押されっぱなしのポポロであったが、スーニャンのこととなれば話は別だ。血相を変えて言い返した。


「スーニャンは羽根も生えました! もうすぐ飛べるはずです!」


「ふん。羽根が馴染んでおらぬではないか。自在に動かぬ羽根など、ただの飾りぞ。いったい、いつになったら気付くのだ? 空を飛ぶ前にやることがあるだろう」


 こてんぱんに言い負かされて、ポポロはぐうの音も出なかった。


「準備が足りない、ということでしょうか」


「左様」


「教えてください。空を飛ぶ前にやることとはなんですか」


「ふん。誰に向かって口を聞いている」


 会話は堂々巡りとなり、カクカク動いていたマヌがぴたりと静止した。


 マヌは霧に覆われ、だんだん輪郭がぼやけていく。


「あっ、待って。待ってください!」


 ポポロが必死に縋ると、高圧的だった物言いが一転して柔らかくなった。


「いつか空の飛び方を知りたいと思っている者はまず立ち上がり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。その過程を飛ばして、飛ぶことはできないのだ」


 マヌは溶けるように消え失せた。


 最後に託された言葉も、先の内容をそっくりなぞったものだった。

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