第20話 モシュは悲しい

 モシュと一緒ではない〈外郎道ウイロード〉は、その雰囲気を一変させていた。


 床や壁を構成するういろうにもっちりした柔らかさはなく、他を寄せ付けない硬質さに満ちている。洞窟を照らすのは濃緑色の光ではなく、猫頭鷹フクロウの死霊アウラ・ガイストを彷彿とさせる禍々しい赤色だった。血のような赤はじわじわと濁り、やがて鈍色に変わった。


 どことなく神秘的であった緑色が凶色に変じているせいで、以前訪れた〈外郎道〉と同じ場所であるとは思えない。モシュの不在がよけいにそう感じさせるのか、似て非なる異世界に迷い込んでしまったような感覚を覚える。


 洞窟を照らす光がモシュの目の光と同じであったなら、少しは不安感も紛れただろうか、などと考えて、ミリクはどうしようもなく感傷的な気分に陥った。


 モシュの目は闇夜に浮かぶ月のような黄金色で、全てを見透かしたような叡智を湛えている。目の色はいつも同じではなく、暗がりでは黒目がちになってきらりと光を反射させ、ストーブの脇に寝そべっているときは穏やかな橙色に染まる。


 アガリコの森に潜伏し、〈侵入者〉を見張るアウラ・ガイストさながらの禍々しい光は、ミリクの不安をちっとも和らげてはくれず、よりいっそう増幅させた。


 アウラは、アナウサギの獣人アナベルがモシュと形ばかりの和解を終えてから仕えるようになった新顔の死霊だ。アナウサギにとって猫は天敵で、猫を蛇蝎のごとくに嫌ってきたアナベルがすぐさま猫を受け入れられたわけではない。


 アナベルもモシュもどちらも自尊心が高いから、無意味に媚びないし、おいそれとは歩み寄らない。ミリクが仲良くしようよ、と言っても反目し合うばかり。


 それでもアナベルはアナベルなりに猫という存在を受け入れようとしてくれた。


 全面的に猫を受け入れられはしないけれど、手始めに猫の頭をもつ猫頭鷹フクロウの死霊を受け入れて、なんとかかんとか猫に慣れようとした。法螺貝の死霊ホーラ・ガイストのようには側に置いていない所に、アナベルの猫への順応度が見え隠れしている。


 外郎道を照らす灯りがアウラ・ガイストの目に似ていることには、いったいどんな意味があるのだろうか。アナベルにとってアウラはモシュに慣れ親しむための布石だ。余計なことは喋らず、いわんや毒舌でもないアウラがモシュの代わりとなった。


「アウラがモシュの代わりになるわけないのに」


 ミリクはモシュのいない〈外郎道〉をとぼとぼ歩いた。モシュの死期が近いかも、と看過したのは他でもないアナベルだ。間もなくモシュが亡くなるであることを見越して、ミリクにモシュ代わりの猫を用意してくれたのだろうか。だとしたら、無用な親切だ。


 アナベルの厚意を勘繰りたくはないけれど、モシュに嫉妬する、という類の発言を耳にしたことがある。ひょっとして、こうは考えられないだろうか。


 マザラもシャア・アカシャザ・ビエルも、見知らぬ猫にういろうをもらった、と言った。村のみんなに忘却のういろうをばら撒いたのはモシュではなくアウラだったのではないか。


 なぜそんな真似をするかといえば、モシュの存在を皆から忘却させ、ミリクの心に占めるモシュの割合を奪い、ぽっかりと生じた心の空白をアナベルが占めるようにするため。


 悪名高い妖術師であるならば、やろうと思えばそれぐらいのことは出来そうだ。


「まさか、そんなはずないか」


 ミリクが自嘲気味に笑った。どうしてもモシュが消えてしまった理由を認めたくなくて、ついつい嫌なことばかり考えてしまう。モシュに死が迫っている、と認めるぐらいならば、アナベルにこっぴどく騙される方が数段マシだ。そんなのは笑い話だから。


 ひとしきりアナベルを疑うと、ミリクの猜疑心はミリク自身に牙を向けた。モシュを追いかけて外郎道まで乗り込んできたけれど、ミリクは入り口をこじ開けるため、妖術を唱えた。〈開封カイ〉と唱えると、すんなりと外郎道の内部へと入ることができた。


 なんだ、あんがい妖術って誰でも使えるんじゃん、と思ったまでが花だ。


 あれほど妖術には手を出すな、とモシュに止められていたのに、ミリクは禁を破った。


 ほんとうにモシュに死期が迫っていて、ひっそりと誰にも知られずに亡くなるのだとしたら、モシュの死に場所はきっと外郎道だ、という確信めいた予感があった。


 だから後先考えずに妖術を唱えた。唱えてみたら、あっさりと外郎道に入れた。モシュを追いかけるために仕方がなかったとはいえ、ミリクが禁を犯したことには違いない。


 何があろうと、たとえモシュの死期が近かろうとも妖術を使わぬままでいられるか。それこそがモシュの課した真の試練であったとすれば、ミリクははっきりと落第した。


 洞窟を照らしていた鈍色の灯りが再び血のような赤へと変じた。


 あれほど忠告していたのに妖術を行使したな。


 貴様が忠告を守らなかったせいで、モシュが死んだのだ。


 一生、悔やむといい。


 無言のうちにそう責め立てられている気がして、ミリクは思わず頭を掻きむしった。


「そんなの、使うに決まってるじゃん」


 ミリクが嗚咽を漏らした。歩いても歩いても、ちっとも前に進んでいる気がしない。後悔ばかりが先に立つ。悲しみが川となって、すべてを洗い流してくれたらばいいのに。


 血塗られた赤。喪に服する鈍色。


 ミリクが歩く衣擦れの音以外、物音ひとつない静寂。忘却されし猫の葬列を組もうにも、喪主であるミリクただ一人しかいない。お別れの言葉をかけてやるいとますらなかった不義理に免じて、〈母の木〉たるアガリコもモシュの最期を悼んでくれているのかもしれない。


 どうしようもない寒々しさに晒されるうち、ミリクはふと思った。


 アガリコは巨大な墓なのだ。

 死にゆく魂の拠り所。

 母の胎内に抱かれて眠るかのような安息が訪れる終の棲家。


喪主モシュは悲しい……」


 いつだったかモシュが漏らした言葉を繰り返してみる。言葉は同じでも、まるっきり違う意味に変質していた。どうでもいいことほど覚えておけ、とのたまったモシュは、いったいどんなつもりであのような感慨をミリクに託したのだろう。


 モシュは悲しい。

 モシュは悲しい。

 モシュは悲しい。


 頭の中で何度も何度も繰り返していると、悲しみの川が氾濫しそうになる。そういえば、とミリクは思い出した。どうでもよさを装ったモシュの魂をういろうに刻みつけ、外郎道に封印したのだった。石碑ならぬ、外郎碑となったモシュの言葉――モシュ録。


 モシュ録⑥:【モシュは悲しい】


 不思議と、モシュ録に振った番号まではっきりと覚えている。

 忘れようたって、忘れさせてくれない。


 あれほど妖術には手を出すな、と止められていたのに、その禁を破ったミリクは第一級の人でなし。忘却は人間に与えられた恩寵であるならば、人の道を踏み外したミリクに恩寵が与えられるはずもない。


 いいさ、せいぜい覚えておいてやる。


 誰が忘れようとも、決してミリクだけはモシュのことを忘れない。


 悲しみの川で溺れかけていたミリクは思い切り屈み込む。バネ足を軋らせ、ありったけの全力で飛び上がり、まとわりついてくる悲しみを討ち祓う。


 狭い洞窟で思い切り跳ね上がったものだから、天井に頭をしたたかにぶつけた。


「痛っ、てえーーー」


 目から火花が飛び散りそうなほどの激烈な痛みがミリクの全身を貫いた。でも、終わりのない悲しみに暮れるより、一瞬で立ち去ってくれる痛みの方がぜんぜんマシだ。


 ああ、そういえば……。


 モシュ録⑥がお気に召さなかったモシュに外郎碑を顔面に投げつけられたのだったな。


「ふん。思い知ったか」


 外郎碑を投げつけてきたモシュの勝ち誇った顔は、今思い返しても憎たらしい。


 モシュにやられっぱなしでは気が済まない。ここはひとつ、モシュをぎゃふんと言わせてやらなければ、ミリクの沽券に関わる。


「そうだ、モシュ録をぜんぶ掘り返してやろう」


 外郎道に封印されたモシュ録、そのすべてを掘り返してやる。


 厳重に封じられた密閉を解くには妖術が必要だが、あいにく禁を犯したミリクにはもう怖いものなどなかった。大股でのしのしと歩き出す。


「毒食らわば皿まで。覚悟しろよ、モシュ」

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