第16話 避けられる理由
「……モシュ!」
がばっ、とミリクが跳ね起きた。きょろきょろと周りを見渡すと、心配そうなアナベルの顔があった。法螺貝の死霊もオジュマコジュマもいる。シャア・アカシャザ・ビエルもいる。マザラの姿もあった。なのに、モシュだけがいなかった。どこを探してもいない。
「モシュはどこ?」
ミリクが落胆の声を漏らした。身体の芯が冷え切ってしまったように冷たい。
「モシュが冷たいのはどうして。ねえ、モシュはどこ?」
ミリクは幼い子供のように泣きじゃくった。
「体調はどうだ。もう少し眠るといい」
マザラにぽんと頭を撫でられた。ミリクが急に意識を失ってぶっ倒れ、演奏は騒然とした空気となって幕を閉じた。ミリクはほとんど呼吸をしておらず、そのまま〈妖術師の巣穴〉に担ぎ込まれたらしい。ミリクが寝かされていたのは来客用の寝室だった。
「よお、兄弟。食べないと身体が持たんぜ。俺の分身を食え」
妖術師のシャア・アカシャザ・ビエルはぐっと身体を丸め、うむむ、と唸った。長いひげがぴくぴくと動く。シャアが二重、三重に分裂し、シャアそっくりの分身が生まれた。
シャアの妖術は分身のすり身を生みだすこと。すり身は〈
「さあ、食え。遠慮するな」
シャアの心遣いは嬉しいけれど、食欲はまったくなかった。
「ありがとう。後で食べるね」
ミリクは弱々しい笑みを浮かべた。せっかくの厚意を無下にされたと思ったのか、シャアは露骨に不満げだったけれど、強面のマザラがひと睨みすると、すごすごと退散した。
「モシュは何が気に食わないんだろう」
ミリクは物憂げに嘆息する。気に食わないことがあると、ふらっと姿を消すのがモシュの習い性だけど、ミリクにだけはモシュの不満の種がなんであるのか自然と察せられた。
大抵は他愛のないことだ。マザラの小言が長いとか。天井裏に蜘蛛が巣食っているとか。ストーブ前のお気に入りの場所を取られたとか。マザラに薪集めを命じられたけど、寒くて外に出たくないとか。
でも近頃のモシュは明らかにミリクを避けている。話しかけても、ちっとも口をきかない。もともと四六時中ミリクにべったりくっ付いているわけではないけれど、それにしたって、ぜんぜん寄り付かない。こんなことは今までなかった。
モシュは月だ。太陽に見捨てられた町で、ミリクは月に見捨てられた。
「そんな悲しい顔をしないで。ミミリクちゃんに元気がないと私も悲しい」
アナウサギの獣人アナベルがくすん、とすすり泣いた。
「マザラは気にならない? モシュ、この頃変だよ」ミリクが縋るように言った。
「いつもと変わらんよ。むしろ変わったのはミリクの方ではないのか」
「……僕?」
「まあ、どこがどう変わったとは言わんがな」
マザラは歯切れの悪い言葉を残して、のしのしと立ち去っていった。
〈妖術師の巣穴〉はアナウサギが隠れ住むための目的で掘られた迷路だ。天敵から身を隠す必要がなくなって、広々とした来客用の部屋も設けられたが、それはアナウサギ基準で広々としているだけであって、ミリクにはずいぶん狭くて天井も低く感じる。
ミリクでさえ狭いと感じるのだから、マザラのような巨漢には息苦しくてかなわないだろう。あまり長居することはない。
「アナベルさん、僕はどこか変わりましたか?」
「身長がすごく伸びたじゃない。とっても凛々しくなったわ」
出会った当初、ミリクは立ち耳を除いたアナベルと同じぐらいの背丈だったが、あれからミリクの背がぐんぐん伸びた。
成長痛というやつなのか、背骨がぎしぎし軋んだ。上半身ばかりが縦に伸びたが、下半身はマザラが拵えてくれたバネ足なので、こちらは自然には成長しない。
背が伸びるたびマザラが微調整してくれたけれど、あまりに急激に背が伸びるので、成長が緩やかになるまで待って、それからバネ足を調整することになった。
伸び続ける上半身と不変の下半身。
仕方のないことではあるけれど、上半身と下半身のバランスがすこぶる悪い。歩き方もどこかぎこちない気がするし、以前はどんなにびょんびょん飛び跳ねても恐怖心などこれっぽっちも感じなかったけれど、今はちょっと不安になるときがある。
ひょっとして、モシュの目には成長途中の不格好なミリクが別人に見えるのだろうか。
モシュの高潔な美意識が不格好なミリクを遠ざけているのだろうかなどと考えもしたが、はてな、モシュにそんな美意識があったとも思えない。何日も洗っていない薄汚れた防寒具もへっちゃらだし、〈妖術師の巣穴〉で砂まみれになるのも平気だし、いつ作られたのか、賞味期限不明のういろうだって躊躇うことなく口にする。
問題はおそらくミリクの外見ではない。
変わったのは、きっとミリクの内面だ。
「僕、中身は変わっていないですか。たんに身長が伸びただけですか」
「どうしたの、ミミリクちゃん。ちょっと変よ」
おでことおでこがくっ付きそうなほど、ぐいっと近付いて、あまりにも勢い込んで話したため、ちょっと脅えられた。アナベルの顔は真っ赤に上気しており、両手で必死に顔を隠すようにしている。そんなに怖がらせてしまったのかなと思い、ミリクは内心反省した。
「ごめんなさい、アナベルさん。脅かすつもりはなかったです」
「……え、あ、うん。へーき。急だったからびっくりしちゃっただけ」
アナベルは暑いのか、しきりに手をパタパタと扇いで首筋に冷気を送っている。しっし、とアナベルが追い払う仕草をする。法螺貝の死霊が何か言いたげに「ぐげげげげげ」とだけ言い残して、ざらりと掻き消えた。オジュマコジュマは巣穴の探検に出掛けた。
「やっと二人きりね、ミミリクちゃん」
アナベルの妖術によって寝室の砂の扉がぴたりと閉じられる。通路と繋がっていてさえも息苦しさを覚えるのだから、二人だけで閉じこもるとよけいに気詰まりだった。駄目だ、酸欠になったみたいに空気が足りない。
「ミミリクちゃん、ぎゅーーーーして」
アナベルは二人きりになったときだけ子供っぽく甘えてくる。甘ったるい匂いがミリクの鼻をくすぐる。柔らかな抱き心地はどことなくモシュに似ていなくもないけれど、やはりどうしたって同じであるはずがない。モシュはモシュだ。誰にも代えはきかない。
「ミミリクちゃん、やっぱり変よ。んー、お熱はなさそうね」
ためらいがちのアナベルの手がミリクの額にそっと触れる。熱などない。身体はすっかり冷めきっていて、アナベルと抱き合ってもぽかぽかと暖かくならない。きっと身体の芯が凍えてしまっているからだろう。
太陽に見捨てられた町で、月にも見捨てられてしまったから。
猫の目をした月が翳れば、途端に世界は黒一色に没してしまう。
「どうしたの、ミミリクちゃん。考えごと?」
首筋にまとわりついてくるのが猫ではない。どうしてなんだろう。ミリクはあまり深く考え込む性質ではないけれど、モシュに避けられていることを考えずにはいられなかった。
「心当たりはあるんです」
誰に言うでもなく、ミリクがぼそりと呟いた。
「えっ、なに。ミミリクちゃん、なんの心当たり?」
「モシュがぜんぜん近寄ってこなくなったことの」
心当たりならばある。ミリクが「妖術を覚えてみたい」と口にしたあたりから、モシュが口をきいてくれなくなった。自分の首を切り落とす前に妖術を覚えられるといいな、なんて憎まれ口まで叩かれた。
モシュはよほど妖術を習わせたくないのだろう。ミリクにもそれが分かるから、あれっきり妖術を覚えてみたいなどと口を滑らしたことはない。
「それ、悩むこと?」
アナベルがなんとも言えない表情をした。哀れんでいるような、呆れているような。ともかく、どう声をかけていいのか迷っている。
「どうしていいのか分からないので、いっしょに悩んでくれたら嬉しいです」
「ミミリクちゃんの頼みなら仕方ないわ。でも嫉妬するわね。私が寄って来なくなっても、べつにミミリクちゃんは悩んだりしないでしょう」
アナベルがいじけたように言った。
「モシュとは兄弟のように育ったし、いつも頭の上に乗っていたり、肩に乗っていたので、身体の一部みたいなものなんです。それが急に寄ってこなくなったので」
しょんぼりしたミリクの気持ちが伝染したのか、アナベルも途方に暮れている。
「モシュ、演奏も聞きに来てくれないし、何かが気に食わないんです」
「そういえばそうね。でも〈
ミリクがきょとんと目を丸くする。
「どういうことですか?」
「ほら、アナウサギは猫の好物じゃない。でも、お偉い猫さまは妖術師との因縁があるから、アナウサギを保護すると誓った。けど好物であるには違いない。好物が目の前をうろちょろしていれば、どうしたって食べたくなる。食べたい。でも食べたら誓いを破ることになる。葛藤の連続ね。だから演奏も聞きに来ないし、巣穴にも近付かないんじゃないかしら」
一理ある。アナウサギは天敵の脅威が遠ざかってのびのび暮らしているけれど、モシュだけが禁欲を強いられている。
「好物にありつけないストレスが原因なら、僕が避けられる理由がなくないですか」
「ミミリクちゃん、私と抱き合っているじゃない。アナウサギの匂いが移って、それを嫌っているのかも。ほら、猫って移り香に敏感でしょう」
アナベルがもじもじしながら言いにくそうに言った。ミリクはくんくん自分の匂いを嗅いでみる。嗅いではみたものの移り香があるのかどうか、よく分からない。
「ぜんぜん気になりませんけど」
「気になるって言われたら私、泣く」
アナベルに恨めしい目で見られた。泣きたいのはこっちです、とミリクは思った。
「ミミリクちゃん、もしかして私と距離を置こうかな、なんて思った? やだやだやだ! ミミリクちゃんはみんなの太陽なの! ミミリクちゃんが会いに来てくれなくなったら、寂しくて死んじゃう!」
アナベルがおいおいと泣きじゃくった。
「僕がアナベルさんと仲良くしてるから、モシュが寄って来ないってことですか。さすがにそれはないと思います。いくらモシュだって、そんなに心が狭くないです」
ミリクは弁護してみたものの、モシュはけっこうに心が狭い。嫌なものは嫌だ。けど何が嫌なのかはいちいち言わない。嫌なものが何なのか、言わねば分からないものも嫌なのだ。
「モシュが嫌がっているのは、僕が妖術を覚えたいと言ったことなんだと思います」
「どうしてそんなに妖術を毛嫌いするかな。妖術の一つや二つ、自衛のために覚えていいと私は思うけど」
アナベルは理解できない、と言わんばかりに肩をすくめた。
「自衛のため? 何から身を守るんですか」
「そりゃあ。いろいろよ、いろいろ。天敵とか、天災とか」
「天災はともかく、僕の天敵ってなんでしょう」
「なにかしら。少なくともこの村にミミリクちゃんを嫌いなやつはいない。もしいたら私がぶっ潰す!」
アナベルは握った拳を反対の手で包み込み、べきっ、ばきっ、と鳴らした。威嚇にしては本気であるように思えて、ミリクはちょっと身を引いた。
「あのね、ミミリクちゃん。すっごく言いづらいことなんだけど……」
青筋を浮かべて怒っていたのが一転し、やけにしおらしい調子で言った。
「なんですか?」
「猫って死期が近くなると姿を消すって言うじゃない。もしかして、そういうことだったりするんじゃないかしら」
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