第17話 健忘術数

 死期を悟った猫は、飼い主の前から姿を隠す。


 世の中にはそんな通説があるそうだが、モシュに死の予兆などあっただろうか。


「猫の寿命は十五年から二十年ぐらい。それは人に飼われている猫の寿命であって、野生の猫の寿命はもっと短い。ミミリクちゃんにとっての十五年はやっと少年期が終わるぐらいのものだけど、猫は違う。残念だけど、残された時間は多くない」


 アナベルから人間と猫の寿命の違いを聞かされ、ミリクは居ても立ってもいられず、一目散に駆け出した。迷路のような〈妖術師の巣穴〉には無数の部屋があり、狭い通路は複雑に分岐し、所々が行き止まりで、アガリコの森に繋がる出入り口は四十、いや、五十はある。


 モシュがいるはずの我が家を目指して脱兎のごとく走るが、気ばかりが急いて、まったく地上に出られない。走っては行き止まりにぶち当たる。曲がりくねった道を曲がり切れず、砂の壁にめり込んで、もがきにもがいてようやく砂の牢獄から抜け出せる。こうしているうちにモシュの寿命が刻々と失われていくと思うと、ミリクは気が狂いそうになった。


「モシュ! モシュ! モシュ!」


 やっとこさ巣穴を抜け出し、アガリコの森に出た。神聖な木々はしんと静まり返り、風もなく、木の葉がさわさわと揺れることもない。まるで時間が凍りついてしまったかのようだ。かつて経験したことのない異様なほどの静けさに、ミリクはごくりと唾を飲み込んだ。


 もしかして、〈母の木〉であるアガリコが〈真の大樹魔シン・オジュマ〉であるモシュの死を悼んでいるのだろうか。モシュは空飛び猫であると同時に〈母の木〉を守護する木の精でもあるから。


 ミリクが足元も見ずに全速力で走っていると、アガリコの木の根に蹴躓いた。受け身を取る余裕さえなく、頭から地面に突っ込んだ。深い雪に覆われていた季節ならば傷ひとつなかっただろうが、雪解けした季節ではそうもいかない。きっと鏡を見たら、顔中痣だらけで、ひどいミミズ腫れになっているだろう。痛さよりも情けなさで、自然と涙が出た。


 ミリクはよろよろと立ち上がる。ごしごし涙を拭いて、また走り出した。擦り切れた顔はずきずき痛むけれど、情けない涙を拭くと、少しだけ晴れやかな気持ちになった。


 ふつうの猫の寿命が十五年かそこらだとしても、それがどうした。モシュはそんじょそこらの猫ではない。なんてたって空飛び猫なのだ。〈妖術師〉ではないにしても、ある意味では妖術師のようなもので、その上〈真の大樹魔〉である偉大な猫だ。


 寿命なんてくだらないものは、背中に生えた羽根で軽々と飛び越えていくだろう。


 モシュが死ぬ? なんの冗談だ。モシュは二百年ぐらい生きて、いいや、二千年ぐらいも平気で生きて、ほとんど〈母の木〉と同化するまで生きて、寿命の方がひれ伏すのだ。


 二千年も生きていたら、きっと退屈だろう。寿命の方が先に音を上げて「モシュ様、そろそろお亡くなりになりませんか」とお伺いを立てるけれど、どうせいつものようにモシュは知らんぷりだ。


 そうしてモシュは寿命を超越して、好き勝手に生きたいだけ生きればいい。


 でも、勝手に死ぬな。勝手に死ぬなんて許さない。


 ミリクが脇目も振らずに走っていると、アカシャエビの魚人シャア・アカシャザ・ビエルとすれ違った。ミリクは無視して走り去ろうとしたが、シャアがしつこく追いかけてきた。


「よお、兄弟ブラザー。そんなに急いでどうしたよ。体調はもういいのか」


 ぴょこぴょこ飛び跳ねて並走してくるシャアが煩わしい。「うるさい、寄るな!」と怒鳴りつけて追い払おうかと思ったが、シャアが片手に持っているものにミリクの視線が吸い寄せられた。


「それ、どうしたの?」


 シャア・アカシャザ・ビエルが持っていたのは、齧りかけの外郎ういろうだった。


「ん? ああ、これか。猫にもらった」

「……猫?」

「背中に羽根が生えててな。気前良く空からういろうをばら撒いてた」


 ミリクはざわりと胸騒ぎがした。アガリコの森に住まう者なら、みんなモシュのことを知っている。なのにどうしてシャアはモシュのことを「猫」と呼んだのだろう。もしかして、モシュが配ったういろうはただのういろうではなく、忘却のういろうだったのか。


 ひょっとして、モシュは自らの存在を消し去ろうとしているのか。


 聞くのが怖かったが、ミリクはおそるおそる訊ねた。


「その猫って、モシュのことだよね」


 シャア・アカシャザ・ビエルは不可解な面持ちでひげをひくつかせた。


「誰だ、それ?」


 どきりと心臓が跳ねた。ミリクはシャアの両肩を掴み、叫ばんばかりの大声で言った。


「モシュのこと、ほんとうに覚えてないの?」

「どうした、兄弟。怖えーぞ」


 殺気だったミリクの迫力に、シャアが後ずさりする。


「モシュだよ、モシュ。モシュのこと、ほんとうに覚えてないの?」

「覚えてねえ。けど、なんか覚えてる気もする。でも思い出せねえ。あー、モヤモヤする」


 シャア・アカシャザ・ビエルは健忘作用のあるういろうを口にして、モシュの存在をど忘れしてしまったようだ。ただし、ういろうを丸ごと食べたわけではない。言われてみれば、ぼんやり思い出すぐらいには覚えている。でも明確には思い出せない。


「マザラは? マザラのことは覚えている?」


「マザラの旦那を忘れるわけねえだろ。俺はあんまり好かれちゃいないみたいだけどな」


 ダギャダギャ節をダギャっていない時のシャアは案外ふつうに喋る。好青年と評してもいいぐらいの気風だが、マザラと接する機会がダギャダギャ音楽隊の演奏に限られるため、マザラには反逆精神旺盛な跳ね返りのエビとしか思われていない。怖いもの知らずのように振る舞っているけれど、シャアはこれでいてマザラを恐れている。


「マザラのことは覚えているんだ。モシュのことは忘れているのに」


「だから誰だっけな。なんか覚えている気がするんだが、はっきり思い出せないんだわ」


 シャアがしきりに首を捻っている。


「他になにか忘れていることはない?」


「よく分からん。忘れていることを覚えていたら、忘れているとは言えないだろ」


「それもそうだね」


 いみじくもモシュが言ったように、シャアは忘れていることさえ覚えていない状態に陥っていた。シャアが忘れているのはモシュのことだけで、他のことは覚えているのかもしれないけれど、それを確かめる手立てはない。


 忘却のういろうに特定の記憶だけを忘れさせる選択的な健忘効果があるのか分からない。でもモシュがやったことはそれだ。モシュはモシュの存在を忘れさせようとしている。それはやはりモシュの死期が近いからで、死に様を人目に晒したくないためなのだろうか。


 黙って消えて、それどころか、アガリコの森に住まう隣人の記憶までもごっそり消して、それでひっそりと独りでこの世からいなくなるつもりなのだとしたら勝手過ぎる。


「なにやってんだよ、モシュ……」


 ミリクの胸に沸々と湧いてきた感情は同情ではなく、マグマのような怒りだった。


 黙って消えるのがモシュの計画なら、その計画をぶち壊してやる。


「そのういろう、全部は食べないほうがいいよ。大切な記憶を失うから」

「どういう意味だ、兄弟」


 苛立ちついでに忠告すると、ミリクは足早に立ち去った。

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