第11話 マザラ
ミリクはアナベルの肩越しにティーカップを覗いた。アガリコの巨木が群生する裏山の風景が映し出されている。
そこに見知った顔があった。〈母の木〉の下でミリクが落とした薪割り斧を拾い、怪訝な表情を浮かべているのは火トカゲの獣人マザラだった。帰りの遅いミリクとモシュを心配して、裏山まで様子を見に来たのだろう。
「ぐげげげげげ。アナベル様、どういたしましょう」
「なによ、この凶悪な顔! どこの組の
筋骨隆々のマザラはただでさえ強面だ。その上、手に斧まで持っている。アガリコの巨木さえ楽々と切り倒せそうな迫力にアナベルと法螺貝が慌てふためいている。
「あ、マザラだ。おーい、おーい」
ミリクが親しげに手を振るが、マザラからこちらは見えていないようだ。マザラは
切り落とされた枝、雪に落ちた斧、木肌に生じた奇怪な瘤、神隠しに遭ったように忽然と姿を消したミリクとモシュ。それらの現象を繋ぎ合わせれば、マザラがひとつの結論に至るのもそう遠くはないだろう。
鬼の形相のマザラは枝の破断面を睨みつけた。大きく両手を広げると、太い幹に鋭い爪を食い込ませ、着実に一歩ずつ、のそのそとよじ登り始めた。
「ぐげげげげげ。アナベル様、登ってきます」
「早く排除して! 排除! 排除!」
「アナベルさん、落ち着いてください。マザラは僕の家族です」
狂乱気味のアナベルにミリクの声は届いていない。アナベルのパニックぶりに呼応して、〈母の木〉の枝が触手のように蠢き、マザラに襲いかかった。
マザラは片手で応戦するが、木に食い込ませた爪だけで全体重を支え切るのは困難そうだ。今にも真っ逆さまになって落下しそうな危なっかしい体勢で、マザラは必死に触手と戦っている。
「アナベルさん、頼むから話を聞いて」
ミリクが懇願するが、正気を失ったアナベルは排除の手を緩めようとしない。アガリコの触手がマザラの首に巻きつき、ぎりぎりと締め上げた。血の気の多いマザラの顔が真っ赤に染まり、苦しさのあまり大火炎を吐き出した。
マザラを苦しめていた触手が焼け焦げるが、新たな触手が伸びる。マザラは息も絶え絶えで、木から落下しないだけでやっとだった。
「いい加減にしろ。少し落ち着け」
モシュが紅茶のカップを尻尾で叩いた。アナベルの顔にばしゃりと液体がかかる。
「なにすんのよっ!」
アナベルがぎろりと睨む。モシュは怒りの眼差しを向けられても平然としている。
「早とちりするな。そやつは侵入者ではない。火トカゲの獣人マザラ、モシュの連れだ」
「火を吐いてるじゃないの。〈
「攻撃を先に仕掛けたのはおぬしだぞ。火を吐くのは火トカゲの性分だ」
モシュが懐柔しようと試みるが、被害妄想の激しいアナベルはマザラが侵入者ではないことをなかなか認めようとしない。マザラの様子を映していたティーカップは粉々に砕けてしまった。触手に襲われたマザラが気がかりで、ミリクは気が気でなかった。
「だったら証拠を出しなさい。その火トカゲが侵入者ではないという証拠を」
「やはり妖術師という輩は救いようもなく偏屈だな。他人を信用することができない」
モシュは肩をすくめ、ぶつぶつと愚痴った。
「アナベルさん、証拠! 僕の足が証拠です!」
ミリクは自身のバネ足を指差し、ぴょんぴょんと飛んでみせた。
「どういうこと、ミミリクちゃん」
「僕の足、マザラが調整してくれるんです。背が伸びると、足のサイズも変えなければいけないけど、マザラがそのたびに直してくれるんです」
ミリクが切々と訴えかけると、アナベルの怒りが徐々に沈静化した。それでもまだマザラが侵入者であると疑っている。モシュはすっかり面倒臭くなったのか、テーブルの上で丸くなっている。
「マザラをここに呼んでください、アナベルさん」
「呼んでどうするの?」
「この場で僕の足を調整してもらいます。それが出来たら、マザラとは旧知の仲で、侵入者ではないと信じてくれますよね」
ミリクはアナベルの目を真っ直ぐに見据えた。アナベルはちょっとばつが悪そうだ。口元を手で覆い隠し、法螺貝にこそこそ相談している。
「ねえ、ホーラ。ミミリクちゃんの足を調整できたら、侵入者じゃないって証拠になるのかなあ。うーん、どうなんだろう。でも可愛いミミリクちゃんの頼みだし、ひとまずここまでお連れして。暴れるようなら拘束しちゃってもいいから」
「ぐげげげげげ。かしこまりましただぎや」
アナベルが指をぱちんと弾く。猛烈な砂嵐が巻き起こった。砂嵐に乗った法螺貝は、地下空洞を覆う木の根の束を突き破らんかの勢いですっ飛んでいった。
「やばっ……。やり過ぎちゃった」
地下空洞の天井にぽっかりと風穴が穿たれる。アナベルがぺろりと舌を出した。
「アナベルさんは砂を操ったり、木を操ったりして凄いですね。どんなものでも操れるんですか?」
ミリクが興奮気味に訊ねた。
「私の妖術は侵入者を脅かすぐらいしか役に立たないわ。せいぜい砂を龍にしたり、木の根を触手みたいに動かすぐらいしかできない」
「十分、凄いことだと思います」
「え、そんなに凄い?」
「はい。僕も妖術を使ってみたいです」
ミリクが純真な眼差しを向ける。アナベルはまんざらでもなさそうだ。立ち耳がひくひくと小刻みに揺れている。
「私が教えてあげようか。ミミリクちゃんはどんなものを操ってみたいの?」
「アガリコの枝を切り落とす瞬間の感触が苦手なんです。妖術で斧を自在に操れたら、僕が枝を切り落とす必要がなくなるから、僕は枝を運ぶだけでいいと思うんですよね」
「斧か。それぐらいだったら、少し訓練すれば操れるようになるわよ」
「本当ですか。ぜひ教えてほしいです」
ミリクの頼みを遮るようにモシュがわざとらしく咳払いした。
「やめておけ、ミリク。妖術は気軽に手を出すものではない」
「どうしてさ」
ミリクが不満げな顔をした。
「〈
モシュはつらつらと妖術の危険性をあげつらった。
「ここまで言っても、どうしても妖術を覚えたいなら勝手にしろ。せいぜい手取足取り習うといい。首がすっ飛ばないうちに習得できるといいな」
「あー、もう分かったって。モシュ、そんなに怒らないでよ」
「怒っていない。失望している。ミリクはモシュの話からなにも学んでいなかったのだな。心に刻めぬのなら、せめてういろうにでも刻んでおけ」
「だから、ごめんって。もう妖術を覚えたいなんて言わないから」
「ふん」
モシュはすっかり気分を害してしまったらしい。ミリクがどんなに謝っても、冷たい一瞥をくれるだけだった。
「猫って面倒くさい生き物ね。ミミリクちゃんに同情するわ。誰にも頼れずに生きるなら、妖術の一つや二つぐらいは覚えておくべきよ。よっぽど才能がなければ別だけど」
「そうですね。でも自分の手で出来ることはなるべく自分の手でやることにします。それよりもどうしたら仲直りできると思いますか」
しょんぼりとうなだれたミリクが訊ねる。アナベルが苦笑いした。
「猫と天敵の
「ぐげげげげげ。アナベル様、お連れいたしましただぎや」
一陣の風とともに法螺貝が現れた。アナベルが巻き起こした巨大な砂嵐によって風穴が開き、地上と地下が交通した。無数の木の根に捕縛されたマザラが〈妖術師の巣穴〉の近傍へ送り届けられた。手に斧は持っておらず、丸腰だ。
「これが〈妖術師〉の出迎えか。手荒い歓迎だな」
木の根に何重にも巻き付かれ、厳重に拘束されているマザラだが、抵抗する素振りはない。砂のテーブルの上で気怠く寝そべっているモシュを見ても、マザラは怒りの色さえ見せなかった。モシュは大儀そうに尻尾を少し動かしただけで、特になにも言わない。
「マザラ、こちらがアナウサギの獣人アナベルさん。法螺貝の死霊ホーラ・ガイスト。あと、カエルの死霊オジュマコジュマ」
ミリクが律儀に紹介する。マザラは落ち着き払った声で言った。
「火トカゲの獣人マザラだ。家の者が世話になった」
「早速で悪いけど、あなたが〈侵入者〉でないと証明してちょうだい」
砂のテーブルの影に身を隠したアナベルがおっかなびっくり要求した。小柄なアナベルからすれば、巨漢のマザラは山のように大きい。木の根でがっちり拘束しても、まだ脅威を感じているようだ。ミリクがマザラの近くに駆け寄り、口添えした。
「アナベルさんの目の前で僕の足を調整してよ。そうしたらマザラは侵入者じゃないって認めてくれる」
マザラは木の根の拘束など物ともせず、武骨な手を広げた。ミリクの頭を荒々しく撫でる。
「工具がないとどうしようもない。それにな、ミリク。誰かに認めてもらうためにお前の足を調整しているわけではない。そこの猫に託されたからだ」
マザラはテーブルの上で身じろぎもしないモシュを見つめた。
「モシュに?」ミリクが意外そうな顔をした。
「死ぬまで話すなと口止めされているが良い機会だ。ミリク、お前の生い立ちを教えてやる。その上で侵入者かどうか判断するといい」
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