第9話 天敵

「アナベルさん、ちょっと質問なんですけど」


「なあに、ミミリクちゃん」


「さっきホーラがういろうはもうやーこみゃあ、って言ったんです。もうやーこって、どういう意味ですか」


 どうでもいいことほど覚えておけ、というのがモシュの教えだ。なんとなく分かった気になって素通りしていたが、この際だから素直に聞いてみることにした。


「共同所有という意味よ。分け合う、分かち合う、共有する。そんなニュアンス」

「へえ、そんな意味だったんですね。知らなかった」


 ミリクが素直に感心すると、アナベルは幼子を慈しむように目を細めた。


「ういろうを誰と共同所有しているんですか」


「〈母の木アガリコ〉よ。アガリコの地下を間借りする代わり、木の内部に侵入してきたならず者を穏便に追い払う契約なの。持ちつ持たれつ、もうやーこな関係なわけ」


「ということは僕もならず者なわけですね」


 味噌ダレパンを延々と食べ続けながら、ミリクが悲しげに言った。


「そんなことないわ。ミミリクちゃんはういろうを食べてすぐに記憶を失くしてくれるし、ぜんぜん害はないもの。〈母の木〉の枝を落とすのは褒められたことじゃないけど、後腐れがないように切ってくれているし、木の内部に入ってきてもすぐ退散してくれる。むしろ、もうちょっと居てくれてもいいのに、というのが〈兎の足ラビッツ・フット〉の見解よ」


「ぐげげげげげ。アナベル様はでら寂しがり屋だぎや。無限に食べるといいだがや」

 法螺貝がまたも同じ台詞を吐く。ミリクが食べ終えたばかりの味噌ダレパンが復活した。満腹感はないとはいえ、口の中はすっかり味噌に染まっている。食べ続けるのにも飽きたし、いい加減口直ししたいな、とミリクは思った。味噌以外のものだったら正直なんでもいい。


「アナベルさん、そろそろメインディッシュですか」


「ミミリクちゃん、もう満足? もっともおっと食べて、ずうっとお喋りしてたいわ」


 アナベルはどことなく不本意そうだ。うっすら涙をこぼす姿がいじらしかった。


「まだ食べれますけど、メインディッシュが何なのか知りたいです」


「あら、気になる?」


「特別な食材なんですよね。とても気になります」


 ミリクが興味を示すと、アナベルは俄然身を乗り出してきた。


「じゃあ少し早いけど、メインディッシュの時間にしましょう。きっと驚くわよ」

 アナベルがぱちんと指を弾く。モシュが探索に出掛けていた〈妖術師の巣穴ワーレン〉の入り口が砂に閉ざされた。あちこちに開いていた穴ぼこもみるみる砂で満たされていく。巣穴がすべて砂に埋もれてしまえば、モシュが生き埋めになってしまう。


「まさか、メインディッシュって……」


 砂の椅子に縛り付けられたままのミリクの顔が恐怖に歪んだ。そっとアナベルの横顔を盗み見る。アナベルは憎悪に満ちた目で〈妖術師の巣穴〉を見つめていた。


「空飛び猫はアナウサギの天敵中の天敵よ。私の妹たちもどれだけ餌食になったか知れない。ただでさえ危険極まりない存在なのに、忘却と無縁な体質でういろうも効きやしない。そんな危ない奴を生かしておけるわけがないわ」


 アナベルはモシュも真っ青の悪辣な笑みを浮かべた。


「やめて! モシュは僕の兄弟なんだ」


 ミリクが泣き叫ぶが、アナベルは最後の晩餐の準備にすっかり陶酔し切っている。


「食べ方はどんな風がいいかしら。じっくり蒸し焼きにしましょうか。それとも丸焼きがいいかしら。怖がらなくてもいいのよ、ミミリクちゃん。最後デザートにういろうを食べれば何もかも綺麗さっぱり忘れてしまうのだから」


「やめて! やめてったら!」


 ミリクは声を嗄らして泣き叫ぶが、それでも砂の椅子から一歩も動けず、味噌ダレパンを食べ続けている自分が情けなくて、よけいに泣けてきた。


 モシュを食べる? 

 ういろうを最後に食べれば、それも忘れるから平気?

 冗談じゃない。


「やめて! やめて! やめてったら!」


 ミリクはバネ足に渾身の力を込め、奥歯が砕けそうなほど食いしばった。そうまでしても砂の椅子から逃れられない。絶望に打ちひしがれても、ただ味噌ダレパンを胃に運び続けた。ここはきっと地獄だな、とミリクは思った。永劫の味噌地獄。


「ホーラ、メインディツシュを用意してちょうだい」


「ぐげげげげげ。かしこまりました、アナベル様」


 アナベルがぱちんと指を弾く。永遠の一瞬から解かれた法螺貝はいそいそと蝶ネクタイをつけ、銀色の丸蓋クローシュをかぶせた料理を持って戻ってきた。盆を開けると、蒸し焼きか丸焼きになった無残な姿のモシュが現れるのかと思うと、ミリクは卒倒しそうだった。


「どうしてこんな酷いことができるんですか」


 心ここにあらずのミリクがうなだれながら言った。いつの間にか、味噌ダレパンを食べ続ける反復動作は免除されていたが、食欲などとうに失せていた。全身から力が抜け、指一本さえまともに動かせない。


「……酷い? どこが酷いの? 空飛び猫はアナウサギを食べるわ。それは酷くないの? 食べるものは食べられる。それが自然の摂理でしょう」


 アナベルはそっとミリクの手に手を重ね、二人して銀色の丸盆に手をかけた。


「さあ、ミミリクちゃん。目を背けないで、よく見ておきなさい」


 忘却は人間に与えられる恩寵だ、とモシュの言った意味がようやく理解できた。兄弟同然のモシュを食べ、それを一生涯忘れられないとしたら、きっと気が狂う。


「見ない! ぜったいに見ない! 見るもんか!」


 ミリクはありったけの力を込めて目を瞑り、必死に抵抗した。


「ミリク、分かったか。これが〈妖術師ソーサラー〉の本性だ」


 どこからともなくモシュの声が聞こえた。


「え? モシュ? どこ? 生きてるの?」

「ふん。勝手に殺すな」


 モシュのうざったそうな声を聞き、ミリクは心の底から安堵した。銀色の丸盆がガタガタ揺れ、高々とはじけ飛んだ。中から威勢よく飛び出してきたのはモシュではなかった。二匹のオジュマコジュマだった。


「モシュオジュマ!」

「モシュオジュマ!」


 カエルの死霊であるオジュマコジュマは楽しそうにテーブルの上でぴょこぴょこ飛び跳ねている。アナベルにも想定外の出来事だったのか、呆気に取られた顔をしている。


「モシュ、どこ? どこにいるの?」


 ミリクはきょろきょろと辺りを見回した。


「〈真の大樹魔シン・オジュマ〉見参!」


 砂地に溶けていたオジュマコジュマの群れが次々と噴き上がった。最後の最後になって、主役は遅れて登場するものだぜ、と言わんばかりに勿体ぶったモシュが登場した。


「〈お食事処〉のくせに食材さえない。つまりモシュが食材ということ。ありがちな罠だ。〈妖術師の巣穴ワーレン〉は中心料理モシュ前菜ミリクを分離する舞台装置というわけだ。じつに浅はかだが、罠にかかったふりをして乗っかっておいてやったよ」


「モシュオジュマ!」

「モシュオジュマ!!」

「モシュオジュマ!!!」

「モシュオジュマ!!!!」

「モシュオジュマ!!!!!」


 オジュマコジュマ一座はやんやの大喝采で、この時ばかりはミリクも手放しで称賛した。


「生きてた! モシュオジュマ!」


「ふん。ようやくモシュの偉大さが分かったか、ミリクよ。ちと遅いぞ」


 モシュが〈妖術師の巣穴〉から攫ってきたのか、十数匹のアナウサギをひとまとめにして、紐状の木の根で縛り付けていた。


 あれらがアナベルの妹たちなのだろう。アナベルのような獣人ではなく、純粋なアナウサギだった。アナウサギの天敵である空飛び猫のモシュを見て、臆病なアナウサギたちは身を寄せ合って震えている。


「……卑怯な。私の妹たちを返せ」


 アナベルが怒り狂う。ミリクの首筋に砂のナイフを突きつけ、モシュを牽制した。


「モシュの下僕になにをしてくれる」


 モシュは表情を変えず、むしろ楽しそうだ。


「下僕って。せめて兄弟とかにしてよ」


「ふん。下僕は下僕だろう。ミリクはモシュがいないと無力だからな」


 ミリクが下僕扱いの撤回を願い出るが、モシュにあっさり却下された。口先ではミリクを下僕だと言っているが、それがモシュの本音でないことはよく知っている。


「モシュは争いを好まない平和的な猫だ。ここはひとつ、人質の交換といこうか」


 強力な妖術を持つアナベルを相手にして、モシュは人質の交換を提案した。


「私の妹を全員返して!」


「下僕一人と貴様の妹全員。さすがにそれでは釣り合わんな」


 アナベルが殺気立っている。だがモシュは冷静で、安易な交換には応じない。


「これは命令よ! 私の妹を全員返しなさい!」


 アナベルの怒号は凄まじく、砂が凶暴な龍と化し、意思を持ったように大暴れした。


 さすがに挑発し過ぎたとでも思ったのか、モシュがちょっと怯んだ。


「分かった。貴様の妹を全員返す。だが、ミリクを先に渡せ。それが条件だ」

「……信用できない」


 アナベルはぼそりと言った。しばし考え込み、砂の龍を大人しくさせた。


「分かったわ。ミミリクちゃんを解放する」


 ミリクはアナベルにそっと背中を押された。


「ごめんね、ミミリクちゃん。罪のないあなたを傷付けた。でも、天敵の空飛び猫とともに行動しているミミリクちゃんの目を覚ますにはこれしかなかったの」


「アナベルさん……」


 ミリクはモシュの元に駆け寄ると、アナベルに向かって小さく会釈した。


 アナベルのしでかした仕打ちは到底許せるものではなかったが、兄弟姉妹を餌食にされる気持ちを身を持って知った。だから、アナウサギには天敵が多過ぎると嘆いたアナベルがこれまでどんな気持ちで生きてきたか、曲がりなりにも理解できた。


「さあ早く、私の妹を全員返しなさい!」


 アナベルが急かすが、モシュは人質を返す素振りを見せない。


「人質を交換すると言ったが、アナウサギは人ではない」


 モシュは詭弁を弄し、人質の解放をさらりと拒否した。


「ふざけるな!」


 アナベルが怒り狂い、ほとんど手を付けられなくなった。砂が逆巻き、龍となってモシュを襲う。逃げ遅れた法螺貝まで巻き込まれて、砂の龍がモシュの小さな身体を締め上げる。


「モシュ、いい加減にしなよ! アナベルさんだって怒るよ」

「やれやれ、どっちの味方だ」


 砂の龍に絡みつかれたモシュは苦しそうに喘いだ。それでも人質交換には応じない。


 モシュは強情だ。あまりにも強情すぎる。ミリクが独断で人質のアナウサギを解放しようとすると、上空から鋭い叱責が発せられた。


「余計なことをするな、ミリク!」

「なんだよ、モシュ。どういうつもりだよ」


 モシュが寂しげな顔をした。「モシュは悲しい……」と囁いたあの時の顔だ。


「アナウサギは人間ではない」


 モシュは荒ぶる砂の龍に向かって静かに語りかけた。


「それを言うならば、アナウサギの獣人も人間ではない。空飛び猫も人間ではない。バネ足人間も人間ではない。モシュが間違っているか? 間違っているのは世界の方ではないか」


 モシュが苦しげに羽根をばたつかせた。モシュの合図を受けたオジュマコジュマが人質のアナウサギを無傷で解放した。


「アナウサギの妖術師よ。世界から隠れているだけで満足か?」

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