第4話 イチゲンサン・オウコトワリ
「……気が付いたか、ミリク」
闇の底にそっと手を差し伸べるような声が不思議と心地良かった。
ミリクは両目をはっきり見開いた。〈母の木〉の内部はまるで崩壊しておらず、ういろうが敷き詰められた〈外郎道〉は健在だった。
洞窟の天井部には死霊をまとった法螺貝が突き出たままで、ミリクの傍らでオジュマコジュマが飽きもせずマウントを取り合っている。
時間が巻き戻ったのか、それとも世界が再生されたのか。
ミリクの今しがたの体験がどこからどこまでが現実で、どこからが幻覚だったのか、いまいちよく分からないが、〈母の木〉に巣食う死霊は厄介だということだけは理解できた。
「言っただろう。〈
モシュはミリクの頭部に着地すると、眠たげな声で言った。
「モシュが性格の悪い猫で助かったよ。途中で幻覚だって分かった」
「ご挨拶だな。モシュは世界一可愛げのある猫だぞ」
「
ミリクが軽口を叩く。モシュはシニカルな笑みを浮かべ、くるんと丸くなった。
「ふん。一生、ういろうに囚われていればいい」
「なに怒ってるのさ、モシュ」
モシュは感情の宿らない冷ややかな目つきを隠そうともしない。モシュの視線の先には、延々とマウントし合うオジュマコジュマの姿があった。
「何ひとつ学習しないというのも考えものだな」
モシュはいっとう不機嫌であるらしく、ずいぶんと辛辣な物言いだった。寝覚めでも悪いのか相当に殺気立っており、ミリクはおっかなびっくり話しかけた。
「ねえ、モシュ。なに怒ってるのさ」
「逆に聞こう。どこまで覚えている?」
「どこまでって、どういう意味だよ」
モシュの質問の意味が分からず、ミリクは戸惑いの表情を浮かべた。
「どうせ何もかも忘れているのだろう」
「馬鹿にすんなよ。だいたい覚えてるし」
「本当か。だったらモシュが何を話したか、話してみろ。出来るだけ正確にな」
モシュが探るような一瞥をくれた。
「〈母の木〉に呑み込まれてからのことだよね」
「そうだ」
モシュとの会話を思い返すと、急にずきりと頭が痛んだ。なぜだか記憶に紗がかかったようにぼんやりとする。ミリクはうんうん唸りながら、たどたどしく答えた。
「ええと、アガリコが〈
「ふん。今日は記憶の定着が悪くないようだな」
モシュがちょっと意外そうな顔をした。
「そうか、ういろうを三分の一しか食べてないからか。ミリクは食い意地が張ってるから、いつもバクバク何十個も食べるものな。珍しいこともあるものだ」
「馬鹿にしてるだろう。ほんとうにモシュは口が悪い」
ミリクが不貞腐れても、モシュが悪びれることはなかった。
「馬鹿にはしていない。〈母の木〉のういろうには強力な健忘作用がある。毎日毎日、何の疑問も持たず薪を集めに行き、毎度毎度ういろうをたらふく食べ、その日の記憶をすっぽり抜け落ちさせる。ずうっとその繰り返しで毎日ご苦労だな、と思うだけだ」
モシュはさらりと聞き捨てならない発言をした。
「魂を抜かれるって、記憶を持っていかれるってこと?」
「そうだ。ミリクはちーとも学習しない。どんなにういろうを食べるなと忠告しても馬鹿の一つ覚えのように貪り食う。その上、忠告自体を忘れる。まったく処置無しだ」
モシュは諦観した仙人のように遠い目をした。とかく性格のひん曲がった口の悪い猫だとばかり思っていたけれど、どうにもそれはミリクの思い違いだったようだ。
ミリクは薪集めのたび〈母の木〉に呑み込まれるのがお約束のようだが、木の中で体験した肝心なことはろくに覚えていない。記憶が鮮明であるらしいモシュからすればお笑い種だ。
「モシュは記憶を失うことはないの?」
「猫はいちど受けた仕打ちを決して忘れないものだ」
ミリクは尊敬の眼差しでモシュを見つめた。
「モシュはすごい猫だったんだね。ごめん、今まで気が付かなかったよ」
「忘却は人間に与えられる恩寵だ。恩寵であると同時に
モシュは時折、小難しいことを言う。
「……ごうばつ? なに、それ」
「未来永劫消え去ることのない、地獄のように果てしなく続く罪」
「難しいね。ぜんぜん意味が分からないんだけど」
ミリクが首を傾げる。モシュはさらりと付け加えた。
「忘れなければ生きてはいけない。そういうことだ」
モシュの神妙な口振りにきゅっと胸が締め付けられた。
自分が何か大事なことを忘れていることさえ忘れてばかりのミリクには到底想像もつかない苦悩が滲んでいる気がした。
「モシュにも忘れたいことがあるの?」
「答えたところで、どうせ覚えてはいるまい」
「そうだね。忘れちゃうかもしれないけど、でも話してよ」
馴れ合いを避けるように、モシュはふいっとそっぽを向いた。
「気が向いたらな」
忘却の甘いういろうを三分の一しか食べなかったせいで、この日は二周目の〈外郎道〉をそぞろ歩くこととなった。
「ウイロードに二周目なんてあるものなの?」
「モシュの記憶が確かならば、〈強くてニューゲーム〉という現象だろう」
「なに、それ」
「記憶を引き継いだ状態で再出発することだ」
「ふーん、そんなこともあるんだね」
「モシュも二周目を体験するのは初めてだ。ミリクはいつもういろうを貪り食うからな」
「そんなにしつこく言わないでよ。もう食べないよ」
「どうだか」
モシュが冷ややかな声で言った。
「おい、コジュマ。生きてルか?」
「おいがオジュマさ。おみゃーがコジュマ」
「たーけ! おいがオジュマさ。おみゃーがコジュマ」
オジュマコジュマがにじり寄ってきた。
ミリクでさえ既視感だらけの会話。
忘却という名の恩寵を与えられなかった聡明な猫がどう思ったのか、不機嫌な態度を見ればすぐ分かる。
モシュはかったるそうにオジュマコジュマの頭部に乗っかった。
「モシュオジュマ!」
「モシュオジュマ!」
さすがに二周目となれば、オジュマコジュマがモシュを神の如く崇める態度も見慣れた。
オジュマコジュマに続いて、法螺貝の出番。〈
一周目の記憶を鮮明に保ったままのミリクにはすっかり本性がバレている。
ミリクは法螺貝を挑発するように見上げた。
「お気に召したかね。ういろうでできた〈
ミリクがういろうを口にした途端、ここぞとばかりに勝ち誇り、「ぐげげげげげ、うい、ろう、うい、ろう、うううぃ、いいいろおおぉおぅ」と高笑いするのがお決まりのコースだと分かっている今となっては、法螺貝の長ったらしい講釈に耳を傾ける気も起きない。
「記憶を失うと分かってて、ういろうを食べるわけないじゃん」
ミリクがすっかり無視すると、法螺貝の声音ががらりと変わった。
皺がれた老人のような声ではなく、ゆったりとして艶めかしい。しっとりとした上品さが耳に心地良かった。
「おこしやす」
ホーラ・ガイストの本性を見知っているミリクでさえ、あまりの変貌ぶりに面食らった。
オコシヤスという五文字にいったいどんな意味があるのか分からないが、ともかく何か特別な響きのある言葉であるように聞こえた。
法螺貝は淑やかにゆらゆらと宙を漂い、ミリクから付かず離れず、絶妙な距離感を保っている。
無視してやり過ごすべきか否か、どう対応すべきか分からず、ミリクは小声で訊ねた。
「ねえ、モシュ。こっちもオコシヤスって答えればいいの?」
モシュも態度を決めかねていた。モシュでさえ
「オコシヤスって答えると、魂を抜かれて記憶を持っていかれるのかな」
はっと気が付き、ミリクが憶測を口にする。
ういろうが忘却を司るならば、オコシヤスもまた忘却に関わるとしても不思議ではない。
いいや、オコシヤスと答えないと記憶を持っていかれてしまう、という可能性もある。
二周目の法螺貝は、単純なオジュマコジュマと違って一筋縄ではいかない。
オコシヤスと答えるべきか、答えざるべきか。
記憶を賭けた一大勝負だと思うと、例えようのない緊張が押し寄せてきた。
法螺貝の死霊はオコシヤスと言ったきり沈黙し、ミリクを追走するように背後にぴたりと張り付いている。
まさしく背後霊だ。
ああだこうだ、ういろうの蘊蓄を語っているよりも、むっつり無言で影のように付きまとわれている方がよほど恐ろしかった。
「〈退魔師〉がいれば死霊を祓えるんだっけ。モシュ、〈退魔師〉を呼んでよ」
音もなく付きまとってくる不気味さに耐えられず、ミリクが泣きついた。
「おそらく、これはコト・キヨウトの〈
オジュマコジュマの頭上に乗っていたモシュが苦々しげに言った。
「どういうこと?」
「コト・キヨウトには〈
「オイデヤス、オコシヤス……。なんだか響きが似てるね」
「言葉は似ているが意味は正反対だ。オイデヤスは排除、オコシヤスは歓待の意味を持つ。無事二周目になったぞ、という合図だろう」
ミリクはひたひたと背中を追いかけてくる法螺貝にちらりと視線をやった。
「ずうっと付きまとわれてて気味悪いんだけど」
「なにせ〈
「うへえ」
沈黙のホーラ・ガイストに尾行されながらも、ミリクは〈外郎道〉を歩き続けた。
ねっとり、粘っこく、どこまでもまとわりついてくるわりに一言も喋らないというのは、どうにも気味が悪いったりゃありゃしない。
死霊というものはそういうものなのかもしれないけれど、そもそもういろうは〈ダギヤア人の魂〉で、キヨウトはぜんぜん関係ないはず。
それなのに二周目になった途端、なぜキヨウトが登場してくるのだ。
何を考えているのか、さっぱり分からない陰湿な追跡劇にミリクの心はぽっきり折れかかっていた。
ミリクはくるりと背後を振り返ると、内心の苛立ちをぶつけるように大声で叫んだ。
「ああ、もうしつこいな! 〈
ミリクが声を発した途端、ひたすら付きまとっていた法螺貝がぴたっと静止した。さらりと砂が崩れるように実態を失い、綺麗さっぱり掻き消えた。
「あれ、もしかして死霊を祓った? ひょっとして〈退魔師〉の素質ある?」
ミリクは頬を緩め、小躍りしながら自画自賛した。
「たまたまだ」
モシュは素っ気ない。
「たまたまだぎや」
「たまたまだなも」
オジュマコジュマはモシュに右へ倣えで、まったく面白くもない。
それどころか、一周目の最後に正体を現した〈
「ぐげげげげげ、うい、ろう、うい、ろう、うううぃ、いいいろおおぉおぅ」
「うるさいな。オイデヤス! オイデヤス! オイデヤス!」
ミリクがムキになって一見退散呪文を連呼するが、一見法螺貝も二周目法螺貝へと進化したのか、砂のように消えていくことはなかった。
「くっそう、ぜったい祓ってやる! オイデヤス! オイデヤス! オイデヤス!」
「ぐげげげげげ、うい、ろう、うい、ろう、うううぃ、いいいろおおぉおぅ」
「この野郎、これでも喰らえ!」
オイデヤスの効き目はなく、腹立ちまぎれにミリクは抹茶のういろうを二周目法螺貝に投げつけた。二周目法螺貝はミリクを嘲笑うように、ひょいと避けた。
「ぐげげげげげ。ういろうはナアゴヤ・ダギヤアの魂だが、発祥はコト・キヨウトだぎやあ。コト・キヨウト、オウ・ダワラ、ヤア・マグチ、全ての〈外郎道〉はナアゴヤに通ずだぎや」
キヨウト法螺貝は陰湿だったが、二周目法螺貝も負けず劣らずに灰汁が強い。
頼みの綱であるモシュに助けを求めても、モシュは視線さえ合わせてくれず、他人行儀に「オイデヤス」と祈られるばかりだった。
重なり合ったオジュマコジュマのてっぺんにモシュが君臨し、ミリクの周囲を法螺貝がまとわりつきながら歩いた。
ういろうでできた迷路さながらの道はくねくねと折れ曲がり、途中で何度もの分岐があり、狭まったり広がったり、上ったり下ったりした。
「モシュ、お腹空いたあ」
食べ盛りのミリクのお腹がぐうぐうと鳴った。悲鳴にも似た音だが、モシュに無視された。
ただでさえ〈太陽に見捨てられた町〉は生活資源に乏しい。
満腹になるまで食べられることなど滅多にない。
どんなに食べても枯渇しそうもないういろうの壁を目の前にして、ひとつたりとも摘まみ食いしてはならないだなんて、れっきとした拷問だ。
「どこまで歩くの、モシュ」
空腹を抱えながらの当て所ない行軍にミリクが不満の声をあげる。
餌を目前にして待て、と躾けられる犬の気分だ。
いつまで待てばいいのか、察しがつくなら我慢のしようもあるが、どこまでも果てしないういろうの道に沸々と怒りを覚えるようになった。
「モシュ、もう限界……」
ミリクが情けない声をあげた。モシュが不自然なぐらいに黙りこくっているな、と思って様子を伺うと、あろうことかモシュは口をもぐもぐさせている。
ミリクに隠れてういろうを摘まみ食いして、素知らぬ顔をしてだんまりしていた。
モシュがもぐもぐする咀嚼音、ごっくんという嚥下音、何もかもがミリクの逆鱗に触れた。
兄弟同然に育ってきたはずなのに、ひどい裏切りだ、とミリクは思った。
「ちゃっかり食べてるじゃん!」
ミリクが非難がましい視線を浴びせても、モシュは平然としている。
「モシュは〈常連〉だからな。ういろうを食べたぐらいで記憶は失わない」
「ジョウレン? なに、それ」
「いつも来る客のことだ。ウイロードには腐るほど来ている」
「モシュ、二周目は初めてだって言ったじゃん。さっきと言ってること、違くない?」
ミリクがじとりと睨んだ。モシュはどこ吹く風で、ういろうをパクついている。
「嘘はない。ここにはよく来ている。だがミリクが記憶をすべて失わず、二周目に突入するのは初めてだ。記憶を保持できないミリクは常に〈
「モシュばっかり食べてずるい」
ミリクが子供のように地団太を踏んだ。モシュは冷めた目で、ういろうを投げて寄越した。
「忘却は人間に与えられる恩寵だ。食べたければ食べるがいいさ」
モシュに値踏みされるのはまったく面白くない。
空飛び猫とは言いつつもたいして空を飛ばず、怠惰に寝そべっているだけのお気楽な存在だったはずなのに、未来永劫消え去ることのない地獄のように果てしなく続く罪――劫罰を抱えて生きる健気な猫だったなんて、とても信じられない。
「お前はういろうひとつも我慢できないお子様だろうって言われてるみたいでムカつく」
「実際、その通りだろう」
モシュが、はん、と鼻で笑った。
なんだよ、その冷笑。
つくづく可愛げがない。
売られた喧嘩と空腹のせいで、ミリクはひとおもいにういろうを食べてしまおうかと思った。
自覚はないが、どうせいつもういろうを食べているのだ。
今日食べたって同じじゃないか、とも思った。でもまともに食べることができなかった。
ミリクの手の内にある桜色のういろうが水気を失い、ガサガサに干乾びていく。
ういろうの道もまた徐々に水気を失い、乾いた砂に変わっていった。
ミリクは口をへの字に結び、行進を続けた。
「食べないのか? 珍しいな」
モシュが薄く笑った。
「ウイロードの先に何があるのか、興味があるだけ」
「ふん。それはモシュも興味があるな」
せっかく忘却から免れる貴重な機会を得たのだから、外郎道の果てを見てみたいだけだ。
べつに、モシュの背負っている劫罰をいっしょに背負ってやろうだなんて殊勝に思ったわけではない。
ぐうぐう鳴る腹の虫をすっかり無視して、ミリクはただひたすら歩き続けた。
「ねえ、モシュ」
「どうした」
「ウイロードが崩れていってない?」
歩き疲れたミリクが小休止し、ちらと背中側に振り向いた。ミリクの背後の道がボロボロと崩れ落ちていき、戻るべき道はすっかり失われた。
外郎道の崩壊は一向に止まらず、水気たっぷりだったういろうが砂礫のようにあっけなく溶けていった。
「走れ! 追いつかれるぞ!」
羽根を広げたモシュが狭い洞窟内を滑空した。ちんたら歩いていては崩壊に追いつかれてしまう。
ミリクはバネ足を利して、飛び跳ねるように疾走した。
「モシュ、なんでウイロードが崩れてるのさ」
ミリクが走りながら怒鳴った。
「法螺貝が言っていただろう。ナアゴヤ・ダギヤアの魂は一日しか日持ちしない。本来の姿のまま密閉できないものであった、と」
「モシュオジュマ!」
「モシュオジュマ!」
置いてけぼりのオジュマコジュマが慌てて続いた。法螺貝はさして慌てる素振りもなく、ふわふわ漂いながら高笑いしている。
「ぐげげげげげ、うい、ろう、うい、ろう、うううぃ、いいいろおおぉおぅ。〈
「モシュ、なに言ってんの、あいつ。ショウ、ミ、キゲンってなに?」
崩壊がすぐそこまで迫っていた。ミリクはすっかり余裕を失い、息も絶え絶えだった。
「賞味期限……、なるほどな」
モシュが何かを閃いたようだ。にやりと不敵な笑みを漏らした。
「オジュマコジュマどもよ、集まれ!」
〈
アガリコの破断から生まれたカエルの死霊だけあって、ぶよんぶよんと波打つ緑の艶めかしい肌がどことなくういろうに似ている。
「モシュオジュマ!」
「モシュオジュマ!!」
「モシュオジュマ!!!」
「モシュオジュマ!!!!」
「モシュオジュマ!!!!!」
押し合いへし合いするマウント癖のオジュマコジュマの群れが何重にも寄り集まって、崩壊寸前の外郎道をぴっちりと埋め尽くし、堅牢な壁となった。
モシュは賞味期限の迫ったういろうの壁をオジュマコジュマを隙間なく詰め込むことで補修した。
「どうだ、崩壊が止まったぞ」
してやったりのモシュはあぶれたオジュマコジュマの高みに登って偉ぶっている。
ういろうを隠れて摘まみ食いしていたモシュにはちょうどいい腹ごなしになったのかもしれないが、ミリクには堪ったものではない。
全力で走っている間は忘れていた空腹がぶり返し、もはやどうにも耐えがたくなった。
「モシュ、もう駄目。お腹がすき過ぎて気持ちが悪い」
ミリクはばったりと外郎道に倒れ込んだ。崩壊を止めたういろうはぷるぷる揺れるほどに新鮮で、もう難しいことは何も考えず、心の赴くままに貪り食いたい衝動に駆られた。
「待て! 早まるな! せっかくここまで来たのにすべての記憶を失うぞ」
モシュが金切り声をあげた。いつになく余裕を失っている姿がたいへん珍しい。
あまりの必死さにミリクは躊躇した。
強力な健忘作用のあるういろうを口にすれば、この日の記憶を失うはめになる。ごくりと唾を飲み込み、なんとかかんとか空腹を紛らわす。
「この記憶ってそんなに重要? 忘れたら困ること?」
ミリクは二周目の外郎道で体験したことをつぶさに思い返してみた。
ええと、何があったっけ。
忘れて困るような決定的な出来事は何もない気がする。
「重要な記憶かどうかは問題ではない」
「どういうこと?」
モシュがどうしようもなく寂しそうな顔をした。
雨の日に捨てられた猫みたいにしょんぼりしており、ミリクの心もちくりと痛んだ。
オジュマコジュマが次から次へ、ぞろぞろと集まってくるが、モシュは寂しげなまま孤高を貫いている。
「どうでもいい記憶をモシュだけが覚えている。どうしようもない記憶をモシュだけが覚えている。ミリクは忘れていることさえ覚えていない」
モシュの独白にミリクは何と答えていいのか分からなかった。
「記憶の欠片を安易に手放してはいけない。どうでもいいことほど忘れないでほしい。どうしようもないことほど覚えていてほしい」
ミリクは思わずモシュを強く抱きしめた。
モシュこそは大切な記憶そのものだと思ったから。
「この記憶ってそんなに重要? 忘れたら困ること? そう言ったか、ミリク」
「ごめん、撤回する。怒らないでよ、モシュ」
ミリクが平謝りするが、モシュは視線さえ合わせてくれない。
「怒ってない」
風がささやいたような弱々しい声でモシュがぽつりと言った。
「モシュは悲しい……」
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