因果応報
「開始は今ですね」
「はい」
静かな声にスタフティは敬意を込めて同意したそろそろ始まるはずだ。
「心配事ですか?」
その声を聞いたスタフティは僅かな驚きの表情を浮かべる。
「……はい、閣下」
「心配することは悪いことではありません。しかし、その事に動揺してはいけませんよ。決めたことは最後までやらなくては」
「承知しております。閣下」
では、と言って目の前の男は仮面のように虚な笑みを浮かべた。
手元にあるメモにはこう走り書きされていた。
『夜と霧作戦』
「掃除の成功を神に祈るとしましょう」
「おお、お前か」
「いつもお疲れ様です」
馴染みの門兵と言葉を交わしたエスタは行商人らしい愛想のいい笑顔を見せながら会釈する。
エスタが慣れた手つきで差し出した帝国の認可証を受け取った門番の一人が詰所に記録しに行く。
「毎度手間を取らせて悪いな」
珍しく謝った衛兵に内心首を傾げながらいいえ、と答えた。
「みなさんもお仕事なんですから。仕方ないですよ。今度また酒を持って行きますよ」
「そうかい」
衛兵の笑顔に違和感を覚えたエスタは、気取られないようにあたりを見渡す。
いつも通りだ。帝国の認可証も本物を使っているし、衛兵の歓心を買うことも忘れていない。
頭で考えれば何も問題はないとわかる。エスタのことを知る人間との連絡はいつも通りだったし、連絡後に捕まったとしてもここまで配備されるまで時間がかかるはずだ。
しかしエスタの勘は逃げろと囁いていた。
懐から空の皮袋を取り出したエスタは中を漁る。指に触れるものは何もない。想定通りだ。
だがエスタは見事に血相を変え、慌てたように振る舞う。
「衛兵さん、街道沿いの水場に忘れ物をしたみたいだ。すぐに戻ってくるから手続きを進めててくれませんか?」
声をかけられた衛兵は先程までの表情をかき消してエスタの顔を見つめる。
まずい。そう判断したエスタは懐に隠していた短剣を固く握るが、次の瞬間には衛兵は笑顔を浮かべていた。
「そういうことなら仕方ない。後の奴を先に通すから並び直してもらわなければならないが」
「衛兵さんの仕事を邪魔するつもりはありません。忘れた私が悪いんだから並び直しますよ」
安堵が顔に浮かばないように注意しながらエスタは愛想のいい表情を保つ。
馬車を反転させたエスタは不審に思われないギリギリの速度で馬車を走らせた。
逃げる。エスタの心はすでに決まっていた。きな臭くなってきた。一度本国に戻ってから再度また考えよう。
街を離れて一時間しないくらいだろうか。背後から馬の蹄の立てる音が聞こえてきた。早足だが襲歩ではない。
「巻いた……はずだ」
主要な街道は避け、細い道を幾つも経由して進んできた。見つかるはずはない。
しかし、僅かな不安から幌越しに後ろを眺めたエスタの顔がさっと青くなった。
悪魔のような黒い鎧の一団。鎧に書かれた処刑人の鎌。間違いない異端審問官だ。
「やぁっ」
固まったのは一瞬エスタもベテランだ。馬に鞭打ち全速力で走らせる。
しかし、条件が悪すぎた。相手はかなり前からエスタを仕留めるために計画を練っていたのだから。
気づかれたことを察した異端審問官たちも即座にスピードを上げた。
馬車を引く馬と騎手だけを乗せた馬。どちらが速いかなどいうまでもない。
エスタに並んだ異端審問官が素早く槍を突き出してきた。
「くそっ」
間一髪回避したエスタの視界の端に反対側からやってきた異端審問官が映る。
「やめろ!」
エスタの叫びも虚しく異端審問官は必死に走っていたエスタの馬に深々と槍を突き出した
ドスっという重い衝撃が足に伝わり、馬がいななきながら前足で宙をかいた。
馬は地面に倒れ込み、荷馬車は御者台もろとも横転する。
「ガハッ」
着地の衝撃で空気を吐いたエスタ。横転に巻き込まれまいと離脱していた異端審問官が戻って来ていた。
取り囲まれたエスタが茫洋とする頭で自害するよりも早く頭を殴られ、意識を失った。
•••
閉店間際の店の雰囲気がメルは嫌いではなかった。うるさかった酔客も店を出てお父さんとお母さんが片付ける音だけが響いている。
今日は少し遅くまで店を開きすぎてしまった。どうしても帰らないお客さんをなんとか帰していたらいつもの時間を超えてしまったのだ。
机を拭きながらメルは小さくあくびをする。10歳の少女にとってこの時間まで働き続けるのは楽ではない。
「メル。それが終わったらもう寝なさい」
「はーい」
厨房から顔を出したお父さんに返事をしたメルは手慣れた動作で机を拭き終えた。
よし、と腰を伸ばしたメルの背後で扉が開く音が聞こえる。
「すいません、今日はもう……」
うんざりした顔で振り向いたメルの表情は瞬間的に凍らされたようにそのまま固まる。
店に入ってきたのは黒い鎧を着た兵士たちだった。異端審問官を知らないメルにはそれが幼い頃聞かされた物語の中の悪魔のように映る。
「どうした?」
異様な雰囲気を感じ取ったのかお父さんが厨房から出てきた。
穏やかだった顔が黒い兵士たちを見て瞬時に青ざめる。
反応したのは黒い兵士たちも同じだった。素早い動きで半円状に包囲し剣を抜く。
「ひっ」
包丁とは違う血の臭いが届きそうな鋼の怪しげな輝きにメルは小さく声を漏らした。
「メル!」
慌ててメルを庇うように前に出た父が鎧の悪魔から目を離さずにメルに囁いた。
「早く逃げるんだ」
「でも、お父さんは?」
お父さんは小さく振り返り、優しい笑顔でメルの頭を撫でる。
いつもと同じに見えてどこか儚い。それはお父さんの分厚い手が僅かに震えているからかもしれない。
「あなた!」
奥で片付けをしていたお母さんも駆けつけた。その手の中にあるのは抜き身の短剣だ。
普段はおっとりとしている表情は固く引き締められている。
「お母さん?」
メルの声には答えなかった。静かにお父さんと視線を交わしたお母さんはメルの手を掴んで強引に連れていく。
「ねえお母さん、お父さんを置いていかないでよ⁈」
「あなたを逃すのがお父さんの願いよ」
メルは頭を振る。わからないわからない。だってさっきまでいつもと同じだったのに。いつもと同じよう時間が過ぎるはずなのに。
聞こえてくる争いの音と悲鳴。メルは耳を塞いでしまいたかった。
大急ぎで地下室に駆け込み、扉に錠をかけた。
お母さんは奥の棚に手をかけて、力一杯押していく。棚は小さく古ぼけた扉を隠していた。
首に下げていたネックレスを取り出して鍵穴に差し込む。
重そうな扉を開けたお母さんは不安そうなメルの手を握り微笑みかけた。
「行きなさい」
「お母さんは?」
「後でちゃんと行くから」
「いや!」
メルは大声を出して首を振る。慌てて声のボリュームを下げさせようとするお母さんを無視してメルは訴えた。
「一緒じゃなきゃいや!」
「メル……」
「一緒じゃなきゃいやなの!」
瞳を潤ませたメルをお母さんは強く抱きしめた。
一瞬置いてからメルは顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
「ごめんね、ごめんね」
「どうして?どうしてこんなことになっちゃったの?」
泣きじゃくりながらメルはお母さんに問いかける。
「メル、この世界には命をかけても守らなきゃいけないものがあるのよ」
「守らなきゃいけないもの?」
「そう」
お母さんはメルと目を合わせて精一杯微笑んだ。涙で視界が歪んでいたメルは目を大きく開いてお母さんの顔を見つめる。
「あなたの守らなきゃいけないものもきっと見つかるはず。だから、行って」
部屋の外から扉を叩く乱暴な音と、斧を持ってこいという怒声が響く。
ビクリと体を震わせたメルをもう一度抱きしめてからお母さんはメルを隠し通路の中に押し込み扉を閉めた。
メルは泣きながら歩いていた。地下室の扉が強引に開かれた後も金属音と悲鳴が聞こえなくなるまで。
涙も枯れたメルは暗い通路の中ついに終点にたどり着いた。硬い扉に足をぶつけたメルは小さな悲鳴を上げると、首を振って扉を押す。
「重い」
それでもメルは扉にぶつかっていった。何度も何度も。
お父さんとお母さんになにが起こったか。想像できないほど子供ではなかった。生きてしまった自分は生き続けるしかない。
そう思いながら扉に体をぶつけていると不意に向こうから扉が開いた。
「おとうさ」
期待を滲ませたメルの声は扉の先にいた相手を見て止んだ。
扉の先にいたのは店に来た黒い鎧だ。
「見つけました」
「そうか、よくやった」
逃げようとしたメルの体を素早く掴み、通路から引き摺り出す。
都市の一角、古い住宅街に出たようだった。3人の黒い鎧がメルを囲んで立っている。
「殺しますか」
「いや、人質として使える。おい、娘兄弟はいるか?」
メルは怯えた表情で首を振った。黒い鎧は残念そうに肩をすくめる。
「事前の情報通りか。まったく兄弟の一人でもいりゃ一人殺して一人人質の正攻法が使えるのによ」
「隊長!」
「わかったわかった。おい、ずらかるぞ」
「了か」
風切り音が響いた。了解と口にしようとした兵士の首に矢が突き立っている。
残りの二人は思わず立ちすくむが、年嵩の方が硬直からなんとか脱却した。
「ふせろ!」
組みつくようにもう一人を押し倒した男の頭を矢が掠める。兵士は屋根の上を鋭く睨みつけ、腰から短剣を抜いて放った。
空気を裂いて進んだ短剣は狙い違わず人影の喉に突き刺さる。崩れ落ちた人影は転がりながらメルの側に落下した。死体を見たメルの喉から悲鳴がほとばしる。
「見たか。これがいたん」
勝ち誇っていた兵士は代わりに自身も矢を受けた。
「隊長!くそが!」
最後の兵士が怒声を上げながら剣を抜く。辺りを見渡してみれば路地の影から次々と人が沸いてきていた。
顔に被った仮面を見れば通行人でないことは明らかだ。
次々とナイフを取り出した仮面の男たちが兵士に突っ込んでいく。
兵士も必死に剣を振るうが数が違いすぎた。押し倒され鎧の隙間にナイフを突っ込まれた兵士はすぐに悲鳴も上げなくなった。
「くそ、ヒューイがやられた」
矢を打っていた男の側にしゃがみ込んだ男が口惜しげに拳を地面に叩きつける。
「ひっ」
飲まれていたメルはようやく意識を取り戻し、口から小さな悲鳴を溢す。
ナイフの男たちから一斉に視線を注がれメルは肩を抱きしめて小さくなった。
「大丈夫だよ。メルちゃん」
男の中の一人が進み出て仮面を外す。
「おじさん……?」
その男はメルの店の常連客だった。いつも優しくてメルも懐いていた。
「お父さんとお母さんは?」
メルが首を振る。横にだ。
一瞬、目に深い悲しみを宿したおじさんはぎゅっと目を瞑り、開き直す。
「メルちゃん、一緒に来ないかい?」
「ジョンおじさん!」
メルが答える前に男たちの中から咎めるような声が飛んでくる。
「一人にするわけにはいかない。私たちもこうやって集まっただろ?」
それもジョンおじさんの声で静まった。
「メルちゃん、もう一度聞こう。一緒に来るかい?」
メルは目を瞑りお父さんとお母さんの顔を思い出す。そして、小さくしかし確かに頷いた。
この日帝国全土でレジスタンスの拠点十数箇所が同時に襲撃を受けた。少数は殺され残りは公式な処分を経ずに拷問施設へ送られた。
神隠しにあったように忽然と姿を消した仲間にレジスタンスは恐怖し、帝国の魔の手を身近に感じた。
彼らは理解していた。数十人が発狂するまで拷問されることになったが全ては始まりにすぎないのだ。
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