6月1日
広之新
悪い夢
今日のおれは目覚めた時から気分がよくなかった。何か心に重しがのしかかっているようだった。多分、朝方に見た夢のせいなのだろう。だがその夢の記憶は時間とともに崩壊し、断片的にしか思い出せない。ただ焦げ臭い匂いが鼻に残っていた。
「そろそろお時間でございます。」
襖の向こうから声をかける者がいる。多分、乱だ。
「起きておる。いかがした?」
「そろそろご準備をと思いまして。」
「おお、そうであったか。」
おれは立ち上がって襖を開けた。もう日が高く上っている。今日はかなり寝過ごしてしまったようだ。
「御仕度を。」
乱たちが手早く俺を着替えさせた。もう客人が集まってきている。主としては出迎えねばならない。着替え終わったおれは外に出た。日が照って少し暑いほどだ。ここにいると日々の雑務を忘れさせてくれる・・・何しろ、物心ついた頃から気が休まる時がなかった。死に物狂いで突き進んだこともあった。死の恐怖におびえたこともあった。そんな時、おれは自分の勘に任せて行動してきた。何かの予感を感じるのだ。そうやって切り抜けてきた。
だが今は違う。恐れることは何もない。すべてが何事もなく順調に流れている。そんな不確かな予感に流されることなく、このまま進めばよいだけだ。
広間には多くの者が集まっていた。
「これはお待たせ申した。」
「いえ、今日は素晴らしきお道具を拝見できると聞き、早くから参上いたしました。」
主客の一人である大納言殿がそう返した。今日は盛大な茶会を開いたのだ。京にいる有力者が続々に集まってきていた。先の太政大臣様もお出でになる。それにふさわしいように所持している茶器のすべてを披露するのだ。準備はすべて万端、整えられていた。
だが茶会が始まってもおれの気分は晴れなかった。何かが心の中に引っ掛かっているのだ。あの夢のせいだ。だが思い出すことはできない・・・いや徐々に記憶の断片も消えてきている。不安を残して・・・。
「上様、お疲れでしょうか?」
そばにいた乱がおれを気遣うが、おれは首を横に振った。疲れや不安などあるわけがない。おかしなことが起こるわけがない・・・ただ今日の茶会を楽しむだけだ・・・おれは自らに言い聞かせた。
やがて酒宴になった。多くの者と酒を酌み交わすのはやはり愉快だった。難しい話は止め、日々のたわいもないことを話し、大いに笑い、酒杯を傾けた。するとしばらくして近くにいた息子もやって来た。
おれはこの息子が自慢だった。俺の目から見ても堂々として、どこに出しても恥ずかしくない。しばらく会っていなかったが、今日は雑務が早く終えたようでこの酒宴にも顔を出してくれた。
「父上。おひとつ。」
「うむ。しばらく見ぬ間にさらに立派になった。」
おれは愉快だった。息子とこうしてゆっくり酒が飲めるとは・・・。まだしばらくは忙しい日々が続くが、こんな日が来るとは少し前までは考えられなかった。
かつて窮地に追い込まれたこともあって、おれは何かにすがろうと考えたこともあった。しかし何者もおれに心の平穏を与えてくれなかった。いやむしろおれの行く道を妨害して、ひどく心をかき乱した。だからおれはそんなものに頼らなかっし、その存在を消すこともあった。信じられるのは自分だ。自分の勘と予感だけだった。
おれは気分よく酩酊していた。夜遅くなり、息子も客も帰って行ったが、おれはまだ目が冴えていた。囲碁の名人に碁を打たせ、それを横から見ていた。こうするといろんなものが見えてくる。酒に酔っていても頭は冴えている。これからやるべきことがはっきりして、明日からの道筋が見えてきていた。これでもう安心だ。今朝の悪夢のことなど、おれは忘れかけていた。このまま楽しく寝て、明日はさわやかな朝を迎えるだろう。
横になってしばらくしておれは起きた。外が騒がしいのだ。寺の中も多くの者が走り回っている。
「何事だ!」
おれは大きな声を出した。すると襖を開けて乱が飛び込んできた。目を血走らせ、息を切らしていた。その様子からただならぬことが起きていることがわかった。
「兵が押し寄せております!」
「なに! 謀反か! 誰じゃ!」
「旗印から明智勢かと思われますが・・・。」
乱は明智が謀反を起こしたことをまだ信じられないようだった。だが俺にはわかった。乱の言葉を聞いたとき、あの悪夢が急に頭に蘇って、はっきりと思い出せたのだ。夢の中でおれは明智勢に囲まれて、寺に火を放って死んだのだ。それが現実に起きようとしている。あれは予知夢だった。もう逃れることはできないだろう。
「是非に及ばず・・・」
日向守が俺を殺すためにこの寺を襲ったのは確かなのだ。疑う余地はない。あとは夢の通り、弓を射って戦い、火の中で腹を切るだけだ。
「弓を持て!」
おれはそのまま外に出て行った。
6月1日 広之新 @hironosin
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