第57話 サイドストーリー①




 気がついた時には私は母と二人暮らしで貧乏だった。貧しい生活で、無学と貧乏をとことん恨んだ。


 私は学生時代から必死に勉強して、奨学金を借りて大学まで行った。そのおかげか、そこそこいい会社に就職出来た時、母はとっても喜んだ。


 入社できたからといってそこで終わるつもりはなかった。女だからと馬鹿にされないよう毎日必死に働き、いつしか「頼りになる女性」として周りに認識され、入社して三年経った頃、うちの会社でも一番の花形部署に移動となった時、自分の今までの苦労が救われた気がしてホッとした。




「茉莉子! さすがだね、やったじゃん!」


 友人の香苗が私に抱きついて言ってくれた。私は顔を綻ばせて言う。


「ありがとう。香苗と離れるの寂しいけど頑張る」


「茉莉子ならみんな納得だよねー!」


「どうかな。なんか裏で陰口叩いてる人たちがいるのは知ってる。ま、気にしてないけどね」


 私は苦笑して言った。


 どうやら自分がそこそこ恵まれた容姿である、ということは感じていた。得することはある。でも逆に反感を買うこともある。仕事を成功させた時やこうやって移動が決まった時、「顔で選ばれた」「裏で男に媚びてるから」という陰口を叩かれることもあるのだ。


 だが私は気にしていなかった。とにかく働いて結果で黙らせればいい。そう心の底から思っている。


「まあ、茉莉子に嫉妬してるんだよ。気にしなくていいよ。

 それよりさ、天海さんと働けるの羨ましいんだけど! いーなーいーなー!」


「ああ……天海さん、ね」


 名前を聞けば流石に知っている。この会社の社長の一人息子だからだ。もちろん将来は会社を継ぐことになるだろう。今はまだ修行の身なのか、一社員としてバリバリ働かされているらしい。


 噂に聞くに、かなり顔もいいとか。女子社員が騒いでいるのをよく耳にする。それでも誰も彼に手を出せないのは、どうやら幼い頃から決められた婚約者がいるらしいからだ。この時代に本当にそんなことあるんだ、と感心してしまう。


 だから社員みんなは指を咥えてその人を見てるだけ、というわけだ。私は興味がないので顔も知らないけれど。


「結婚相手決まってるんでしょ」


「あの顔見ながら働けるだけで幸せだと思うよーいいなあ」


「興味ないかな」


 私の発言に、香苗は不満気に頬を膨らませた。


 事実だった。未来の結婚相手も決まってるお坊ちゃん。苦労してきた自分とは違うエリート。嫉妬だと言われればそれまでだが、そんな恵まれている人苦手なのだ。






 部署を移動し、その噂の天海さんとやらを一目見た瞬間、あーこれは女子社員が騒ぐだろうな、と納得した。


 美青年、という呼び名が相応しい人だった。色素の薄い瞳や髪は作り物のようで、物腰も柔らかく、天は二物を与えずという諺が音を立てて壊れるようだった。


 恵まれたお坊ちゃんかと思いきや仕事はかなりできた。細かい部分まで気が回り、勉強させられることが多くある。私は素直にこの人の下で働けることを嬉しく思った。彼に必死について回った。


 ある日移動して少しした頃、取引先のパーティーに参加するよう上司に命じられた。正直驚いた、まだ仕事に慣れていない自分が行くとは思わなかったのだ。


 けれど天海さんも一緒と聞いて安心する。そうか、これも勉強のうちの一つかなと思い、とにかく彼の足を引っ張らないようにと気合を入れて臨んだ。





「へえー! こんな美人さんいたの?」


「新田茉莉子と言います、よろしくお願いいたします」


 私は挨拶をしながら頭を下げる。気の良さそうな相手は、矢代という六十代ほどのハゲたおじさんだった。今現在重要な取引をしている相手で、機嫌を損ねないように、と自分に言い聞かせる。


 相手は顔がやや紅潮していた。手にワイングラスを持っているが、ほぼ空だ。立食パーティーは始まって間もないが、結構飲んでいるらしい。


 隣にいる天海さんが私を紹介してくれる。矢代は笑顔で聞いている。好感触だ、と感じた。


 私は彼の持つワイングラスを見て言う。


「矢代様、飲み物は同じものでよろしいですか?」


「お、気がきくねー! ああ、次も赤ワインにしようかな」


「では私お持ちし」


「天海さん、頼んでいいかな?」


 私が行こうとしたのを矢代が止める。下っ端の私がドリンク運びは当然なので慌てるが、天海さんは素直に返事をしてドリンクを取りに行ってしまう。


 なんとなく心細さを感じながらそれを見送ると、この時間でもいい印象を持ってもらわねば、と気合を入れた。


「あれ、新田さんは飲まないの?」


「ええと、私アルコールは弱くて」


「そんなこと言わずに一口でも。ほら」


 矢代は近くにあるテーブルに手を伸ばし、置かれてあったグラスを手にする。そして瓶ビールを手に持つと私に笑いかけた。心の中で舌打ちする。


 仕方ない、少しぐらい飲むしかないか。


 笑顔でグラスを受け取りビールを注いでもらう。それに口をつけようとした瞬間、腰に違和感を感じて動きを止めた。生温かい手が私の腰に回されていた。


 ちらりと矢代を見る。彼は至近距離でニコニコしていた。


(……くそおやじが)


 そう心の中で呟きながらまさか口に出すことはできず。そして、今日上司が私をここに来させたのはこうやって相手の機嫌を取るためだったからだろうか、と思った。


 おかしいと思ったんだ。まだ慣れていない私をぽんと接待に行かせるなんて。せめてもう少し仕事に馴染んでからじゃないのか普通。


 そうわかってしまうと、苛立ってたまらなかった。結局女だから、外見がいいからという理由で使われるのが一番嫌なこと。これまで努力してきたのを否定された気分だった。


 それでもここで拒否することもできず、私は笑顔を保持したままビールを飲もうとした。


 すると突然、そのグラスがひょいっと奪われた。驚いて顔を上げると、いつのまにか戻ってきていた天海さんが涼しい顔をしてこちらを見ている。ニコリとして言う。


「すみません、新田はアルコールが飲めず。僕が頂きます。こちら赤ワイン、どうぞ」


 そう言った天海さんは、ワインを渡しながら自然と私と矢代の間に割って入った。矢代も特に何も言わず

ワインを受け取った。


 それからまるで私の壁になるように、天海さんは矢代と仕事の話で盛り上がっていった。






「あの……さっき、ありがとうございました」


 帰り道、私は天海さんにお礼を言った。あれは明らかに、セクハラされてる私を助けてくれた。スマートで感心せざるを得ない。


 天海さんは歩きながらああ、と思い出すように言う。


「ごめん、あんなことするタイプだとは知らなかった。今後は二人きりになんてさせないから。

 新田さんも、ああいう時は無理してお酒とか飲まなくていい。セクハラもできるならさっと避けて僕に教えてくれればいいよ」


「相手の方の機嫌を損ねるかと思いまして……」


「セクハラなんてする相手の機嫌なんか損ねればいい。無理に付き合わなくっていい、媚びる必要なんかない」


 サラリと言われた言葉に目を丸くする。そんなこと言っちゃっていいの、そりゃ未来の社長さんだとしても。


「え……でも今日、私が接待に行かされたのは、矢代さんの機嫌をとってこいという意味かと思いまして」


 正直にそう言ってみると、天海さんは目を丸くしてこちらを見た。そして呆れたようにいう。


「誰かそんなこと言ったの?」


「い、いえ。そうかなと感じただけです」


「それは間違いだよ。新田さんは有能だからうちの部署に来てもらったわけだし、今日だって早く相手の顔を覚えたりしてもらいたかったから呼んだだけのこと。

 君が女性だからだとか、外見がいいからだとかそういうことは一切関係なし」


 キッパリ断言した彼を見て、なぜか恥ずかしくなって俯いた。


 今まで裏でコソコソ言われてきた陰口を、彼が一刀両断してくれたように思えた。女だから、外見がいいから、そんなことは関係なく中身だよと言われた。


 私が一番欲しかった言葉。


 油断していた心臓が速まるのを感じた。同時に、自分を必死に止める。そんなのは無駄なことだ、こんな終わりが分かりきっている想いはいけない。抑え込まなくては。


 そう自分に言い聞かせるも、ちらりと隣を見た時、真っ直ぐ前を向いている横顔があまりに凛として美しく、私は落ちた。


 その日、私は恋をして、そして失恋した。




 彼の婚約者と呼ばれる人のことを香苗に聞いてみると、藤田家の長女だということを聞いた。なるほど、同じ規模の会社の社長令嬢との結婚か。


 SNSで藤田綾乃という人を調べてみるとすぐにヒットした。そこにある写真を見て、私は初めて絶望というものを思い知った。


 あまりに綺麗な人だった。女の私から見てもうっとりするほど美しく、上品で、でも垣間見える意思の強そうな瞳が魅力的に思う。天海さんと並んでいる姿を想像するだけで、似合いすぎる二人だ。こんな出来すぎたカップル、そりゃみんな手を出す気にもなれない。


 落ちていた心は更にドップリ落ちてしまった。


 叶うわけない。


 一人で散々泣きはらしたあと、この気持ちは秘めておこうと誓った。その代わり、仕事で誰よりも彼の役に立てるように頑張る。


 外見だって手抜きしない、この藤田綾乃という人を目指して綺麗な女を追求する。


 望みはなくても、もし万が一……二人の婚約がなくなるようなことがあったら、その時すぐ頑張れるように。私は微かな希望にかけて自分を磨いた。


 だが、私のそんな希望は打ち砕かれた。


 彼の下で働くようになって一年以上。私は仕事と自分磨きだけを必死にやってきた。仕事に関しては、天海さんからもそれなりの評価を得られている自信はあった。それだけで幸せといえば幸せだった。


 しかしある日、ついに彼が結婚するという噂が会社中を走った。やはり相手は藤田綾乃という子供の頃からの婚約者で、式場なども決められて順調に話が進んでいるらしかった。


 分かりきっていた絶望が再び私を襲った。


 とっくの昔に失恋していたのに、今更嘆くなんて情けない。それでも、私は泣かずにはいられなかった。





「茉莉子ーー! 聞いた? 聞いた!?」


 泣いて眠れぬ夜を過ごした翌日、早朝から香苗が鼻息を荒くして私に電話を掛けてきた。その大声に頭痛を覚えながら適当に返事をする。


「何が? もう、朝早く一体な」


「天海さんの結婚相手、当日に逃げたんだって!」


 興奮した声とは逆に、私はただ全身が停止した。


 友人の言う言葉が理解できなかった。逃げた、とは? 写真で見た藤田綾乃の顔が思い浮かぶ。


「……え、な、なに?」


「だから! 天海さんの婚約者、当日来なかったみたいなのよ!」


「え、じゃ、じゃあ」


 電話を強く耳に押しあてて聞き返す。ということは、天海さんの結婚がなくなったということ。その知らせは、泣いて目を腫らしていた自分にとっては朗報だった。まだ彼を諦めずに済むかもしれないと。ただ、あれだけ素敵な人が当日花嫁に逃げられたなんて、彼の心中を考えると胸が痛むが。


「違うのよ茉莉子。

 急遽妹の方と結婚したんだって」


 その言葉は、喜びで舞い上がった私を地に落とした。


 香苗の話はこうだった。結婚式に参加した人たちが、スタッフの慌てた様子に気づく。見れば、藤田綾乃という名前が書かれているものは回収され、代わりに司会者は藤田咲良、と名を呼んだ。


 式は綾乃の方ではなく、咲良の方が現れた。


 花嫁は緊張からかガチガチになっていて、見ている人たちみんなが気づくほどだった。恐らく両家のことを考え破談にできず、急遽妹と結婚する羽目になったらしい、という噂だった。


 愕然とした。


 お似合いだと思っていたカップルは片方が逃げ出し、当日全くの別人と結婚するだなんて。果たして天海さんはどう思ったんだろう、好きだった人に逃げられて、更にはその妹と結婚させられた。


……いや、わかっていた。


 自分は嫉妬に狂っていた。


 もし私がその場にいたなら、迷わず彼の隣に立候補した。自分の家が藤田家のような大きな家だったら、それができたんだろうか。これまでずっと頑張ってきたのは、好きな人のこんな結末を見るためじゃない。幸せそうにしてくれているならそれで諦めがついたのに。




 生まれて初めて、心の中に黒い塊ができた。


 


それは今まで体験したことのないようなもので、自分でも戸惑った。


 それから時間がたってもその黒いものは消えることなく、徐々に大きくなっていくことに気がついていた。決定的だったのは、結婚した天海さんの忘れ物を届けにきた藤田咲良を見た瞬間だ。


 藤田綾乃とまるで似ていない少女に唖然とした。化粧気もなく、大学生どころか高校生に見えるかもしれない幼さ。自信なさげな瞳。自分が今まで目指してきた女性像とかけ離れている。


 これまで、天海さんに少しでもよく思ってもらいたくて頑張ってきた。それなのに、まさか正反対の女性と結婚することになるなんて。


 あまりに悲しくて悔しくて、口をひらけば棘のある言葉ばかりが漏れた。多分咲良も気づいていた、困ったように視線を落とすだけ。それでも私は止まれなかった。


 藤田家という何不自由ないいい家に生まれ、そのおかげであの人と結婚できている。そんな考えが、どうしても私から拭えなかった。





 会社の創立記念パーティーに夫婦で参加することになった二人は、仲良さそうに、それでいてどこかたどたどしい様子で会場にやってきた。


 着飾った藤田咲良は、かわいらしかった。化粧映えする顔だちなのかもしれない。所作や振る舞いも文句がなく、やはりいいとこのお嬢様はなんだかんだ育ちがいいんだなと素直に思った。


 でも口に出すのは悔しかったので、私はなるべく二人を見ないようにしていた。仕事に打ち込み、パーティーの進行や重要な仕事相手に挨拶をするのに必死で立ち回り、二人を視界から排除した。


 そんな時、隅の方で壁にもたれている女性を見かけた。私は水を手に持ち、すぐさまその人の方へ向かった。


「奥様、大丈夫ですか? ご気分でも?」


 天海さんのお母様、つまりは現社長の奥様が、暗い顔をしているのに気がついた。彼女は私に力無い微笑みを返し、水を受け取ってくれる。


「ありがとう、気がきくわね」


「いいえ。人酔いでしょうか。一旦出られますか?」


「いいの、原因はわかってるから」


 そういう彼女の冷たい視線の先を見てみると、あの二人がいた。誰かと談笑しているようで、並んで笑っている。そんな姿を見ただけでずきりと胸が痛んだ。


 奥様は言う。


「どう思いますか、あれを」


「え? ええ……咲良さんは初めてのパーティーですよね、よく頑張られているのでは」


「あなたにはあれが夫婦に見えますか? 私には兄と妹にしか見えません」


 奥様の言葉をきき、私も再び二人を見た。突然結婚することになった夫婦だ、馴れ合ってる方が不自然。もとは姉の婚約者なのだし、やや距離があるのも当然と言える。


 今日は着飾って大人びた咲良だが、あどけなさは残っている。年の差もあり、二人が兄妹に見えるのも仕方ないことでもあった。奥様は続ける。


「まあ、今日はうまく化けていると思いますよ。でも私は知ってるんです。あの子は幼い頃から人見知りもすごいし内気な子で。挨拶もうまくできず人の後ろに隠れるようなことばかり。蒼一がそれをフォローしていたけれど、だから兄妹にしか見えないのかしら」


「まあ、お二人は年も少し離れていらっしゃるから」


 私の言葉に、奥様ははあと大きなため息を漏らした。そっちを見てみると、彼女は私が持ってきた水を一口飲んで言った。



「あなたが蒼一の相手だったらよかったのに」




 その言葉を聞いた途端、ぎりぎりだった自分の心が破裂した気がした。ずっと渦巻いていた黒い感情がなお膨れ上がる。それは私の全身を包んで支配する感覚だった。


 天海さんの隣が私だったら。そう、あの人の母親が言ってくれている。


 彼のために努力を重ねた毎日だった。役に立ちたくて、少しでも好かれたくて、必死に頑張った日だった。それを奥様だけがわかってくれる気がした。


 どうしても、あの人の隣にいたい。


 拳を強く握りしめた。わかっている、奥様が漏らしたあんな一言に深い意味はない。多分藤田咲良を気に入らないから、私を引き合いに出しているだけなのだ。


 それでも、私の崩れた心はもう元には戻らなかった。


 パーティーが終了した後、天海さんにそれとなく夫婦について尋ねると、言いにくそうに言葉を濁された。ああ、やっぱり奥様の言うように夫婦としてはうまくいっていないんだと再確認する。


 それでも、私がここで天海さんに告白したとしても受け入れてもらえないことは百も承知だった。彼は真っ直ぐで決して人を裏切るような真似はしない。そう思うと私も告白はできずにいた。


 ふと思い立ち、藤田咲良の素行調査をプロに依頼してみた。もし何かあれば、天海さんも夫婦について考え直してくれるかもしれない。そんな浅はかな考えだった。

 

 とはいえ、あの藤田咲良がそんな変な情報を持っているとは思えなかった。見ていればわかる、彼女は男遊びをするようなタイプではないだろうし、どう見ても育ちのいいお嬢様だからだ。私は特に期待せずに調査報告を待っていた。


 ところが、だ。


 報告書に添えられていたのは外で男に抱きしめられている彼女の写真だった。それを見た瞬間、衝撃で息が止まるかと思った。同時に沸き上がる、怒りと呆れ。


 もし私が天海さんと結婚できたら。白昼堂々とこんなことなんてさせない。男と二人で出かけることだってしない。あの人を悲しませることなんて絶対にしないのに。


 写真はこれのみで、不貞を示すには不十分だとわかっていた。よく見れば相手の男が咲良に抱きついているのであって、熱い抱擁というわけではないのもわかっていた。


 それでももう、私は止まれなかった。



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