第51話 二人の未来



「すぐにここは引っ越そうと思う」


 お風呂から上がり、久々に入る蒼一さんの寝室でベッドに腰掛けて待っていた。彼も入浴を済ませ、部屋へ入ってくる。どきりとした私をよそに、隣に腰掛けた蒼一さんは第一声にそう言った。


「え?」


 私は聞き返す。彼はまだ毛先を少し濡らしたまま言った。


「ここはあまりにうちの家と近すぎる。新田さんも知ってるし。だからすぐにどこか引っ越そう」


「すぐにですか?」


「本当はマンションとか、家とか買って引っ越すのが一番なんだけど、選んでる時間もないからね。どこでもいいから賃貸を借りて引っ越す。明日にでも探しに行こう」


 真剣な目でそう言ってくれた。まさかそんなことを提案されるなんて思ってなかった私は驚く。蒼一さんは眉を顰めて言う。


「もう二人には絶対接触しなくていいから。あれで懲りたといいんだけど。そうだとしても、顔見るだけで気分悪いでしょ?」


「そ、そんな」


「僕は気分悪いよ。まあ、僕が言うなって話なんだけどね。僕が一番咲良ちゃんを傷つけてたから」


 少しだけ視線を落として蒼一さんが言った。その切なげな表情を見て、私は強く首を振る。


「そんなことないです。私も気持ちを隠してたのがいけなかったんです」


「ううん、あまりに馬鹿だった。早くちゃんと自分の気持ちを伝えてればこんなことにならなかった。謝っても謝り切れることじゃない」


 そう言った蒼一さんは、揺れる瞳でこちらを見た。そして真剣な声色で言う。


「自分でも知らなかった。こんなに臆病だったなんて。仕事だって人間関係だって、今までそれなりに軽くこなしてきたつもりだったのに、一番大事な時にだめだった。

 これからはもうちゃんとする。絶対にもう咲良ちゃんに悲しい思いはさせない」


 あまりに強い視線で見つめられ、私は動けなくなった。


 私にとって蒼一さんは大人でいつでも余裕があって、そんな彼が自分を臆病だと言っているのは驚きだった。でもなぜかそんな言葉が嬉しい。


 早くなっていく心臓の音を自覚しながら、私は小さく頷いた。そして答える。


「ありがとうございます……。臆病なのは私も同じです、蒼一さんと同じように、これからはちゃんとします。蒼一さんこそ、何か不満があったらどんな小さなことでも言ってください。必ず直します」


「不満なんて」


 驚いたように目を丸くした蒼一さんは、すぐに考え込むように唸った。そして何かを思い出したような表情になると、立ち上がり私の正面に立った。彼の顔を見上げると、私の手をそっと取る。


「不満じゃないんだけど、一個聞いておこうと思ってた。なんで蓮也くんの家にいたの?」


「え」


 蒼一さんはどこか困ったような顔をしていた。私は慌てて説明する。


「朝たまたま会ったんです……! 私の様子を見て心配してくれて、家に来ていいよって。実家に帰って色々聞かれるのは辛いなと思ってたから、彼の言葉に甘えたんです」


「ふうん……」


「あ! あの家は蓮也の一人暮らしじゃないですよ、朝はお姉さんもいて。夜にはバイトから帰ってくる予定だったんです」


 私の説明にも、どこか彼は不満そうな顔をしていた。怒っている、とはまた違う顔だ。悲しげで拗ねたような顔で、そんな蒼一さんの顔は初めて見る気がした。


「何してたの?」


「お茶して、あとは眠くて私は寝ちゃってました」


「……ふうん……」


「…………あの、もしかして、妬いてくれてますか?」


 恐る恐る、聞いてみた。そうであってほしいという私の願望でもある。だって、蒼一さんのこんなところ見たことがないから。


 すると彼は即答した。


「めちゃくちゃに妬いてる」


「…………」


 唖然として彼を見る。蒼一さんはふうと一つ息を吐くと、頭を掻いて言った。


「ま、僕のせいで出ていく羽目になったんだから、妬く立場じゃないことは承知の上」


「蒼一さんも妬いたりするんですか?」


「あたりまえ。前に二人で出かけるって言ってた時も本当は止めたかった。独占欲がなきゃ、結婚式であんなゲスな計画立てたりしない」


「あは、ゲスって」


 蒼一さんらしくない言葉につい笑ってしまう。ちょっとらしくないけど、これも蒼一さんの顔の一つなんだろうか。そういえばイライラしたときくそ、って言ったりして。


 笑っている私の頬に突然彼が手をのばした。それだけでどきんと胸が高鳴り、笑いなんて一気に引っ込んでしまう。頬が火傷したみたいに熱い。


「ごめんね、嫉妬深くて」


 間近で彼が言った。私は体をこわばらせたまま小さく首を振る。


「い、いえ、むしろ大歓迎ですが」


「はは、大歓迎?」


「なんで蒼一さんがそんなに私を想ってくれてるんだろうって疑問ではあります、お姉ちゃんみたいに美人でもないし不器用だ」


 私が言いかけている最中に、その口を塞ぐように彼は唇を押し当てた。突然のことに驚く。でも未だ慣れないその行為に応えたくて、ただ必死に受け入た。それでも苦しい、息ができないほどに。


 頭がぼうっとする感覚の中で、彼が少しずつ力を増して私は後ろに倒れ込んだ。背中に少しひんやりしたシーツの温度が伝わる。はずみで二人の唇が離れた。見上げると、髪を垂らして私を見下ろしている蒼一さんの顔が見える。


 私は彼を見上げながら小声で呟いた。


「蓮也と一緒にいるのは楽で、肩の力が抜けました。

 でも同時にわかったんです。蒼一さんといるといつもドキドキして緊張するのは、やっぱり好きだからだって」


 私が言うと、蒼一さんは少しだけ目をみひらいた。が、すぐにため息を漏らして目を瞑る。私は不思議に思い首を傾げた。


「あー、うん。あれだ」


「え?」


「煽る言葉としては百点だね」


 そういって僅かに口角を上げた彼は、深い深いキスを私にくれた。緊張と嬉しさの間で自分が潰されそうに思う。


 そしてそのキスが首に降りてきた時、自分の体が跳ねた。それでも彼は肌から離れず、小さく囁いた。


「咲良」


 ふわりとシャンプーの香りがした。同じものを使っているはずなのに全然違う香りに感じる。自然と自分の目に涙が浮かんできた。


「たくさん傷つけた。本当にごめん。

 でも、私は絶対に君以外を好きにならない。それだけは信じていて」


 ついに、自分の目から涙がこぼれ落ちた。


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