第52話 二人の未来②
私は知らなかった。
好きな人の瞳に自分が映ることがこんなにも幸福だなんて。
押し潰していた自分の気持ちを受け取ってもらえることは奇跡みたいなことで、努力だけではどうにもならないこともある。
子供の頃から夢見ていた彼の隣が、本当に私の居場所になる日が来るとは思ってなかった。
私の様子を見ながら、彼は優しく肌を撫でた。そして何度もキスを重ねた。そっと触れてくれるそれは、まるで宝物を触る子供のようだと思った。
蒼一さんが触れた瞬間、そこの肌は熱くなる。それは初めて命を持ったようだった。くすぐったいような、心地いいような不思議な感覚に包まれて、私はもう何も考えられなくなっていた。
自然と自分の口からは吐息が漏れた。そしてまた馬鹿みたいに涙がじわりと浮かんでくる。それに気づいた彼は、何度もその手で私の涙を拭いてくれた。しっかり蒼一さんの顔を見ていたいのに、涙で濡れたまつげでぼんやり視界が揺れる。
私の首元に垂れる彼の髪に気づき、そっと手を伸ばしてそれに触れた。サラリとした色素の薄い髪で、心のどこかで触れてみたいと思っていた。少し蒼一さんの動きが止まるのがわかる。それでも、彼は何も言わずに私の好きなようにさせてくれた。気持ちいい髪を何度か撫でる。
心臓は今にも止まってしまいそう。多分、彼にも聞こえてる。
蒼一さんに何度も落とされるキスは慣れることはない。角度を変えるだけで味も変わるように思えた。脳内は沸騰寸前。そんな私を気遣ってか、彼は何度もぎゅっと抱きしめてくれた。
私とはまるで違う長い指、広い肩幅、低い声。その全てを忘れたくないと思った。今、この世界に存在しているのは私たち二人きりのような錯覚に陥りながら、私はそんなことを考える。
幸せで、心地いい。
蒼一さんに抱きしめられ、二人の体温が溶け合うと、またしてもぐっと温度が上がる気がした。
好きでよかったんだ。
私、この人を好きでいていいんだ。
死ぬわけじゃないのに走馬灯みたいなものが目の前を走って笑った。お姉ちゃんについて蒼一さんの家に遊びに行った日のことや、イチゴのケーキを譲ってくれたこと。おままごとを根気よく付き合ってくれたことや、下手くそな似顔絵をあげて喜んでくれたこと。数学を教えてくれたこと、結婚式に私の手をとってくれたこと。
その全てが今、ここに繋がっている。
「大丈夫?」
ふいに蒼一さんが顔を上げて私を気遣いたずねた。声も出せずに頷く。またしてもいつのまにか流れていた涙を、蒼一さんが指先で拭く。
「なんか、体ガチガチ」
「緊張は、してます。だって今まで手をつなぐぐらいで必死だったんです。ぎゅっとするのでさえ死にそう。でも、これは嬉し泣きです」
「そっか、嬉し泣きか」
「だから、大丈夫です」
小さく蒼一さんが笑う。私の髪を優しく撫でた。
子供の頃もよく頭を撫でてくれたけど、その時とはまるで違う感覚。私はぼんやりと蒼一さんの顔を見上げた。バチリと目が合うと、彼はおもしろそうに言う。
「髪。触るの好きなの?」
「え?」
「さっき何度も僕の触ってたから」
「好きっていうか……触ってみたいな、って思ってたから」
そういうと、彼は突然ふざけたように私の肩に頭をぶつけた。髪の毛が触れてくすぐったくなる。私は笑った。
「どうぞ、お好きなだけ」
「あは、どうぞって言われるといらないです」
「いらないって。急に冷たいじゃん」
蒼一さんも笑う。二人の笑い声が重なり少し経つと、彼は私の手をそっと取った。開いた私の掌を見て微笑む。
「力抜けた?」
「え?」
「緊張で拳握り締めてたでしょ。手のひらに爪の跡ついてる」
「あ……」
気づかなかった。自分で確認してみると、確かによほど強く拳を握っていたらしくくっきり爪の跡がついている。
蒼一さんはもう拳と作らせまいというように指を絡めて手を握った。私もそれを握り返す。
「力抜いて」
蒼一さんがそう微笑んで囁いた。言われたばかりだというのに強張ってしまった自分を落ち着けるために、ひとつだけ息を吐く。
手のひらに伝わる体温が心地いい。ずっとこうしていたいと思う。
蒼一さんが私の額にひとつキスをした。ぼんやりと見上げる彼の顔は、情けないことにまたしても涙で滲んで見えなかったのだ。
目が覚めた時、やけに頭がスッキリしていた。あ、寝坊したかも。覚醒して一番最初に思ったのはそれだった。
だがほぼ同時に、間近に白い肌が見えてギョッとした。蒼一さんは面白そうに笑って私を見ていたのだ。
「そ、蒼一さん!」
「おはよ。よく眠れた?」
慌てて起きあがろうとした私の腕を引っ張り、彼は再びベッドに寝かせた。私は恥ずかしさで顔を熱くしながら非難する。
「起きてたなら起こしてください、もしかして寝顔見てたんですか!」
「うん、せっかくだからしっかり観察しといた」
「もー! やめてください、絶対不細工な顔してたし」
「可愛かったよ。よだれ垂れてたのがとくに」
「前もそんなこと言っ……うわ、ほんとだ」
口の端を触ってみたら本当に濡れてたので慌てて拭いた。そんな私をみながら彼は声を上げて笑う。私は軽く睨んで見せた。いっつも蒼一さんばかり余裕なんだから。
「今度は絶対私が先に起きて蒼一さんの寝顔観察しまくります」
「はは、恨まれた。ずっと見てたわけじゃないよ、ちょっと僕の方が早く起きただけ。起こそうかなーと思ってたら咲良ちゃんが起きたから」
目を細めながら私を見てくる。たったそれだけの光景に、つい胸が苦しくなった。
初めの頃一緒に寝てた時はお互い背中を向けて、いつもどっちかが先に起きていた。こうしてお互いの顔をみながらふざけるなんて、一度もしたことがなかったのに。
でもやっぱり……よだれは恥ずかしいな……。
蒼一さんは大きく伸びをしながら言った。
「ゆっくりしてから不動産屋行こうか。引っ越しの準備もすぐにしよう」
「本気なんですね、昨日言ってたこと」
「うん。早い方がいい」
引っ越し、か。まだそんなに長い時間暮らしたわけでもないけど、お別れするのはなんだか寂しい。でも新しい場所で一からやり直すのもいいかもしれない、とも思う。
きっとどんな場所でも楽しい日々になれるはずだと確信している。
「新しいとこなんか希望ある? ここは譲れない、とか」
「ええ、何でしょう……蒼一さんが出勤しやすいとこがいいんじゃないですか?」
「僕のことじゃなくて咲良ちゃんのことで考えてよ」
呆れたように、でも笑いながら言う。私はううんと唸りながら考え、そんなにこだわりなんてないんだけどなあ、と思う。あ、でも……
「コンロは二つほしいです」
「はは! まさかそんなところから言われると思わなかった。
そういえば、ここ最近の料理もずっと咲良ちゃんが作ってたんだって? 山下さんから聞いた」
嬉しそうに言った蒼一さんに、そういえば教えるタイミングを逃していたことを思い出す。驚かしてやろうと思って黙っていたけど、彼のそんな顔は見ることは出来なかったな。私は小さく頷いた。
「山下さんに教わって」
「すごいね、全然気づかなかった。たった三ヶ月で山下さんの味マスターだ」
「とんでもないですよ、山下さんの教え方が凄く上手だったからです。それにいまだに失敗するんですよ、鍋吹きこぼして掃除するのが億劫なんです」
蒼一さんの笑い声が寝室に響いた。釣られて私も笑みをこぼす。たわいない会話だが、昨日までとは全然違うと思えた。幸福な時間を噛み締めていると、蒼一さんの笑い声が収まる。ぼうっとどこかを見つめ、長いまつ毛が揺れる。何か考えるようにしたあと、彼は私を見て言った。
「それともう一つ提案なんだ。昨日の夜思ったんだけど」
「はい、何かありましたか?」
「結婚式、しない?」
思ってもみない言葉に目をまん丸にした。結婚式、とは? 私たちはとっくに済んでいるものなのだが。
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