第44話 咲良の答え④

 慌てて顔を引っ込め、背を向けてその場にしゃがみ込んだ。バクバクと心臓がおおきく鳴り響く。


 嘘、どうして蒼一さんが? なんでここが。ううん、それより何をしに来たんだろう。


 もう一度顔を見て話したいと思っていたくせに、予想外のことにただ驚きで呆然とする。そんな私の背中に、蒼一さんの声がぶつけられた。


「咲良ちゃん、聞いてほしい。話したいことがある、出てきて!」


 聞いたことのない蒼一さんの声だった。切羽詰まった苦しそうな声。そんな声を聞いて私は狼狽える。ただパニックになった頭で声を張り上げた。


「す、すみません勝手なことして……! でもその、もうあとの手続きは蒼一さんにお任せしたくって、私はも」


「離婚なんてしない!」


 背後からそんな言葉が聞こえてきて停止した。膝を抱えたまま瞬きも忘れて唖然とする。


 離婚しない、って、どうして? だって、蒼一さんが断る理由なんて何もないはずじゃない。なぜここでそんなことを言うの?


 頭がぐるぐると回りながら、私は出てきた言葉そのままを声に出した。


「ど、どうしてですか。だって蒼一さんは新田さんがいるし、私となんて一緒にいても天海家のためにもならないから、だから」


 あなたが好きだけど諦めたのに。


 しどろもどろでそう言った時、蓮也の慌てた声が聞こえた。しかしそれとほぼ同時に、自分の後ろにあった扉が勢いよく開いたのに気がついた。ふわりとした風が吹いて私の髪を揺らす。反射的に後ろを見上げてみれば、好きでたまらない人の顔がそこにはあった。


「……蒼一、さん」


 さきほど一瞬みただけでは気が付かなかった。彼は普段とまるで様子が違っていた。


 いつもビシッと着こなしているワイシャツはよれてシワができている。サラリとした髪は風に煽られたのか乱れており、額には汗を流して私を見下ろしている。


 固まったまま彼を見つめた。その顔を見ただけで、抑えていた気持ちが溢れてしまいそうになりぐっと堪える。


 一時の間があったあと、蓮也が蒼一さんの後ろから現れ、彼の肩を掴んだ。


「ちょっと待て、勝手に入るな」


「ごめん蓮也くん。咲良ちゃんは返してもらう」


 蒼一さんはそう厳しい声で言った。そしてぽかんとしている私の腕を引いて立たせると、そのまま強引に引っ張られて出口へ向かっていく。


「え、そ、蒼一さん!?」


 何が起こっているのかいまだに理解が追いつかない私は、されるがまま彼に引かれていく。蓮也すら、呆然として私を止めることをしなかった。すごい力で引っ張られながら、玄関でなんとか靴をつま先に引っ掛けて履いた。蒼一さんは一度も私を振り返ることなくどんどん進んでいく。


 蓮也にお礼の言葉を言う余裕もなく、私はその場から出て行ってしまったのだ。


 外はもう夜になっていた。心細いライトが道を照らしている。空はほとんどが雲で覆われていて星は見えなかった。でも、ほんの少しの隙間から満月がひっそりと顔を出していて私たちを見守っていた。転ばないように必死に足を回転させながら、蒼一さんに言わなくてはいけないことがあるんだと思い出す。


 ただ、あまりに急だったから、心の準備も何もできていない。それに今、蒼一さんに話す雰囲気でもない。どこかピリピリしてる空気に、告白なんかできそうになかった。


 ずんずんと二人進んでいく。人気のない静かなアパートの前には、蒼一さんの車がひっそり止まっていた。いまだ私の手首を握って進み続ける背中に、私は声をかける。


「あの、蒼一さん!? わた、私荷物が」


「また取りにくればいい」


「いや、お邪魔してたのにお礼も言えてなくて、蓮也とお姉」


 私が蓮也の名前を出した途端、蒼一さんが突然足を止めた。ずっと引っ張られていた私は止まりきれず、彼の背中に勢いよくぶつかってしまう。よろめきながら体制を整えると、蒼一さんが振り返った。ぼんやりとした夜の世界に、余裕のなさそうな彼の表情が浮かび上がる。


 突如、彼は私を両手に抱きしめた。息が止まりそうなほど強い力だった。ぽかん、としてしまう。


 背中に回されたその腕は熱い。いつだったか家で彼に抱擁されたことがあった。立ちくらみだ、と笑っていたけれど、では一体これは何?


 彼の背中に手を回す勇気はなかった。ただ棒立ちになりながら、そのぬくもりと香りに包まれてされるがままでいる。


 ただ、もう会うこともないかもしれないと思っていた好きな人が目の前にいて、私を抱きしめてくれている。それだけで、自分の涙腺が緩むには十分なことだった。


 もしかして、今なのかな。言うべきタイミングは。よくわからない状態だけどこれ以上のきっかけなんかないかもしれない。


 私はなんとか声を出そうと思ったとき、それより早く蒼一さんの声が漏れた。


「何でよりにもよってここにいたの……」


「え」


「ううん、違うね。僕が全部悪かったんだ、咲良ちゃんが出て行ったのは僕のせいなんだから、こんなことを言う資格ないんだけど」


 そして耳元で、蒼一さんが苦しそうに呟いた。




「ずっと好きだった」




 聞き間違いかと疑った。夜風に紛れて落ちた何か適当な音を、私が脳内で求めていた言葉に置き換えたのかと。


 だって、そんな言葉が耳に届くはずがない。ほしくてたまらなかった言葉を、蒼一さんが言うわけがないんだから。


「…………え」


 それでも、信じられない私に再び彼は言葉をかけた。さっきより少し大きな声ではっきりと、呟く。


「咲良ちゃんがずっと好きだった」


 夜風の悪戯などではなかった。間違いなく蒼一さんの声が私の脳を揺らした。状況についていけない自分は声も、それどころか吐息も漏らせずにただ黙っていた。


 そっと蒼一さんが私を離す。視界に入ってきた顔は切なげで苦しそうな顔だった。私を覗き込むその瞳が、潤んで揺れていた。


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