第42話 咲良の答え②

 私がポツリと呟くと、お菓子を食べていた蓮也の手がピタリと止まった。彼はゆっくりこちらを見る。苦笑して続ける。


「朝離婚届を渡してきたんだ。蒼一さんのお母さんにだけど。だからまだ提出してないから正式にじゃないけど、そのうち成立すると思う」


「……蒼一って人はそれでいいって?」


「ううん。何も言わずに出てきちゃった。きっと驚いてるけど、でも蒼一さんが離婚を拒否する理由はないもん、結果は変わらないと思う」


 蒼一さんは他に大切に思う人がいるんだ。こんな形だけの夫婦生活にピリオドを打つことには賛成するだろう。ただ、一人で勝手に決めたことだけは怒るだろうけど。


 蓮也は黙っていた。きっとなんて返答していいのかわからなかったんだと思う。私は食欲がなかったけど、出されたお菓子に手をつけてみる。せっかくもらったのに食べないと申し訳ない。


 甘い味を口に入れて頬張っているところに、蓮也が声を出した。


「……あのさ」


「え?」


「じゃあ、なんであんなに泣いてたの」


 彼はまっすぐな目でこちらを見ていた。その視線に囚われたようにこちらもピタリと動きを止める。蓮也は真剣な面持ちで続けた。


「あんなに泣いてた。姉ちゃんの身代わりの政略結婚だったんだろ? 早いとこ離婚出来てよかったじゃんって俺は思ったけど違うの?」


「そ、れ、は」


「なんかあったの?」


 蓮也の質問に、私は何も答えられなかった。蒼一さんが好きだったから、と答えてしまおうかとも思ったが、なかなか言葉に出てこない。


 困っている私を見て蓮也が慌てる。


「ごめんごめん、言いたくないならいい」


「ううん」


「無理しなくていいから。うんほんと」


 蓮也はそういうとお茶を飲み干し、おかわりを取りに立つ。背の高いその後ろ姿をぼんやり見つめる。


 冷蔵庫を開けながら蓮也は続けた。


「その、俺みたいな一般人は政略結婚とか無縁の話だからよくわかんないし。結婚は好きな人とするもんだって感覚だから」


「好きな人……」


「もちろん政略結婚が悪いなんて言わないけどさ。それでうまくいってる人も沢山いるんだし。ただ別世界って思ってただけ。咲良の家は金持ちだって噂では知ってたけど、咲良からは全然そんな感じしなかったから」


「それどういう意味?」


「あー! 悪い意味じゃない! 咲良はこう、いい意味で普通だったから! ほら、どっちかっていうと桜の姉ちゃんは金持ち臭バリバリだったし」


「あは、金持ち臭?」


 その言い方につい笑ってしまう。うちはそんな金持ちってわけじゃないと思うんだけどな。でも確かにお姉ちゃんはエステとかブランドとか好きだったかも。


 蓮也はさらに慌てて言う。


「ごめん、変な意味じゃない! こう、ビシッとして持ってる物とかも良いものが多かったから」


「うんわかるよ。私とお姉ちゃんは似てなかったもん」


「あーまあ、似てない、かな」


 言いにくそうに蓮也はモゴモゴと答えた。私は小さく笑って答えた。


「自覚してるからいいの。お姉ちゃんは美人でしっかり者だったから。正反対だって、子供の頃から思ってた」


「美人? ではあるかもだけど、俺はキツそうで無理だよ。あ、ごめん悪口じゃないんだけど」


「変わってるね。私の周りの人はみんなお姉ちゃんに憧れてたよ。蒼一さんだって」


 言いかけて止まる。蒼一さんの話題なんて出すつもりはこれっぽっちもなかったのに、つい名前を出してしまった。


 お姉ちゃんと一緒にいる時の蒼一さんは子供みたいだった。私には結局一度もそんな顔を見せてくれなかったけど。子供の頃からあれだけ長い時間一緒にいたんだ、きっとすごく好きだったはず。


 ……その代わりに、なりたかった。


 涙で目のまえが滲んでくる。そんな様子に気づいた蓮也が隣で戸惑っているのを感じた。必死に鼻を啜りながら答えた。


「ごめん、やっぱりお姉ちゃんにはなれなかったなって思っただけなの、私あんな器用じゃないししっかりしてないから」


「そんなこと」


「もう少し上手くやりたかったな。頑張ったつもりだったけど。もうちょっとお姉ちゃんみたいに」


「咲良」


 低い声がして隣を見る。その動きで、目から涙が落ちてしまった。蓮也は真面目な表情でじっと私を見ていた。


「咲良は咲良じゃん。俺はそんな咲良がよくて好きだって言ったんだけど」


「……あ」


「だからそんなに自分を責めなくていいじゃん」


 恥ずかしさと、どこか嬉しさもあって俯いた。顔が熱くなるのを自覚する。


 結局蒼一さんには受け入れてもらえなかった自分が、誰かに好きだと言ってもらえるのは嬉しいことだった。自分はこのままでも価値があるんだ、って。そう思えるだけで少しだけ心が救われた。


 蓮也も言って恥ずかしくなったのか顔を背ける。


「いや、ごめん。別にあの告白についてなんか言ってほしいわけじゃないから」


「うん……」


「でも覚えててほしい。俺は正直咲良が離婚できたって聞いて喜んでるよ」


 しっかりした口調でそう断言され、びくっと自分の体が反応した。忘れていたわけじゃないけど、蓮也が私を好きと言ってくれているのはなんだか信じられないと思う。

 

 彼は仲のいい友達だ。居心地が良くて、一緒にいるとつい気が緩む。だからこそ、いっぱいいっぱいの私にそんな優しい言葉は反則だ。


 全部吐き出したくなる。蓮也に言ってもどうしようもないのに、聞いてほしいと思ってしまう。


 蓮也が持っていたグラスを置く。私は少しも動かないまま自分の膝を見つめていた。


「咲良?」


 蓮也がこちらを覗き込んでくる。とうとう止まらなくなりポロポロ溢れでた涙が自分の拳を濡らしていく。涙ってこんなに出るんだ、なんて感心するほどだった。


「私、蒼一さんと結婚したかったんだ」


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