第34話 咲良の決意⑦




 翌朝。


 部屋に篭っている私に、蒼一さんは仕事に行ってくるねと声をかけてくれた。私ははい、とだけ小さく返事を返した。彼は再度、「落ち着いたらちゃんと顔を見せて話して」と私に念押しした。


 それに対しては返事をしなかった。蒼一さんはそのまま会社へ向かっていった。


 彼がいなくなった後ようやく自室から出た。ダイニングには私の分のおにぎりが握ってあった。それを見ただけでわっと泣けてしまい、溢れる涙に戸惑う。


 最後くらいちゃんといってらっしゃいを言えばよかった。顔を見て笑顔で送れればよかった。でも、そうしたらきっと私はまた進めなくなってしまう。


 だから、あなたに会わないのは正解だったはずなんだ。


 私は必要なものを持つと、そのまま家を出た。そしてすぐ近くにある蒼一さんのお母様たちの家にたどり着く。


 インターホンを鳴らすと、出たのはお母様だった。朝早かったので山下さんもまだ来ていないようだった。


 玄関が開かれると、どこか余裕のあるお母様の顔がこちらを見ていた。彼女は微笑み、全てを理解しているような表情をしていた。泣き腫らした私の顔を見て、察したのかもしれない。


 上がって、という言葉を丁重にお断りした。私はカバンに入っていたものを取り出した。


 サインした離婚届だった。


 目の前の人はそれを見て優しく微笑む。受け取り、私に労いの言葉をかけた。


「ありがとう、思えばあなたも急な政略結婚だったのに頑張ってくれました。とても感謝しています」


 私のサインを眺めながらお母様は優しくいった。私は俯いたまま、淡々と述べる。


「提出時期はお任せします。タイミングのいい時に出してください」


「分かりました、正式に手続きが終わったら連絡しますから」


「はい」


「お疲れ様でした。これであなたも自由ですから。ご両親には私から説明しておきます。蒼一とは?」


「……特に話していないので、お母様から伝えてください」


 何度か頷いた。私は最後に深々と頭を下げる。


「お世話になりました」


 私の挨拶に、お母様は優しく笑った。初めてみる笑顔だった。結婚してからは一度もそんな顔を向けられたことはなかった。


 いつか義両親にも認められたい、笑いかけられたいと思っていたけれど、それが離婚する時に初めて叶うだなんて。皮肉にも程がある。


 私はそのまま背を向けて家を出た。お母様はもう何も言わなかった。


 多くなってしまった荷物をしっかり持ち、歩き出す。空を見上げればどんより厚い雲に覆われていて、太陽も鬱陶しそうだった。


 今にも雨が降りそう。


 すぐに前を向いて足をすすめる。しっかりした足取りだったはずなのに、数歩進んだだけでふわふわとしたものに変わっていた。地面が揺れ動いているような不思議な感覚に陥り、転んでしまいそうになる。


 もう引き返すことはできない。そう再確認すると、枯れたと思っていた涙がどっと溢れてきた。いい加減涙腺もどうにかしてほしい、泣きたくないのに。


 蒼一さんは驚いて怒るだろうな。どうして相談しなかったのと言うだろう。言えなかった私が悪い。でもどうしても私の口から言えなかった。言いたくなかった。


 でもきっといつかはこうなるはずだった。


 手すら繋ぐことなく部屋は別々。誕生日は他の人に祝ってもらいたいと思われた時点で、私がどう頑張ってももう無理だった。


 こちらが進みたいと懇願してもできないと言われた。そりゃ諦めるしかないよ。


 諦めるしか……ないんだよ。


 次から次へと溢れる涙を必死に拭き取る。泣きながら歩くなんて、周りの人にびっくりされちゃう。だから泣き止まなきゃ。いい思い出ができたと思おう、手が届かない人と一時だけでも夫婦になれた。


 結婚式を挙げて、パーティーでは妻ですと紹介してもらえたんだから。


 その思い出だけで生きていける。


「……実家、帰ろうかな」


 ポツリと呟く。昨日の今日の展開で、まだお母さんたちには何も言えてない。帰ったらきっとお母さんは優しく受け入れてくれるだろう。


「でも、喧嘩するだろうなあ」


 絶対お父さんと喧嘩するのは目に見えてる。私のせいでそんな姿になるの見たくないんだけど……。


 しばらく安いビジネスホテルとかに泊まろうかな。今は実家に帰って蒼一さんと離婚しただなんて説明する力はない。そうだ、そうしよう。一人でぼうっと過ごすんだ。


 鼻水さえ垂らしながら私はフラフラと歩き続ける。スマホでどこかホテルを探そうか、とぼんやり鞄を漁った時、背後から声がきこえた。


「咲良?」


 それに反応して振り返る。立っていたのは蓮也だった。彼だと気づいた瞬間慌てて顔を背ける。こんな情けない顔を見られるなんてごめんだったのだ。


 だが彼にはしっかり見られた後らしい。驚いた表情で私に近づいた。


「ど、どうしたんだよ」


「いや、ちょっと」


「何その荷物? なんかあったのか? 咲良?」


 焦ったように聞いてくる彼に私は黙り込んだ。でも、懐かしいその声はやけに私の涙をさそってくれる。再び一気に泣けてきてしまう。


 もう終わったんだ。蒼一さんと私の関係は。


 最後くらい好きでしたって、言えばよかったのかな。


 嗚咽を漏らしながら泣く私を、蓮也は黙って待っていてくれた。行き交う人たちは不思議そうに私たちを見てきたが、彼は何も気にする様子もなく、ただただ私の涙が止まるのを待っていてくれたのだ。







 

 

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