第33話 咲良の決意⑥
心は私のそばになくても、せめて……。
「ま、ってくれる、今」
混乱するように彼は片手で頭を抱えた。私はそんな蒼一さんを置いて、着ていたパジャマのボタンを外した。蒼一さんがハッとした顔になる。震える指先でなんとかボタンを外しながら笑ってみせる。
「深く考えなくてもっ、気持ちなんてなくていいんですし。昔の人だってお見合いですぐ結婚して、それから夫婦になっていったんですし! だから」
だから、どうかこのまま私を受け入れてくれませんか。
涙目になりつつ最後のボタンを外しかけた時、蒼一さんの手が伸びてきた。反射的に顔を上げると、彼は厳しい顔をしていた。
そしてその手は私に触れることなく、ほとんど開いていた私のパジャマを閉めた。
最後のボタンを握っていた自分の手が止まる。
このまま脱ぎ捨ててしまいたかった布は、彼にしっかり握り締められそれが出来なくなっていた。
蒼一さんの茶色の瞳に私が映り込む。とんでもなく情けない顔をしていた。
「どうしたの。誰かに何か言われたの?」
「……え」
「うちの母? 何を言われたの? そうじゃなかったら、咲良ちゃんがこんなことするはずないよね」
真剣な顔で私にそう尋ねた。返事はできなかった。
彼は少しだけ目を細め、苦しそうに言った。
「僕はできない。
気持ちがないのにそんなことはできない」
気持ちが、ない
それが全ての答えだという一文だった。
いや、そんなこと知っていたはず。でも直接その口から聞くのはまた違う。
自分の存在全てを否定されたような、死刑宣告をされたような、言葉には言い表せられない絶望を知った。
我慢して涙がついに頬をつたる。
蒼一さんは強く私に言った。
「教えて。どうしてこんなことを? 誰に何をされた?」
「…………」
「ちゃんと話してほしい」
私の口から音は何も漏れてこなかった。
じゃあここで言うの? 跡継ぎが作れないのなら離婚しろって言われています、と。そんな言葉を私の口から言わせるの? そう言ったあとあなたはどうしてくれるの?
優しく励ましてまた形だけの夫婦に戻るんですか?
それとも仕方ないから愛がないけど抱いてくれる? こんな話までしなければ私は抱いてもらえないんですね。
頭の中で生まれる言葉は全て外に出てきてはくれなかった。ただショックと虚しさで押しつぶされた私は、自分の心が音を立てて割れるのに気がついた。
「咲良ちゃん?」
困ったような蒼一さんの声が聞こえる。未だ私のパジャマを握る彼の手に私の涙が溢れた。目の前の蒼一さんは本当に私を心配してくれている。そんな優しい表情も、今は残酷なだけ。
やっぱり無理なのかあ、そんな都合のいい話。
心がここにないのに夫婦でいたいなんて。難しいことだったんだ、私たちはもうどうしようもできない。
「咲良ちゃ」
呼んでいるその声を置き去りにし、私は立ち上がった。そして蒼一さんに背を向けて部屋から走り出した。
「咲良ちゃん!」
私はそのまま自分の部屋に入り込み、鍵を掛けた。すぐに背後にあるドアが強くノックされる。苦しそうな蒼一さんの声が扉越しに聞こえてくる。
「ちゃんと話してほしい。お願いだから、抱え込まないで」
優しい言葉が私を追い詰める。私はそれに答えず首を振った。
「……今は一人にしてください」
こんな情けない姿を、顔を見られたくなかった。無造作にボタンが開いた洋服。初めて蒼一さんと夜を過ごした時の虚しさが蘇る。
女として拒絶されることがこれほど痛いなんて。
しばらく沈黙を流した蒼一さんは、少しして小さな声でいった。
「分かった、でも落ち着いたら必ずちゃんと話して。待ってるから」
そう言って、私の部屋の前からいなくなった気配を感じた。
私はただ呆然とその場に立ち尽くし、涙でぐちゃぐちゃになった顔もそのままにしていた。
フラフラとおぼつかない足取りで、近くの引き出しを開く。そこには以前、蒼一さんが買ってくれた結婚指輪があった。あのパーティー以降、一度も付けられていない。
蒼一さんはしっかり指輪をしてくれていることに気がついていた。それは素直に嬉しかった。だが、普通に考えれば仕事もある彼が指輪を外していては仮面夫婦ですとバラすようなもの。ご両親のこともあるし、付けざるを得なかったんだろう。
新品同様のそれを取り出す。彼が贈ってくれたそれはあまりに美しく、愛しかった。
じっとそれを眺めながら、もう引き返せないことを悟る。
「……いい加減、ちゃんとしなきゃ」
鼻声の自分の言葉が溢れた。
一方的に好きなだけじゃ何も変われない。
何も生まれない。
人の心は操れない。
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