第32話 咲良の決意⑤




 夜になり、私は自分の部屋でベッドに腰掛けていた。


 帰宅した蒼一さんとは普段通り接し、共に夕飯をとった。だが食欲がなく箸が進まない私を彼は心配してくれた。


 おやつを食べてしまいお腹が空いていない、ということにして笑い誤魔化す。彼は信じたようで安心した顔を見せていた。


 一通り後片付けや入浴も済ませ、いつも通りおやすみなさいと挨拶を交わして自分の部屋に入った。彼と二人で買ったベッドがそこにはひっそりとある。


 そこに座り込み、じっと考えていた。


『あなたの決断で、幸せになる人たちがたくさんいますよ』


 最後に聞いたあの言葉が自分の胸を突き刺す。もやもやして、痛くて、悲しくて、虚しかった。


 自分が座っているベッドのシーツをそっと撫でる。やっぱりベッドを買おうと言われた時、もっと強く拒否すればよかった。部屋を別にされてから私たちの距離はもっとできた気がする。

 

『これだけ一緒にいて夫婦ごっこでは、もう進むことは無理でしょう』


 一番痛いところを突かれた。ぐうの音も出ない正論だ。


 もうそろそろ三ヶ月。蒼一さんと一緒に暮らしてそれぐらい経つことになる。なのに、いつまで経っても私たちはただの同居人だ。今更ステップアップすることはまずない。


 しかも彼にはもっと大事な人がいるみたい。笑えてくる、こんなにそばにいたのに選んで貰えないなんて。


 目から流れた水を着ているパジャマの袖で拭き取った。鼻をずずっと啜る。


 だが私は必死にその涙を堪えた。泣いてる場合じゃないと思ったからだ。


 お母様の言うことは尤もで反論のしようがない。それでも、形だけでも、蒼一さんの妻は私だ。たった紙切れ一枚の約束だけど、紛れもなく私が結婚している。


「……負けたくない」


 いくら蒼一さんが私を好きじゃなくても、私の元へ帰ってくるのを義務だと思ってるとしても、私は彼と離れたくなかった。狡いと自分でもわかってる。


 でも手に入らないと思っていた相手がこんなに近くにいる。それだけで奇跡なんだ。私はこの奇跡を手放したくない。


 決意する。


 私は一度深呼吸をして立ち上がる。もう一度涙を拭き取って泣いていたことがバレないようにする。


 そのまま自室を出た。すぐ目の前にある茶色のドアの前に立ち、ぐっと顔を上げる。


 全身は震えて言うことを聞かないぐらいだった。それでも覚悟を決め、私はその扉をノックする。


「はい」


 中から蒼一さんの声が聞こえた。少しして、扉が開かれる。そこから彼の顔が見えた。


 不思議そうな表情で私を見下ろしている。


「どうしたの? なんかあった?」


「……今、ちょっといいですか」


「え? う、うん。いいよ。じゃあリビングに」


「ここでもいいですか。少し話したいんです」


 どこか戸惑ったような顔で、それでも微笑んでくれた。蒼一さんが中へ招き入れてくれる。


 まだ結婚したての頃二人で寝たベッドが見えた。かなり大きくて、今は蒼一さんだけのものになっている。それを見ただけで胸が苦しくなった。


 蒼一さんがベッドに腰掛ける。私はその隣に座り込んだ。ほんの数十センチの距離がある。そのもどかしい隙間が、私たちの関係を表しているように思えた。


「どうしたの、なんかあった?」


 優しい声でそう聞いてくる。私はバクバクと大きく鳴る心臓を賢明に抑え、なんとか言葉を出した。


「あの。ずっと、思ってたんです」


「うん?」


「お姉ちゃんがいなくなって、その代わりに私が立候補して。結構な時間が過ぎました」


「……そうだね」


「私たちこのままでいいのかなって」


 蒼一さんが黙る。きっと、彼も心の中で思っていたんだろう。この中途半端な関係をこのままにしておくべきじゃない。


 私はぎゅっと拳を作る。唾液を飲み込むのさえ困難なほど緊張しながら、それでも続けた。


「前、パーティーを頑張ったから、何かお礼をしてくれる、って言ってましたよね」


「……うん、言ったね」


「まだ有効ですか」


「ああ、もちろん。なんでも言って」


 どこか小さな声でそう言った。その言葉を聞いて、私は体ごと彼の方を向く。蒼一さんはチラリとだけこちらを見た。なぜか切なそうな顔に見えた。


 私は彼の目を見ることができず、少し視線を落としたまま、それでもしっかりとした声で提案した。


「……進みませんか」


 私の言葉に、彼は一瞬キョトン、と表情を変えた。


 カラカラに乾いた唇を少しだけ舐め、私はさらに続ける。


「別に、その、気持ちなんてなくていいんです。他の誰かに見立ててもらってもいいですし、そこまでは求めません。ただ、このままでいるのは」


「咲良ちゃん? えっと、何のこと?」


 戸惑うように蒼一さんが聞き返す。私は意を決して彼の目を見、一番言いたかったことを一気に言った。


「抱いてくれませんか」


 油断したら泣いてしまいそうだった。


 蒼一さんは目を丸くして私を見ている。恥ずかしくて、情けなくて、でもこうするしかないんだと自分を励ました。


「………………え?」


 彼の唇が小さく動く。訳がわからない、というように私を見つめていた。


 女の自分からこんな提案をすることが、どれほど滑稽でみっともないかわかっている。それでも足掻くにかこれしかなかった。気持ちがなくても、たとえ仮面夫婦でも、あなたの側にいる方法は他にない。


 幼い頃から抱いてきた片思いを、手放すことはしたくなかった。この際愛されたいなんて贅沢は言わない、ただあなたと離れたくない。

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