第31話 咲良の決意④

 跡継ぎ。その単語が頭の中でぐるぐると回った。愛想笑いも、ごまかすこともできず、私はただ停止してお母様の顔を見ていた。夫婦としてうまく行っている、の意味がようやくわかった気がする。


 私が固まっているのを見て、お母様の目がすうっと細くなった。そのまま沈黙が流れる。


 ああ、そうだ。なぜ忘れていたんだろう。


 蒼一さんは天海の一人息子でいずれは会社を継ぐ人だ。当然跡継ぎがいなければならない。まだまだ先のこととはいえ、大事なことだ。


 でもわかりきっている。私たちに跡継ぎなんてできるはずがない。そんな関係じゃないからだ、夫婦ではなく同居人としてうまく行っているだけだから。


 一気に全身が冷える。大事なことをすっかり忘れていた自分に恐ろしいとすら思った。目の前が真っ暗になる、とはこういう時に使うんだと知った。


 お母様はふうと息を吐く。私は膝の上に置いた自分の手で拳を握った。手のひらに食い込む爪が痛い。それでも震える手を必死に抑えるにはそれしか方法がなかった。


「やっぱりねえ。パーティーであなたたちを見て、上手く装っていたけどそんな気がしてました。どこかよそよそしいんですよ。夫婦というより兄と妹です」


「…………」


「咲良さん。あの結婚式の日、あなたの提案により式を台無しにせずにすみました。それは本当に感謝しています。でも私はずっと心配だったんです、蒼一は天海の跡取りですから、夫婦ごっこじゃ困るんです」


 何も言い返せない。私はただ茶色の液体を呆然と眺めていた。お母様の言葉が続く。


「もう一緒に暮らして……どれくらい経つかしら? あなたは可愛らしい人だけど、綾乃さんには似てませんね」


「は、い……」


「蒼一もしばらくは綾乃さんのことを引きずってるんだろうと思ってましたが、これだけ一緒にいて夫婦ごっこでは、もう進むことは無理でしょう」


 そう言ったお母様がゆっくり立ち上がる。近くにあった引き出しから何かを取り出した。それを手に持ち、私の前に再び座る。


 テーブルの上に紙が一枚置かれた。


「咲良さん。蒼一と、離婚していただけませんか?」


 離婚届、と書かれた文字だけを、私はじっと見つめていた。


 お母様が言いたことは理解した。

 

 私たちの関係を見抜いている。このままでは天海家の跡継ぎは期待できない、だったら早いうちに離婚してくださいと言いたくて今日私を呼んだんだ。


 親として、天海家の人間として、彼女がそう心配するのはしょうがない気がした。


 お母様は紅茶を啜りながら続ける。


「まあ戸籍が汚れるなんて確かに世間体はよくないですよね、盛大に結婚式も挙げましたし、藤田家との繋がりがなくなるのはとても痛いのも事実です。でも跡継ぎが出来ないことに比べれば些細な問題です。

 それにこれは藤田家のためでもありますよ」


「え……」


「綾乃さんがこのまま見つからなければあなたの家も跡継ぎが困るでしょう。蒼一とは別れて、あなたは好きな男性を婿にでもとりなさい。それが一番平和な終わりです」


「…………」


 ティーカップを置いた音がやけに部屋に響いた。好きな男性、という言葉が胸に残る。


 私の好きな人は今も昔も蒼一さんだけだった。子供の頃から気がつけば憧れの人になっていた。


 叶うはずがないとわかっていてもこっそり抱き続けたこの気持ちが、ようやく報われるとあの日は思っていた。


 離婚届の文字だけをぼんやり見つめる。お姉ちゃんの代わりに結婚式に出た時、まさかこんな日が来るなんて全く想像していなかった自分は想像力がなさすぎた。


「それにね。蒼一の次の結婚相手には、もう心当たりがあるの」


「……え?」


「あなたもご存知でしょう? あの子と同じ職場の」


「……新田さんですか?」


 唖然としてその名を呼んだ。お母様は返事をしなかったが、こちらを見て少しだけ微笑んだ。


 もう息さえも上手く出来ている自信はなかった。この前の誕生日の一件をみても、蒼一さんが新田さんに好意を持っているのは間違いない。とてもお似合いだと私ですら思う。


 何も言えない私を見てお母様は言う。


「彼女の気持ちはもう確認済みです。気が利くし頭もいい。何より蒼一の仕事に対して理解があります。妻として相応しい」


「そ、蒼一さんはなんて?」


「言いましたね、あの子は優しすぎる。きっとあなたに罪悪感を感じて離婚なんて言い出せないでしょう。だからあなたに頼んでいるんですよ」


「私」


「よく考えてくださいね咲良さん。

 あなたの決断で、幸せになる人たちがたくさんいますよ」


 そう言い切ると、お母様はじっと私を見た。逃げられないような強い視線で私を捉えている。


 二人しかいない広い家で沈黙が流れる。瞬きをするのさえ許されないような圧迫感で、私は苦しくて倒れそうだった。


「……考え、させて、ください」


 必死に絞り出した声でそれだけ答えた。目の前に置かれた紅茶はほとんど中身が残ったまま冷めていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る