第35話 蒼一の決意①

 絶対に何かおかしい。私はそう確信していた。


 咲良が昨晩行った行動には、人生で一番驚かされたかもしれない。いまだに自分の胸は落ち着かずソワソワしている。


 夜、話したいことがあると私の部屋を訪れた咲良は、わかりやすいほど表情を強張らせていた。ああ、ついに終わりの相談か。私はそう思っていた。


 本当は私から切り出そうと思っていたのだ。あのケーキの一件で、やはり咲良は今も想いを寄せる人が他にいるのだと再確認させられた。いい加減この夫婦ごっこの終焉を相談されるのかと思った。


 元はと言えば私が綾乃と共謀して無理矢理結婚させたようなもの。このわがままに付き合わせて本当に申し訳なかった。もう彼女のことは諦めて解放と考えていた。


 ところが、だ。


 咲良が提案したのはまさかの「ステップアップ」。未だ他人でキスすらしていないのにまさかの提案だった。無理矢理引き攣らせた笑顔で彼女は言った。「気持ちなんてなくていい」「他の誰かと見立ててもらってもいい」そう震える声で述べたのだ。


 そんな彼女に手を出すなんてこと、できるわけがなかった。


 気持ちがない? 他人に見立てる? 咲良も私を他の誰かと思い込んで無理矢理事を済ますつもりだったんだろうか。一体なぜ彼女をそこまで追い込んだのか、私は理由が知りたかった。


 きっと何かあったんだ。間違いない。


 思い当たる節があるのがこれまた辛い。咲良との結婚をよく思っていない人間が少なからずいるのを知っている。誰かが何かを吹き込んで咲良を追い詰めたに違いなかった。


 泣いてしまった彼女は部屋から出てこず一人にしてほしいと言った。女性としてあんな発言をするのはとても勇気がいることだったと思うし、きっと羞恥を感じたに違いない。私は無理に追求せずとりあえず咲良の言葉に従った。


 今日の朝でさえ、咲良は部屋から出てこなかっった。


 仕事は休んでしまおうか、と悩んだが私は出社することにした。咲良は一人で考える時間が必要かもしれないし、何より確認したいことがあったのだ。


「天海さん」


 昼になり、私は今現在無人の会議室に新田茉莉子を呼び出した。彼女は普段と何ら変わりない様子で部屋にやってきた。


 私の誕生日の日、告白をしてきてくれたわけだが、あれ以降も彼女は普段と変わりない様子でしっかり仕事をこなしていた。そこは素直に感心している。


 私は立ったままデスクにもたれかかって彼女を待っていた。今日どうしても確認したいことがあったのだ。世間話も何もなく、私はすぐに本題を切り出した。


「呼び出してごめん、聞きたいことがあって」


「天海さんの呼び出しならいつでも答えますよ」


「単刀直入に聞くけど、咲良に何かした?」


 私の質問に、新田さんは強い眼差しでこちらを見上げた。


 あまり人を疑いたいとは思わない。だが、昨晩の咲良の原因を突き止めるためには仕方のないことだった。以前咲良の周辺を嗅ぎ回っていた彼女の顔が浮かんでしまうのは仕方ないこと。


 新田さんはふっと視線を逸らす。私は続けて尋ねた。


「昨日咲良の様子がおかしかった。あまり疑いたくはないけど、以前撮った写真のこととかあるから……何かした?」


「様子がおかしかったって?」


「それは言えない。でも、きっとひどく自分を追い込んでいる」


「それで、私が何かしたと?」


「気を悪くしたらごめん」


 彼女は少しだけ笑った。手入れの行き届いた髪の毛が揺れる。そして堂々とした顔で私の方を見る。


「いいえ、疑われてもしょうがないと思っていますよ。実際咲良さんのことを調べてた時期もありますし。でももうそれはやめました」


「やめた?」


「ええ、無意味だと思ったので」


 それは一体どういう意味なのだろうか。少し首を傾げる。私の気持ちを知りもう諦めたという言葉? だがあの誕生日の日、最後にうまく行きっこない、と言い放った彼女からは素直に諦めたという感じは見当たらなかった。


 新田さんからはどこか余裕すら感じられるほどだった。私に怯むこともなく、むしろ勝ち誇ったような顔で言う。


「咲良さんには何も接触してませんよ……私は」


 じっと彼女を見つめる。


 何もしてない、か。そうなれば私の中でもう一人浮かんでくる人がいる。あまり考えたくなかったが、実母だった。


 ずっと綾乃を可愛がり咲良には冷たくあたってきた人だ。あのパーティー以来まるで接触していない。やはり母が咲良に何か言ったのだろうか? しかし何て?


 咲良は他に想いを寄せる男性がいるはず。なのにあんなことをするだなんて、自分の理解が追いつかない。


「咲良さんに直接聞けばいいじゃないですか」


「……きくつもりだけど、今は話してくれそうにないから」


「あら。なんでも言い合えるってわけじゃないんですね」


「……仲がよくてもそういうこともある」


 苦し紛れにそう答えたが、彼女は微笑んだまま何も言わなかった。何だか居心地が悪く感じ、そのまま背を向ける。顔を見ないまま告げた。


「違ったならいいんだ、ごめん。時間を取らせた」


「いいえ。これで失礼しますね」


 新田さんはそういうとあっさりこの場から去っていった。いなくなったことにホッとする。そうか、彼女じゃなかったか。あの誕生日の日のことが引っかかっていたのだが。


 深いため息をついた。もう午後は休みをとって帰ろうか、と考える。このままでは仕事なんて手につかないし、今はとにかく咲良と話したい。あの子はいつも周りのことを考えて自分を蔑ろにする癖がある。これ以上追い詰めてほしくない。


 そう心に決めたとき、ポケットに入っているスマホが震えたことに気がついた。手に取り出し画面を覗き込むと同時に息をのむ。それは母からだった。


『仕事終わったら、うちに寄ってね』


 簡潔にそうメッセージが入っていた。そこで私はついに確信する。


 咲良のあの行動の原因は母だったか。きっと私の知らぬ間に咲良と何かあったのだ。頭を抱えて舌打ちをする。


 こんなことならもっと強く釘を刺しておけばよかった。時間が経てば母の気持ちも落ち着くだろうと甘く考えていた自分が悪い。


「くそ」


 スマホをポケットにしまい込むと、私はそのまま会議室を出た。仕事なんてしてられる余裕はなかった。乱暴に帰りの支度をすると、仲間に帰る趣旨を告げ仕事の指示だけ行うと、私は即座に会社を出た。


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