第26話 蒼一の戸惑い④

 その言葉で自分の体が停止する。彼女の手は未だ私の手の上にあった。新田さんはじっと黙ってこちらの様子を伺っていた。


 ようやく脳の処理が追いついて状況を理解する。私は戸惑いながらも、その手をサラリと払い一言だけ言った。


「帰る」


 そばに置いてある鞄を手に持つ。彼女を咎めることもしなかった。そんな時間すら惜しいと思ったし、とにかくここを去るのが一番だと思ったのだ。


 だが新田さんはすぐに私の袖を持って止めた。


「待ってください」


「帰るね。今日は急いでるんだ」


「みてほしいものがあるんです」


 そういうと彼女は素早くそばにあった鞄からあるものを取り出した。帰ろうとしつつ、それが気になってしまいチラリと視線を向ける。


 新田さんが取り出したのは写真だった。


 どこか野外で撮影されたものだ。中央に男女が立っている。短髪で背が高い青年に、もう一人はどこかあどけない顔立ちの女性。青年はしっかりとその腕に女性を抱きしめていた。


 北野蓮也と、咲良だ。


 息を止めてその写真を見つめる。それは自分の心臓が止まってしまったかのような錯覚に陥るほど、私は真っ白になった。


 やや遠目だが間違いない二人。


「これ、咲良さんですよね?」


 新田さんの冷ややかな声が響く。私は無言でその写真に手を伸ばして持った。穴が開くほど見つめるが、間違いなく咲良たちだった。


 混乱と嫉妬、自分を落ち着かせようとする心。全てが入り混じり、体が引き裂かれそうだった。


「白昼堂々と、こんなものが撮れましたよ。天海さんん、よろしいんですか」


 こちらの様子を伺うように彼女は言う。その声で我に返る。私は持っている写真を適当にテーブルに置いた。


「彼のことは知ってる、咲良の幼馴染みたいなものだから」


「でも男性ですよ、抱きしめるなんてあります?」


「仲いいんだよ」


「そもそも既婚者が異性と二人きりで会うなんてどうなんですか?」


「僕が行っていいって言ったんだよ」


 強い語尾で言った。そう、恐らくこれは咲良が相談してきたあの日のことだろう。自分の頭はめちゃくちゃに混乱しているが、一つ冷静にいられる点があった。強く抱きしめているのは蓮也の方で、咲良は驚いたようにその腕を下ろしていた。その景色がかろうじて自分を保てる真実だった。


 これで咲良の両腕が蓮也の背中に回っていた日には、恐らく私は狂っていた。


 蓮也の気持ちは知っている。多分だが、彼は咲良に想いを告げたんだ。その時のシーン、というところか。


「それより感心しないな、なぜ咲良をこんなふうに調べ回ったの? こんなの、狙わなきゃ撮れない写真だよね」


 私はじっと新田さんをみた。彼女は唇を固くとじ、私を見上げている。


 そう、こんな写真、偶然で撮れるわけがない。咲良の周辺を調べなければ無理なのだ。


 彼女は私の袖を再び強く掴んだ。そしてどこか涙を溜めた目で言う。


「分かりませんか……? 本当は知ってるでしょう、私の気持ちなんて。私はずっとずっと天海さんが好きだったんですよ」


 やや掠れた声でそう告げられた。私はわずかに息を吸ったまま返事に戸惑う。


 新田さんはそのまますがるように続けた。


「それでも、あなたには昔から婚約者がいたことは有名な話でした。相手は藤田グループの藤田綾乃、女の私からみても見惚れるほどの完璧な女性でした。片想いは秘めておこうと思ったんです。

 でも、少しでも天海さんによく思って貰える女になれるよう藤田綾乃を手本に頑張りました。仕事もあなたのサポートができるよう、外見にも気遣って、私は必死にやってきたんです。


 それがなんですか? いざ式になって出てきたのは妹の方。藤田綾乃とはまるで似てないどこにでもいるような子。そんなの、引き下がれると思います?」


 震える声で私に言う。情けなくも、自分は言葉をなくして何も返せなかった。


 彼女の好意はまるで気がつかなかったといえば嘘になる。確信はしてないが、もしかしたら、と思うことはあった。それでも気づかないふりが一番かと思っていた。仕事上よきパートナーとして過ごすのがいいんだと。


 そうやって誤魔化してきた自分の対応が悪いのか。


「お願いします天海さん、こんな結婚終わりにしてくれませんか? いえ、立場上それができないなら、そのままでもいいから私を見てくれませんか?」


「に、新田さん」


「どう考えても藤田咲良はあなたには不釣り合いです。パーティーの時は上手く誤魔化してたけど、腕のいいメイクでもつけばあれぐらい女は化けれます。普段の彼女は地味で子供らしくて、あなたの隣には相応しくないです」


 彼女はついに頬に涙をこぼした。私の袖をしっかり握りしめ、離さない。小さなその手で必死に握るその様子に胸を痛める。


 それでも私はそっと袖から彼女の手を離させた。ここで情を見せるわけにはいかない、と思った。


 彼女を傷つけたのは悪かった。自分の中途半端な態度が良くなかったのだと反省せねばならない。


 しかし今彼女の涙を拭うのは違う。私が守るべき相手は非情と言われようと新田さんではなく咲良だけなのだ。


「……ごめん、そこまで僕を想ってくれていたのは知らなかった」


「天海さん、私」


「でも君の気持ちには応えられない。

 いい? ふさわしくないのは咲良じゃない。僕が咲良にふさわしくないんだ。僕は妹としてなんかじゃなく、本当にあの子が好きなんだよ」


 正直に残酷とも言える真実を告げると、彼女は信じられない、とばかりに目を丸くして首を振った。


「嘘」


「嘘じゃない。だから新田さんの気持ちには応えられない」


「あの子の何がいいって言うんですか?」


「全部だよ。優しくて明るくて癒してくれる」


「私は違うって言うんですか?」


「少なくとも僕にとっては。

 もうこんなことはやめて。咲良には関わらないでほしい。僕の大事な人を傷つけないで。咲良に何かすれば、絶対に君を許さない」


 愕然とした顔でこちらを見上げている。それ以上私は何も言わなかった。


 テーブルの上に置きっぱなしの写真を手に取って小さく破いた。第三者から見たら誤解を招きかねないものだ、残しておくわけにはいかない。


「この写真の画像、持ってるよね? 申し訳ないけど消してくれる?」


 私が告げると、彼女は涙まみれの顔で笑った。肩を震わせ髪を揺らす。


「人をこっぴどく振っておいて、すぐに他の女の心配するんですか、ひどい人」


「ごめん。でも大事なことだから」


「消しておきます。あなたに見せたかっただけだから」


「……ありがとう」


 私は今度こそ自分の鞄を持った。冷たいと思われようが、これ以上彼女を慰める方がよくない。もうここから立ち去らねばならない。


 伝票を手に立ち上がり新田さんの背後を通ると、最後に彼女はキッパリ言った。


「上手くいきっこないですよ」


「……え?」


 振り返ると、彼女は真っ赤な目でこちらを見上げていた。強い眼光で再度言う。


「姉の代わりに政略結婚させられたあの子となんて、上手くいきっこない。きっとすぐ終わりは来ます」


 心にストレートパンチを喰らう。それでも私は何も言い返さなかった。無言で頭を下げ、新田さんを置いてそのまま店を後にした。


 外に出るともうすっかり暗くなっていた。時計を見、思っていたよりずっと遅くなってしまったことを悔やむ。


 私は落ち込む心を奮い立たせ、足早にそこから立ち去り、咲良が待っている家へと帰った。





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